日本に残る 中国系の地名考
                                     ー 中国 春秋戦国時代の呉・越を通してー
      1.はじめに
        日本人の起源とは、よく歴史書に記述されるテーマではあります。拙稿 日本に於ける 「稲作」 のはじまりについての覚書 
       も、そうしたテーマに関する私なりの理解の道程であります。

        そうした日本人論を調べていく過程で、日本国内にある地名には、何かしら中国系のにおいを感ずる地名がありそうだと、思
       うようになりました。

        今回は、そうした地名考をまとめてみました。

      2.日本に残る4文字熟語 「臥薪嘗胆」・「呉越同舟」
         中国 戦国時代(紀元前6〜5世紀頃)の頃の事のようです。
         「(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 〜紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。
        君主の姓は姫。元の国号は句呉。」とか。
  
         「呉の成立については詳しいことはわかっていないようであり、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載
        っているという。
         周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。
        長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に
        推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は
        蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立
        て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという 

           *   
しかし、この逸話は実際に南方の蛮族である呉が後に春秋の覇者となった時の美談として創られた可能性が高いと見る史家も
                    多く、どうやら太伯と虞仲の末裔は、呉の兄弟国(実際に呉とは別系統らしく、虞は周王室の連枝という)とされる、夏の古都を拠点
                   とした虞(山西省を拠点とし、後年に大夫の百里奚の諌言を聴き容れなかった虞公は、晋の献公の言いなりにされた挙句に滅ぼさ
                  れた)のことを指すらしいと言うが 、その出典は、はっきりとせず、定かではないという。*
                 
         6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しか
        し新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾
        践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。夫差はそ
        れに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原(長江と准河の間にある地域の平原地帯 江准の間
        と中国では、言われる地域)に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越に
        より滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとし
        たが、宰相の范蠡に「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているの
        です。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」と言われ、和議を蹴った。そ
        れでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びたという。

         夫差は越に父 闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び
        起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。こうした故事から臥薪嘗
        胆の言葉が生まれたともいい、また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれたともいう。

         ちなみに中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説( 魏志倭人伝にも、そのような記述がありました。それは、体中に刺青
        をしている事でありましょうか。・・筆者注)があり、それが日本にも伝えられて林羅山などの儒学者に支持されたといい、徳川光圀
        は、これを嘆いて歴史書編纂を志したのが『大日本史』執筆の動機だったといわれている。 」とか。
                    ( 上記は、ウィキペデイア フリー百科事典からの引用であります。詳しくは、下記 HPにて参照ください。
            http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)  最終更新 2012年4月3日 (火) 13:52 )

         「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、復讐のために耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、中国の
        故事成語である。紀元前6〜5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来するという。
         この成語の現在確認できる初出は、「嘗胆」のみならば『史記』巻41越王句践世家、「臥薪嘗胆」と揃った形で存在する説話は14
        世紀前半に成立した『十八史略』である。ようです。

         その意味する事とは、『史記』によると、紀元前6世紀末、呉王闔閭は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻したが敗れて自らも
        負傷し、まもなくその傷がもとで病死した。闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と
        答えた。夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪の上で寝ることの痛みでその屈辱を思い出した(臥薪、この記述は
        『史記』には存在せず、『十八史略』で付け加わっている)。

         まもなく夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。勾践は部下の進言に従って降伏した。勾践は夫差の馬小屋の番人にさ
        れるなど苦労を重ねたが、許されて越に帰国した後も民衆とともに富国強兵に励み、その一方で苦い(きも)を嘗めることで屈
        辱を忘れないようにした(嘗胆)。その間、強大化したことに奢った呉王夫差は覇者を目指して各国に盛んに兵を送り込むなどして
        国力を疲弊させた上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑するなどした。ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満
        を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件として王への復帰を認めなかったために、
        自殺した故事に由来するようであります。」と。
        ( 上記記述は、ウィキペデイア フリー百科事典の引用であります。詳しくは、下記 HPにて 参照してください。
           http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A5%E8%96%AA%E5%98%97%E8%83%86  最終更新 2012年7月10日 (火) 03:44  )

