ない。そこに単なる屋瓦として以上の意味を見出す事が可能であろう。」と。
当大山地区にかって建立された大山廃寺跡地から見つかった3種類の軒丸瓦が、小牧市史 通史 昭和60年復刻版 P.86〜88に写真
で掲載されている。
* この発掘当時、学生であった佐々木某氏より、その当時の事をメールにて、ご教示頂いた。
「私はこの大山廃寺の発掘調査の末端に 高校3年〜大学3年まで参加していましたので、知っている範囲をお知らせします。
大山廃寺では、見つかった軒丸瓦の種類は、3種類であるようです。同一窯からの搬入というより、三箇の窯カからの搬入であったかも知れません。
当大山廃寺近くには、尾北古窯(篠岡第二号窯瓦文様は、「突出した内区の中房には、中心に1個、その周囲に4個の蓮子を置き、蓮弁は、一部
破損していますが、外側は、丸みをした8弁カ、内区と外区の境には、一重の圏線文を施し、直立する外縁の内側に線鋸歯文があったは、破損の為
不明。」 新編 一宮市史 上 P.144 図5−12 東畑廃寺<7世紀中頃の創建カ>軒丸瓦 参照)がありますが、この窯で作られ瓦は、尾張国府
近くの東畑廃寺(7世紀中建立カ)へ搬入されていた。篠岡二号窯の操業は、年代的には、7世紀後半とか。大山廃寺から出た C瓦は、若干似ては
いますが、東畑廃寺の瓦と比べ弁の形状が違っている。
*
参考までに、篠岡二号窯は、現 東名高速の路肩南側の現 警察学校の北側辺り。詳しい所在は、拙稿
春日部郡に存在していた多楽里の伊多波刀神社について
の文末地図参照。*
* 「東畑廃寺跡は、660 年代後半から670
年代前半までの間に創建された、尾張最古級の寺院の1つである。この東畑廃寺は、国府近くに創建され
たようで、現 稲沢市に中央政府は、国衙を設置する為の地ならし的創建かと。中央集権国家(律令国家)へと進化していく過程に創建されたようで
す。ここから出土する坂田寺式の単弁蓮華文軒丸瓦は奥山久米寺の調査で出土したものと同笵とされ,その笵傷などから,奥山久米寺から直接笵が
もたらされたものと考えられている(梶山1994)この東畑廃寺に供給された奥山久米寺の単弁蓮華文軒丸瓦と同笵される瓦が篠岡2号窯(大参・山田
1969)で焼成されていることである(岩野1987)。
篠岡2号窯は,尾北窯のなかでも中核をなす篠岡窯で初めて築かれた窯のひとつで,現段階では尾張における最も古い瓦陶兼業窯である。
すなわち,中央権力ときわめて深いつながりのある寺院に瓦を供給する窯として,篠岡2号窯が猿投窯と離れて尾北地区に瓦陶兼業窯という新しい形
態で開窯したことになるのである。」(https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/3/3/3_3_83/_pdf
城ケ谷和広氏論考 参照)と。
確かに上記の論文は、一つの軒丸瓦のみをみれば、該当しそうでありますが、東畑廃寺跡から出土する軒丸瓦は、1種類ではない。稲沢市の東畑廃
寺発掘調査報告書 Wの巻末に掲げられた軒丸瓦は、見ただけでも数種類の型があり、いくつかの窯で焼かれ搬入されたと推測できます。
中央権力の力が働いたと推測は出来ますが、造寺に関わる造瓦工・造木工・須恵器窯工等が必要であり、それに関わる労働力も必要であった事でしょ
う。
その他大勢の労働力は、在地の有力豪族(後の郡司諸氏)の協力が不可欠であり、造諸工の頭は、当然在地にはいない事等を勘案すれば、畿内に頼
