日本の縄文期〜弥生期に於ける人口動態の覚書
1、はじめに
見たこともない縄文期の人口を、どのようにして推測しているのでしょうか。こうした事を研究してみえる考古
人類学なる研究領域もあるようであります。かって伊藤氏のHPの日本人の起源では、確かにこうした研究領
域の方があり、情報を発信されておりました。その当時は、私自身、稲作起源に力点があった為か、縄文期を
飛ばしていたやに思います。
今回、初心に戻り、縄文期について、考え直してみようと思いました。そして、伊藤氏のHPへの回帰を思い立
ちました。
2. 小山修三氏による縄文期各期・弥生期・土師器期の人口動態調査( 1978年版による。)
小山氏は、日本地図上の上に32×32Kmのメイシュを置いて、縄文・弥生・土師器期の遺跡数を集計し、地
域別の推移を推計されたようです。( 詳しくは、日本人の起源 第2部 縄文稲作の究明 04 気候の寒冷化
がもたらした東日本縄文人の南下 参照
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_04_01kannreika_gamotarasita_jyoumonnhoukai.html )
ここでは、小山氏の資料を基にして、東日本(北海道・東北・関東・中部)と西日本(近畿・四国・中国・九州)
に分けて、概略をみてみようと思います。(区分けは、小山氏の案に準拠します。)
時期 縄文 弥生 土師器
単位:人
早期 前期 中期
後期 晩期
(8100年前) (5200年前) (4300年前)
(3300年前) (2900年前) (1800年前)
(1250年前)
東日本 17300 96500
251800 140700 64900
292600
2312100
( % )
86.1
91.5
96.4
87.8
85.6
49.2
42.8
( 気候最適期 ) (厳しい寒冷化)
西日本
2800
9000
9500 19800
10900
302300
3087700
( % )
13.9
8.5
3.6
12.2
14.4
50.8
57.2
(鹿児島南方大噴火)
日本列島 20100
105500
261300
160300
75800
594900
5399800
この発表は、1978年であり、今では、こうした縄文・弥生の遺跡も更に発見され、実数は更に多くなっていると、
思われます。こうした数値は、過去のデータとなっているのでしょう。しかし、概ねの傾向は、示しているように思いま
す。これから述べようとすることには、差し障りはないと推測いたしますので、このまま使用させて頂きます。
*
縄文時代は、日本列島内では、東日本地域中心であったことが、上記表より明白です。
環境考古学の安田喜憲によると、6,000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は、縄文後期
に入る4,000年前ごろから冷涼化に見舞われ、縄文晩期に入る3,000年前ごろには厳しい寒冷化
・乾燥化に見舞われたという。
上記表によっても、確かに縄文中期頃が、東日本地域の人口は、ピークに達し、後期から以
降は、下降傾向に転じている。厳しい寒冷化・乾燥化に見舞われ、栄華を誇った青森 三内丸
山は、集落崩壊を起こしたと思われ、中部山岳の八ヶ岳山麓の縄文集落も、崩壊したと考えら
れるのでしょう。( 拙稿 地球上での太古に於ける大変動についての雑文 参照下さい。)
では、そこに住んでいた縄文人は、どうしたのでしょうか。小山氏は、西日本地域へと移動を
したのではないかと推察されています。事実、西日本地域での人口増加が、縄文後期から晩期に
かけてゆるやかではありますが、しかし、西日本地域のかっての縄文人の数と同等かそれ以上の
流入として起こり、西日本地域にとっては、食糧事情が、急変することになったでありましょう。
九州では、かって今から7300年前に現 鹿児島の南方50Km離れた薩南諸島北部にある薩摩硫黄島、竹島が