         *  そもそも臥薪嘗胆と最初から、4文字の故事成語ではなかったようです。後の世になってから作り出された故事成語であった
          のでしょうか。
           どちらの二文字も復讐のために耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味を持つものであり、その意味を
          強調しようとして作り出されたやも知れません。
            ところが、その呉は、越に滅ぼされ、その越は、その後強大化した秦等によって、滅ぼされるという末路を辿っています。

          負けた国は、徹底的に叩きのめす。それが、中国流なのでしょうか。禍根を後に残さないというのが、モチーフなっているので
         しょう。「国敗れて、山河あり。」という言葉は、残るのは、自然のみであり、そこに住む人々は、徹底的に放逐するのでしょう。

          中国大陸で、負けた国の王族・人民は、迫害を逃れ、遥か彼方の未開の地へと放浪の旅に出るのが常。その一派が、日本
         列島に来たとしても、何ら不思議でもなく、必然の帰結ではなかったかと。

          それが、日本列島へ米つくりの技術を持ってやってきた初期弥生人に他ならない事は、拙稿でも記述しております。日本人
         の源は、こうした初期弥生人に負うところが大であり、日本は、決して文化的に後進地であるとは言えないようであり、後には、
         朝鮮半島へも進出( 好太王碑文 参照 )して行っているのであり、何も不思議に思う事はないのでありましょう。
  
       4.日本に残る中国系の地名
          これから述べることは、歴史的に事実かと問われますと、?となるかも知れません事をお断りいたしておきます。

         *  一例として 「越」という地名
           出雲風土記には、ヤマタノオロチ伝説が登場する。
           { 中原中也氏のHPに、「鉄と木とスサノオ伝説」という一文があります。氏によれば、鉄は、3〜4世紀頃大陸から伝わっ
          たという認識であるようです。(いわゆる魏・呉・蜀の三国時代以降に伝わったかと。・・・筆者注)
           播磨風土記の逸文に、金屋子神(かなやごのかみと読み、タタラ製鉄に直接繋がる金属専門の神様)は、志相郡岩鍋(
                     現 □粟郡干草町)に鉄の神様が降りられ、その後、白鷺の背に乗り出雲国能義郡広瀬町に移ったと記されているという。

           また、出雲風土記では、ヤマタノオロチは、出雲土着の存在とは言っておらず、このオロチは、高志(こし=越)から来ると
                      明言しているとか。それ故、中原氏は、越の国(現 福井県) (また、越前、越中、越後という地名は、この越の国から来て
          いるとも解釈される方がみえます。・・筆者注)から出雲のタタラ集団へ毎年「鉄」を納めるよう督促しに来る者達が居たので
          は・・・と推察されているやに読み取れました。それが、ヤマタノオロチの正体かと。}という記述にも出会いました。( 詳しく
          は、http://www.ten-f.com/tetu-ki-susanoo.html を参照されたい。 )

           安芸の国の可愛川(えかわ)へは、出雲の国より早く朝鮮系の初期弥生人が、入ったと推察できましょう。可愛川(えかわ
           )は、現 広島県三次市辺りの川の上流域であったのではないでしょうか。( 3世紀中頃には、いち早くこの地域で、特徴
          ある古墳が築造されているからであります。)                

          そして、 この越の国を、出雲の大国主命が、成敗されたという逸話が出雲には、残っているようであります。
           この大国主命は、スサノウの末裔であるという。因幡の白兎(これは、寓話であり、その裏には、朝鮮半島と出雲を結ぶ海
          上交通に長けた氏族がいて、それが、「わに」として表され、白兎は、朝鮮半島から渡来しようとした「しらぎはた」(新羅にい
          た秦氏)ではないかと。とすれば、白兎(秦氏)は、「わに」に何か渡来するに付いて約束をしたが、「わに」を裏切った為に、身
          包み剥がれ、ありとあらゆる持ち物まで取り上げられて困っていた所を、大国主命(出雲の重要な人物)に助けられたという
          のが、史実ではないかと。このように考える方もあるやに聞き及んでおります。)で有名な方であります。この寓話が、「秦氏の
          渡来を伝えているとすれば、応神紀がかかれた4世紀末頃の事になりましょうか。」(拙稿 渡来人 秦氏についての覚書 参
          照)