らざるを得なかった。それが出来えたのは、中央の権力者とその当時国々に置かれつつあった国守(後の国司)でしか有り得ない状況下での東畑廃寺の
創建であった筈。その後造寺ラッシュが、在地でも起こり、在地の有力豪族は、独自のつてを頼りに諸瓦工等を招聘したのでありましょうか。尾張国では、
尾張氏が、独自に抱えた須恵器窯工等を持ち、尾張氏の協力の下で、瓦工に協力していったと推測致します。
*
後日 尾張古代史セミナー (1) 春日井市教育委員会発刊 平成8年3月発行の書籍を手にした。そのなかで、岩野氏(東海学園女子短期大学教
授)の記述された「尾張における壬申の乱前後の寺院」という一文のP.42 資料9 複弁連華文軒丸瓦の掲載写真に見入った。勝川廃寺・川井薬師堂
廃寺・大山廃寺の軒丸瓦が、非常に酷似している事。氏によれば、高蔵寺瓦窯からの搬入と認識されていた。
白山瓦窯の搬入先は、伝法寺廃寺、篠岡2・66・74・78号窯の搬入先は、東畑廃寺と。平成7年4月30日記載の記述であるようです。*
やや引用が長くなりますが、現在の古代瓦に対する研究水準でありましょう。
「瓦陶兼業窯である篠岡2号窯が、大和奥山廃寺から瓦笵を持ち込んで操業を開始したことを契機に、篠岡地区に多くの須恵器窯が築かれはじめたこと
が指摘されている。しかし、篠岡2号窯に続く、78 号窯、66 号窯、74
号窯は、それぞれ瓦笵や文様意匠も異なっており、丸瓦・平瓦の様相も異質である。
また文字瓦は 66
号窯のみにしかみられない。
篠岡2号窯の軒丸瓦は、丸みを帯びた重弁状の意匠が特徴的であるが、これに類似した文様の系譜は、篠岡地区には残らない。この文様系譜は、一方
では弁端が角張った文様となり、白山瓦窯、官林瓦窯などで生産されて尾北一帯の寺院に分布する、坂田寺式とも言われる軒瓦の一群に連なる。
そして、より篠岡2号窯の軒瓦の特徴を色濃く受け継いだ瓦は、美濃輪形窯(坂祝町)から、信濃尾代廃寺を経て、遠く越後栗原遺跡の瓦へとつながって
いく。上原真人氏は、天智朝段階の瓦の伝播の様相として、面的広がりをもたず、交通路に沿って線的に伝わる様相を復原したが【上原
1997】、やや時期
は降るものの、篠岡2号窯の瓦もこの例にあたるものと考えられる。
さらに、周辺諸窯の様相はより顕著であり、高蔵寺瓦窯では、独自に藤原宮など中央から別個に文様や製作技術等を導入しており、また、それは他の窯
では採用されない。わずかに後述の若宮瓦窯が、塼積の可能性を残すのみである。また白山瓦窯で生産された単弁蓮華文軒丸瓦についても、距離が離
れた官林瓦窯でも生産されるなど、尾北窯内で瓦生産の一貫性がまったく見受けられない。美濃須衛窯においても同様である。」と。
更に続けて
「国司の継続的な関与というものを想定することに、積極的に意義は唱えない。しかしそれはあくまでも、須恵器工人の育成や、須恵器の効率的生産を第
一義に企図したものであり、瓦生産については、国司が一括管理したような状況はないものと考えられる。むしろ瓦生産については、窯場や労働力の提供
程度に過ぎなかったのではないか。」とか。あくまで、7世紀末〜8世紀初頭における在地での瓦生産に関わる事ではありましょう。
「むしろ、7世紀後半から8世紀前葉にかけての地方における瓦生産組織は、先にもすこし触れたが、地方有力者層の建立になる在地の拠点寺院を中心
に展開するあり方が一般的である。」とか。
「尾北・美濃須衛両窯群においては、開窯の契機が瓦生産である地区も存在し、瓦生産が窯群内の操業動向に大きな影響を与えたことは疑いない。しかし、