カルデラ北縁に相当する鬼界カルデラを造った火山噴火が起こったという。現 鹿児島地域でみられるシラス
台地と呼ばれる火山灰の層は、この火山噴火によるものであったという。当然、鹿児島に居住していた縄文人
は、被害に遭ったか、当地からは、縄文人の姿は、消え去ったのであろうという。その後、縄文後期から晩期
にかけて縄文人が、居住したという。それが、東日本の縄文人であったのでしょう。火山灰の土地で育つ作物
は、アク抜きをしないと食せないという。東日本の縄文人は、その仕方を知っていて、既に東日本で、居住し
て居た時にアク抜きをしていたという。だから、この九州南部の鹿児島の地でも、生活が出来えたと言えまし
ょうか。西日本の縄文人は、アク抜きをしないで食せる物で、食糧を賄ったと言う。
東日本の縄文人のピーク人口から約10万人程度が、移動若しくは、死亡したのでしょうか。移動した人口は、
10万人全てではなく、その1割 1万人程度だったのでしょう。残りは、食糧事情のせいで生存できなかったの
ではなかったかと。
自然の食糧サイクルの上で、生活が成り立っていた縄文人にとって、自然の恒常的な変化は、生存の危機で
もあったと言えましょう。
東日本の縄文人は、先住民のいない九州は、鹿児島、四国地域に多く移動をしたという。そして、縄文期の
東と西での文化の違いが、この縄文後期・晩期からは、文化的融合が起こったという報告も出ているようであ
ります。(詳しくは、日本人の起源 伊藤 俊幸氏のHP
http://www.geocities.jp/ikoh12/index.htmlを参照
されたい。)
3.黒曜石にかかわる交易と渡来
石器時代では、質のよい運ぶに便利な地域の黒曜石は、海外の物でも求められていたという。
日本は、火山国であり、よい黒曜石を産出すると知れわたっていたとも言えましょう。日本の有名な産地は、
北海道では白滝村、東北では男鹿半島、中部では信州八ヶ岳周辺と和田峠、伊豆諸島では神津島、中国地方で
は隠岐、九州では、佐賀県伊万里市の腰岳、阿蘇山等々であったという。
こうした日本の黒曜石が、朝鮮半島の沿岸部、ソ連の日本海沿岸地域、樺太から出土するという。大陸から
石を取りに来た者がいたのでしょう。こうした事は、縄文時代以前にもあったのでしょう。
日本国内でも、こうした石をわざわざ取りに、海を渡ってきていたと推察でき、とすれば、舟を介して交易が
行われていたといえましょう。
もっと類推すれば、縄文期に於いても、海は、何ら遮蔽物ではなく、行き来でき得たといえましょうし、黒曜
石だけでなく、いろいろな文化が、縄文期にでも入って来ていたと言えるのであり、稲作も早くから、日本へ入
って来ていたようでありましょう。事実、縄文期の遺跡にも、米の跡の付いた土器の出現があったという事も事
実でありますから。
3.弥生期以降の人口動態
明らかに縄文後期からは、東日本の人口は、減少し、西日本の人口は、やや増加し、弥生期には、西日本の人
口は、激増し、対して東日本の人口は、かっての半分以下に激減したように思えます。
食糧事情に関して言えば、西日本は、縄文末期から弥生初期に於いては、人口増に対応できえたのでしょうか。
こうした食糧問題を解決しえる事柄が、海の彼方からもたらされたと言えましょう。いわゆる米作り文化を
伴った移住者が、船に乗って順次、中国大陸やら朝鮮半島からやって来たことによって、食糧問題は、解決し
ていったようであります。
初期弥生人の第1波の渡来でありましょう。(拙稿 日本に於ける稲作に関する覚書 を参照下さい。)
弥生時代も、海は、遮蔽物ではなかったのでしょう。むしろ、大量の物資を送る事のできる大動脈でもあった
のでしょうか。沿岸部を見ながらの航行であった。外洋であれば、海流依存の、風依存の航行ではあったのでし
ょう。行き当たりばったりという感じがしないわけではないですが、航行する古代人の概ね想定した地点に到達
しえていたのではないかと。