           片や、福井県には、越廼(こしの)村という地名とか、江戸時代には、北陸は、越前・越中・越後に分割されていた事。何やら
          「越(えつ)」}という字に関わりがあるやに感じられます。

           現 天皇家のご先祖様に継体天皇があり、この天皇は、現 福井県からの出自であり、古代豪族 息長氏の系譜でもありま
          しょうか。「この息長氏の系譜は、初期弥生人の銅鐸を信奉する古い氏族であり、応神天皇・仁徳天皇の在位頃より再度頭角
          を表してきた古代豪族であり、琵琶湖の交通と古代の鉄の生産地を有する琵琶湖周辺の大豪族であった。」とか。( 物部氏
          の伝承  畑井 弘著 参照 )

           この息長氏が、越人の血を引く系譜かどうかは、残念ではありますが不明であります。が、既述 畑井氏によれば、古代豪族
          息長氏は、初期弥生人の系譜、言い換えれば、「銅鐸際祀氏族は、古い形の氏族であり、この息長氏(琵琶湖にいた氏族)も
          また、蛇神信仰氏族であり、古い形の氏族」( 物部氏の伝承 畑井 弘著 参照 )であったようです。とすれば、呉、越系のど
          ちらかであり、渡来人であったと推察できましょうか。おそらくは、越の可能性が高いと言えるのではないかと。

           所で、越(こし)の国より貢物をと言われていた出雲の国は、一体どのような系譜を持ちえていたのでしょうか。
           結論から申しまして、吉備の国(現 広島県地域)より徐々に出雲へと文化的な流れが、あるやに思いますし、吉備は、「呉
          (ご)」の国よりの渡来があった所ではと推察できるのではないのかと。

           また、出雲は、出雲風土記に、一言もスサオウに言及しておりませんが、この風土記の提出命令は、大和朝廷であり、記述
          者は、意図的にスサノウを表に出さない理由があったのでしょう。日本書紀から推測しますに、出雲は、スサノウと何らかの因
          縁があるやに思います。

           拙稿 日本書紀にみる「ヤマタノオロチ」伝説の奥に秘められた出雲国の史実の一考察 にも記述いたしておりますが、

           「 四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われ
          た墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すとい
          う墳墓形態である。という。

           弥生中期後半から広島県の三次盆地に発祥したようで、 弥生後期後葉から美作・備後の北部地域や後期後半から出雲
          (島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に見られる墳丘墓であると言われる。北陸では少し遅れ能登半島
          などで造られている。という。」

           「 3世紀前後の時期では、島根県出雲市の大型墓西谷3号墓(最長辺約50メートル)・2号墓・4号墓・9号墓、小型墓として
          青木・中野美保・西谷1号・6号墓と前述した安来市の荒島墳墓群(宮山、仲仙寺、大型として塩津山6・10号墓、小型墓として
          カワカツ墓)や鳥取県の西桂見墳丘墓が代表的大型墳丘墓である。大型墓は限られた丘陵などに累代的に築造されている。
          これらの大型墓の被葬者は、限られた地域を支配したのではなく、その平野周辺に影響力を及ぼしたものと推測される。こ
          のように弥生後期には出雲の西と東に大きな政治勢力が形成されたものと考えられている。また、大規模な墳丘墓と吉備の
          楯築墳丘墓がほぼ同時期に存在したと推測されている。そして、西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じよう
          な構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・
          高杯などが大量に混入していた。」ようでありますと。
           以上の記述は、(ウイキペデイア フリー百科事典より抜粋しました。詳しくは、下記HPのURLを添付しますので、 こちらを
          参照下さい。
           http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%9A%85%E7%AA%81%E5%87%BA%E5%9E%8B%E5%A2%B3%E4%B8%98%E5%A2%93  )

           次に、広島県呉市について述べてみる事にします。
          「呉市観光振興課です。ご投稿いただき、ありがとうございます。
          呉市の名の由来に関するお問い合わせですが、いくつか由来説があり、その中の一つに、その昔、灰ヶ峰をはじめとする呉
         一帯をつつむ連峰を「九嶺(きゅうれい)」と呼び、それがなまって「くれ」になったという説があります。
          この「九嶺」というのは、「日佐子山(ひさごやま)」、「八咫鳥山(やたがらすやま)」、「尾島山(おじまやま)」、「石槌山(いしづち
         やま)」、「大迫山(おおさこやま)」、「傘松山(かさまつやま)」、「大根山(おおねやま)」、「向尾山(むこおおやま)」、「灰ヶ峰(はい
         がみね)」のことです。