それ以降においては、瓦工人の同一性を含めた統一感は見受けられない。むしろ、寺院造営の必要に応じて、それぞれ別個に工人を招聘し、(瓦工人は、・・
私の加筆)窯場と労働力のみを借用して瓦作りをおこなっていたのではなかろうか。」という指摘をされる方もあります。「」内の記述は、下記より引用。
( 詳しくは、
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/12946/1/p.39-54.pdf
を参照されたい。 )
上記記述での主語が曖昧であり、読み取りづらい。
しかし、最高主体者は、誰と想定されているのであろうか。造寺建立者(在地の有力豪族)ではありまし
ょうが・・・。*
とすれば、瓦陶兼業窯では、注文があってから形成し、焼き上げるシステムであったのでしょう。すぐ近くに瓦作成の窯があったにも関わらず大山廃寺は、
篠岡第二号窯の瓦ではない。既にその窯は操業を停止していたのかも知れませんが・・・・。(当時の穴窯は、補修をしつつ長期の継続的な活動ではないと
推測され、篠岡2号窯が活動していた頃 白鳳期(684年)の地震三連動(東海・東南海・南海地震)に遭遇していれば、操業出来ない事態になっていた可
能性は高い。)
一宮市史には、「篠岡第74号窯<年代的には74
号窯は8世紀前半の操業カ>で、大山廃寺の軒丸瓦は、焼かれ搬入された可能性を指摘されている。」
(新編 一宮市史 本文編 上 P.145 参照) しかし、一宮市史には、74号窯の瓦の文様については、記述されていない。
この篠岡74号窯の瓦の文様は、大山廃寺周辺から見つかっている上記三つの瓦文様のどれであったのだろうか。多分に16弁ではありましょうか。
同じ、春日部郡域であろう勝川廃寺の軒丸瓦は、「中房には、中心に1個、その周囲は二重の蓮子があり、中心に近い蓮子は、4個、外側に10個の蓮子
が施され、連弁は、複弁で、16弁、内区と外区の境には、一重の圏線を、外縁には、一重の線鋸歯文をめぐらしているように見受けられる。」(同上 名古
屋市史 勝川廃寺 軒丸瓦 参照)ように私はみましたが・・・。
しかし、一宮市史には、「同廃寺跡からは、高蔵寺瓦窯跡出土の素縁複弁八弁蓮華文瓦と同型式の瓦が、出土している。」(新編 一宮市史 本文編 上
P.145参照)と指摘されている。同一の寺でも、種類の違う瓦が使われた可能性もあり、或いは再建・修理という年代が若干違った可能性もありましょうか。
大山廃寺にしろ、勝川廃寺にしろ二・三種類の軒丸瓦が使用されていたとすれば、一つは塔用もう一つは金堂用等であろうか。
当地大山廃寺の軒丸瓦は、当該地域の窯を用いた瓦工人作でありますが、東畑廃寺用瓦窯とは違うようであり、窯が違うと軒丸瓦の文様も違ってくるよう
です。そうした観点からみれば、当地の有力郡司お抱えの瓦工人とは言えないのは、確実でしょう。須恵器窯工人が瓦工人に協力して、同一の穴窯で、併
焼したのか、交互に焼いていたのでしょう。案外瓦工人は、自由な移動をしていたようにも推測出来ますし、注文に応じて活動をしていたのではないかと。
只、知多半島付け根の西大高廃寺の軒丸瓦が、同上名古屋市史に載っており、その文様は、大山廃寺の軒丸瓦(A瓦)の文様と酷似している事に驚いて
おります。違うところは、1ヶ所 「内区と外区の境の圏線」大山廃寺の物は、1重の圏線、西大高廃寺の物は、2重の圏線。そこのみだけが違うような印象
を持ちます。
西大高廃寺は、熱田台地の尾張氏主流家に関わりましょう創建カ。仮に大山廃寺の創建を尾張氏傍系とみなせば、同一瓦文様は憚られ、細部を違えて
成形したとも取れそうです。(あくまで推測の域を出ない事柄ではありますが、西大高廃寺と大山廃寺どちらが先に創建されたのかは、不明。瓦模様は、後
発であれば、単純化がされるとすれば、西大高廃寺の物は、2重の圏線、大山廃寺の物は、1重の圏線。さて、単純化の過程からすれば、2重->1重であ
ろうか。)
2.尾張地区の軒丸瓦の地域的なまとまり
新修名古屋市史の執筆者は、軒丸瓦の文様から尾張地区には大きく3つのグループがあったとまとめられています。(市史 P.599〜603 参照)
・第1グループ
丹羽・春部・中島郡東部にまたがる尾張東北部
初期の軒丸瓦の特徴・・・素弁蓮華文軒丸瓦 −−−−>二つのサブグループに分化 ・サブ1 丹羽郡を中心にした単弁蓮華文軒丸瓦
・サブ2 春部郡を中心にした複弁蓮華文軒丸瓦
尾北古窯(篠岡窯における瓦陶兼業窯)がこれに当たると。そして、畿内勢力との間に深い結びつきが存在し、大和政権・大和の有力氏族から
の工人の供与や技術支援があった事を想定出来うると。
・第2グループ
葉栗・中島郡北西部にまたがる尾張北西部
軒丸瓦の特徴・・・複弁蓮華文軒丸瓦
この地域の寺院の瓦は、美濃国寺院とのつながりが深いと。(美濃窯で焼かれた瓦を使用カ)壬申の乱後の美濃国との政治的関連において捉え
られると。
とすれば、672年壬申に起こった天皇家の内紛(壬申の乱)で、大海人皇子側に付き戦功を上げた美濃国 村国男依関係でありましょう。
・第3グループ
海部・愛智・知多・中島郡南部にまたがる尾張南部の伊勢湾を巡る地域
軒丸瓦の特徴・・・重圏縁素弁蓮華文軒丸瓦 この最も古いタイプは、尾張元興寺跡から出土。畿内と直結する瓦当文様かと。(畿内の飛鳥寺のち
の元興寺でしょうか。蘇我氏との関わりはどうなんでしょうか。)
3.大山廃寺の軒丸瓦について
どうやら大山廃寺(8世紀建立カ)の軒丸瓦は、名古屋市史の執筆者の分類でいけば、第1グループのサブ1に該当しそうであります。確かに丹羽郡
に隣接していますから妥当性がありそうです。勝川廃寺(7世紀建立カ)は、第1グループサブ2の軒丸瓦でありましょう。大山廃寺も勝川廃寺も同じ春
部郡域でありましょうに。建立年に差があるからでしょうか。
勝川廃寺(7世紀建立カ)近くには、尾張地区第二の大きさを誇る二子山古墳もあり、また、熱田台地には尾張地区第一を誇る尾張草香系の断夫山
古墳があり、共に下原古窯で焼成された尾張式円筒埴輪を使用している事。一説には、二子山古墳は、物部氏系の古墳とか。尾張地区の物部氏は、
尾張氏と同盟を結んだやに推測される方もみえるようです。尾張の物部氏は、尾張氏の系図を流用し、祖を同一にしたとか。あの継体天皇と婚籍関係
にあった尾張氏であります。そして、物部一族は、尾張氏に同族化し、従属していったのでは・・・。
勝川廃寺は、尾張氏と同族を装った物部氏一族の遺制を色濃く残した地域ではありましょう。
*
勝川遺跡は、地蔵川沿いに出来た集落であり、川を挟んで広範囲に遺跡が分布しているようです。現 春日井市勝川町・長塚町・町田町に所在す
る遺跡であります。
庄内川右岸に位置し、庄内川によって形成された標高11mの沖積低地と、その北の鳥居松段丘面 標高13mの洪積台地の縁辺部に立地してい
るという。
勝川遺跡は、弥生時代中期後葉に集落が形成され、弥生後期・古墳時代前期初頭へと継続されていたとか。その後一旦途絶え、5世紀後半〜6世