          このほかにも、その昔、灰ヶ峰の中腹から伐りだした、建築や舟用の板材のくれ(榑)が特産品として販売されていて、それが
         有名になったため時代と共に「くれ」になったという説や、呉周辺に住んでいた古代朝鮮半島からの渡来人を「くれ人」と呼んでい
         て、それが「くれ」になったという説などもあります。

          以上です。よろしくお願いします。」
         ( この記述は、呉市役所に問い合わせられた事に対する回答書でありましょう。詳しくは、下記 HP上のURLにて、参照下さい。
           http://www.kurenavi.jp/bin/bbs/1.cgi/thread/1281.html )
     
        *  上記記述の中にも、{呉周辺に住んでいた古代朝鮮半島からの渡来人を「くれ人」と呼んでいて、それが「くれ」になったという説}
         があり、あながち呉(くれ)が、呉(ご)という国と無縁であるとはいえないのではないかと推測いたします。本当の所は、不明では、
         ありますが・・・。

                    更に、次のような既述もありました。「現在の広島県呉市はむかし呉浦と呼んでいた。この呉浦はあまり注目されておらず、残念
        ながら呉浦の文献上での古代史はよくわからない。考古学上では、縄文時代のものといわれる呉市郷原町の「郷原遺跡」から、縄
        文前期〜後期の土器・打製石鏃(せきぞく)石匙(せきひ) スクレーパ・石錐などが出土しており、呉市広町芦冠の「芦冠遺跡」では、
        縄文後期〜晩期の土器・板状土偶などが出土している。 また、弥生時代のものといわれる呉市広町横路から弥生式土器破片が
        出土し、呉市栃原町では弥生式土器(壷)が出土している。多少の土器類が出土しているが、多分、大戦中の影響で大半が壊され
        てしまったのだろう。出雲や吉備にも近いし、戦争などなければもう少し状態のいい遺跡が発見されたに違いない。呉という名のゴ
        ロ合わせをするつもりはないが、もう少し資料が欲しいところだ。」という歴史ネットワ-ク 鈴木 稔氏のHP 「古代群像」なる項目中
        の一文にありました。 詳しくは、http://www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/kodaisi/wajinn2.htm#wa4 を参照下さい。
          
          呉(くれ)が、呉(ご)と何らかの繋がりがあると仮定し、では、呉(ご)の国の人は、どのようなルートで、この広島へ渡来したので
         ありましょうか。考えられる事は、中国大陸より黒潮に乗り、対馬海流に乗りかえ、北九州の沿岸より関門海峡を通ってと、黒潮に
         乗り、南九州より、豊後水道(ぶんごすいどう)を通り、瀬戸内に入る2ルートがあったのではないでしょうか。

          このように、中国大陸、春秋時代の「呉」と「越」は、日本列島に来てまでも、再度の因縁にて争っていたのではと推測できるの
         です。そして、自分の出自を忘れないようにする為か、それとも後の子孫にその名を忘れさせない為にかこうした名称を地名に
         残したのではないかと。

        付記
          私の住んでいます近くにも、「如意申」という地名がありますが、これは、江戸時代の新田開発で、新たに村が出来た時に、付
         けた名前であるようです。如意村(江戸時代の尾張の国の実在の村ですが、現 名古屋市北区 如意)の住民は、この新田を
         開発し、住むようになり、自分の出自は、如意であり、今の住居から申の方角とも、申年に移住したともいう、いわれがあって、付
         けられたと聞く。いつの世でも、こうした心情は、あってもおかしくはないとは思います。

          また、対立が激しければ、激しいほど、親の因果が、末代まで引き継がれるのは、別に中国に限った事ではないように思いま
         す。現代でも、日本の政治上、角福戦争とか言われ、末代までそれが、継承された事は、有名な事ではないでしょうか。

          この拙文は、歴史というより、雑文でありましょう。得てしてこうした推測が、的をえていたりするのではないかと思います。が、ど
         うでしょうか。