紀前半にかけて勝川古墳群を形成し、6世紀後半以降は、再度断絶し、8世紀前半頃(7世紀後半という説もあります。・・現在は、7世紀後半が有力視
されているかと。・・私の注) 勝川廃寺が造営され、9世紀後半まで継続したようであります。
(勝川遺跡については、「春日井市勝川遺跡出土 木製品
の再検討」 樋上 昇氏の論考
愛知県埋蔵文化財センターを参照されたい。)
*
勝川遺跡は、中途に断絶があり、自然災害等を推測致します。更に下記の地震もあったようです。
参考 南海地震 東南海地震 東海地震
白鳳期 684年 (684年) (684年) ( )内の年代は、津波堆積物にて
確認された。
とすれば、勝川廃寺は、地震三連動以前に建てられていたのであれば、鳥居松面上の立地であるようですから、倒壊を、免れたのでしょうか。
しかし、地震以後に建てられたという可能性もありえましょうか。勝川廃寺の軒丸瓦は、藤原京(694年造営)と同笵であり、地震以後の可能性が
高いと思われます。国府近くの東畑廃寺は、白鳳期(684年)の地震三連動に遭遇したと思われます。
村国氏は、尾張氏の一族カ、現在の木曽川本流の流れで村国氏の支配地は、分断されていたかのようにみえますが、その頃の木曽川本流は、もっと
北側へと流れ、鵜沼辺りは、流れが淀む状態であった可能性もある。村国氏の支配地は、尾張国とほぼ陸続きの可能性もありましょうか。
*
上記の記述の元は、「 この木曽川派流は、弥生時代以降古墳時代までは、安定した流れの位置であり、1・2・3・4之枝川となり、弥生期、古墳期ま
では、木曽川左岸一帯は、穏やかな流れであり、洪水が起こりそうのない河川であったという。そうした断定は、この時期の遺跡の堆積物の層から推
察できるという。
これは、木曽川の主流が、現 境川の辺りを流れていたようであるからだと推察できるという。<境川という河川名は、美濃と尾張を分ける境という意
味であるという。・・筆者注> 奈良時代になって、木曽川の主流の一つが、現在の木曽川と同じ流れの位置に変えたようで、その後は、派流において
も洪水を引き起こすようになったという。
木曽川という呼称は、江戸時代になってからのようで、それ以前は、広野川(川幅が、極端に広い故にそのように呼ばれていたのでしょうか。・・筆者注)
或いは地域流域の河川名等で呼ばれていたとか。」 ( 一宮市史 通史 上
参照 )
村国氏については、拙稿 古代 美濃・尾張国 木曽川近辺の村国氏一族と各務氏について
を参照されたい。*
現 犬山市に犬山城がありますその山頂と現 木曽川を挟んだ対岸の山 伊木山は、つながっていたのでは、古くは、木曽川は、そこから大きく北側へ蛇行
し、尾張国へは、そこから木曽川の派流が幾筋も南下し、伊勢湾へと流れていたのではなかろうか。奈良時代前頃までは。
それ以後、木曽派流の流れが豊かになり水運での運搬は、容易であったと推測致します。
とすれば、複弁蓮華文軒丸瓦様式の伝播は、春部郡域まで到達したとも取れそうです。
水運関連で言えば、私の知る限りでは、美濃窯の陶器技術の伝播は、同じ美濃国の多治見地域へは伝わっていないようで、むしろ多治見地域は、尾張
国庄内川流域圏に入っている。
大山廃寺は、丹羽郡域の古窯で焼成された軒丸瓦を使用カともとれそうですが、一宮市史には、篠岡74号窯での瓦が大山廃寺に使われたと示唆さ
れている。しかし、実際の瓦の文様は、記述されていない。更に八弁と16弁の文様の違いは、瓦工人の違いでありましょうし、年代の差もありましょうか。
いったい、いつ頃第1グループでは、二つのサブグループに分化したのでありましょうか。白山瓦窯と官林瓦窯は、同系瓦のような記述であり、白山瓦
窯の型の使い回しが、官林瓦窯ではされていたかのような記述。造寺のラッシュであり、既に稼動している須恵器窯を利用しつつ、瓦工人が来て差配し
たのでありましょう。造寺のブームが一段落する8世紀初頭には、瓦陶兼業窯は、衰退し、須恵器窯の活動をして在地の需要に答え、尾北窯は、平安末
期をもって終焉したようです。
名古屋市史 P.584には、「尾張の古代寺院と瓦を焼いた窯跡の分布図」があります。
上記の軒丸瓦文様から推測すれば、大山廃寺は、「丹羽郡(現 犬山市)の犬山モンキーセンター内の官林瓦窯跡産(現 春日井市 白山瓦窯と同型
の形式の軒丸瓦・重弧文軒平瓦)を出土する。」(犬山モンキーセンター所蔵資料による)とも、篠岡第74号窯跡産とも取れそうでありましょう。
勝川廃寺は、春部郡{現 小牧市の篠岡窯(66・78号窯跡)産とも現 春日井市の高蔵寺瓦窯跡}産とも取れそうであり、或いは、第2グループの古
窯産か。「同廃寺跡からは、高蔵寺瓦窯跡出土の素縁複弁八弁蓮華文瓦と同型式の瓦が、出土している。」(新編 一宮市史 本文編 上 P.145参
照)と。高蔵寺瓦窯の瓦は、藤原宮と同笵。中央との関わりが強い。それでも、勝川廃寺の瓦の文様が二種類存在する点、一ヶ所の窯とは取れないよ
うであります。
*
藤原宮(『日本書紀』では、「新益京」という。西暦694年に造営)は、天武天皇の発案であり、平城京(現 奈良)の直前の都で、10年の歳月をかけ
て造られた都であったが、16年間しか機能しなかった。詳しくは、 http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/fujiwara-kyuuseki.htm 参照
* 「年代的には、篠岡2号窯が7世紀後半、78 号窯は7世紀末〜8世紀初頭、66 号窯、74
号窯は8世紀前半とされている【城ヶ谷1996】。」(国分寺
研究における諸問題 梶原義実氏 名古屋大学文学部研究論集(史学)から引用)とか。
上記論文は、
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/12946/1/p.39-54.pdf
であり、参照されたい。*
あくまで私の推測に過ぎませんが、瓦工人は、注文を受けてから製作に取り掛かるとすれば、大山廃寺の瓦も或いは、うまく条件が合えば、篠岡窯の
第二号窯跡産の瓦を使っていた可能性もあったのではなかろうか。偶然、注文が入っていて大山廃寺の注文を受ける事が出来ない事情があったのか、
或いは、その頃には、篠岡第二号窯は、瓦工人が不在となっていたとも廃棄されたとも取れそうでありましょう。只それだけの事ではなかったのではなか
ろうか。
*
{瓦陶兼業窯である篠岡66号窯(下末 8世紀前半の操業カ)跡からは、記名瓦が見つかっている。「五十長」・「多楽里張戸連」・「尾張」・「多楽里尾」
・「鹿田里(ママ)」・「雀刀足(ママ)」等々であった。}(小牧市史 参照)
在地の小有力者(評造より下級の里長クラス カ)が競って古代寺院に小規模ながら寄進をした証でありましょうか。尾張の国分寺創建は、8世紀中以
降であり、こうした記名瓦は、やはり、在地の古代寺院(私寺)向けであった可能性が高い。
評造という職制は、天智朝頃の国守ー評造ー里長でありましょう。
多楽里は、現 春日井市田楽地区でありましょうし、鹿田里は、現 師勝町カ。篠岡66
号窯は、年代的には、8世紀初頭頃の操業カのようであり、この
辺りには古墳が存在する。下末古墳として今も民家に囲まれて残っています。拙稿 小牧市下末地区に存在する下末古墳を訪ねて を参照されたい。
原型は、前方後円墳の可能性もあるのではなかろうか。
記名瓦の里長クラスの地域は、平安末期には、味岡荘として立荘されていく事を考えれば、郡域であったとも取れそうでありますから。*
確かに瓦工人間には、工人集団の所属主体を考えるとき、一定の地域内における同笵・同系軒瓦の存在は、畿内の特定氏族の政治的・経済的活動と
決して無縁ではなかったのでしょう。しかし、第1グループの工人が二つのサブグループに分化したのは、工人の知恵と工夫がもたらした結果であったの
か、それとも・・・。後者の見解が、現在では有力でありましょう。
<参考 高橋敏明著 「郷土幻考6 鷹来、高皇産霊命と伊多波刀神社」 P.49からの抜粋地図 >
4.大山廃寺等の地方豪族創建の寺の規模
「古代の寺院といえば、大和の諸大寺のような規模の伽藍が想像されるが、実体はどうであったろう。(中略)尾張国の寺院跡で塔の存在が確認されて
いるのは、国分寺の他に長福寺廃寺・黒岩廃寺・東流(畑カ)廃寺・大山廃寺・甚目寺・法海寺である。これらの寺院は、塔以外の建造物が定かではない。
『出雲国風土記』記載の新造寺院は、後進国寺院の実体といわれるが、巌堂(金堂)や塔のみのものがあり、(中略)尾張国の遺構が明らかでない寺院
のうちには、『出雲風土記』記載のような一塔あるいは一堂のみの寺院があったのではなかろうか。」(一宮市史 上 P.149〜150 参照)という記述は、
頷けるものがあります。
また地方豪族建立の私寺は、白鳳時代(奈良時代前期)の造寺奨励策によって建立され、急激に増加したとも言われ、そのような結果、尾張には、奈良
時代末までに約30ヶ寺が次々に建立されたようですが、大部分は、維持管理面で不具合(創建した豪族の没落等カ・私寺維持の必要性が無くなったカ)が
生じたのでしょう廃寺化の道を歩んだものと思われます。
「造寺現象が直ちに地方豪族の仏教信仰の深さをあらわすのではなく、むしろ、中央文化に対する彼ら地方豪族のあこがれを象徴するものであろう。彼ら
の支配下にあった共同体成員が、小規模ながら彼らと同じような古墳を築造し始めた時、地方豪族は、より新たな地位の象徴を美しい伽藍・威厳に満ちた
仏像に求め、共同体成員の独立的傾向により、不安定さを強めた首長層の権威を補強する役割を期待したのではなかろうか。」(一宮市史 上 P.137
引用)云々は、傾聴すべき言葉ではありましょう。
実際、地方豪族の私寺は、伽藍配置の寺院ではなく、一塔或いは一堂の寺院カであったのではなかろうか。
春日部郡東北部一帯の後期古墳群は、尾張氏一族と共に成長した在地の有力者の墓カ、その中へ異様な瓦葺の塔の建立。他を圧倒する建造物とも取
れそうではあります。
史実は後日に期したい。
こうした国司が一括管理したような状況にない生産は、当地の古代鉄生産も似通っているように推測できるのであります。
平成28(2016)年11月4日 脱稿
平成29(2017)年1月15日一部訂正
<参考>
小牧山城内の展示物 写真抜粋
https://4travel.jp/travelogue/11259791
参照されたい。