犬山市史から知られる大縣社領についての覚書
1.はじめに
犬山市史 通史 上 平成9年版 第二編 中世 第一章 武家社会の成立と犬山地域 第四節 二宮大縣社
と社領 P.246〜269に大縣社領についての記述がある。
どなたが執筆されたのかは、わかりかねますが、書かれている内容を一読しただけで、相当量の史料を網羅し、
記述がされたであろうことが推測できました。醍醐寺文書の出展を明示していただけたら良かったのですが・・・。
厳密な史料検討がされていることは、記述された言葉の端々から読み取れます。
最近まで、私は、犬山市史の中世編には、目を通していなかった。迂闊でありました。何か遠回りをしていたよう
な気が今は致しております。
2.大縣社領の形成
大縣社領を確実な史料で確認する事は、難しい。いきおい相論史料やら検注状等から追いかけていくことになる。
・ 最初に検討するのは、康治2(1143)年 尾張国安食荘立券文(平安遺文 巻6 P.2106〜参照) 正式名称
「康治2年7月16日 尾張国 御庄四至内田畠検注状案」でありましょう。醍醐寺領荘園内に散在する大縣社領の
事を記述しようと思います。
該当する箇所のみ抜粋すれば、以下のようになります。上記検注状案の最初に記述されている事
田 大縣宮領 4町 熱田宮領 51町5段3以下欠損 伊勢大神宮領 7段小 皇后宮領朝日庄 1町1以下欠損
定田 104町6段小(醍醐寺領カ)
畠 128町6段小 内訳
大縣宮領 9町3段60歩 熱田宮領 49町大 伊勢大神宮領 3町8段半 皇后宮御領 欠損 左大将家領 6
町5段大 中将家領 2町8段小 如意寺領 2段大 季貞私領 5段3歩 吉道私領 4町5段小
秋元私領 6段小 郡司領 1町7段300歩 国領 43町60歩
荒野 434町2段60歩 内訳
熱田宮領 178町以下欠損 當郷庄領 250以下欠損
原山 108町
以下 略
ここから康治2(1143)年当時の大縣社領が垣間見られる。田 大縣宮領 4町。畠 大縣宮領 9町3段60歩以上
であります。
その詳細は、以下のようであります。
・ 18条 水分里 2坪町 畠 5段 熱田宮領 末貞進
参考までに平安時代
3坪町 畠 2段 熱田宮領 末貞進 の度量衡を表記すれば
12坪町 畠 1段 熱田宮領 末貞進 1町=10段
1段=360歩
・ 18条 迫田里 1坪町 畠 8段半 内 二宮領 1段小 郡司領 7段60歩 大=240歩
3坪町 畠 5段 内 二宮領 3段 郡司領 2段 半=180歩
9坪町 畠 6段半 内 二宮領 2段大 郡司領 4段 小=120歩
*12坪町 畠 3段 巳二宮領 (角川日本史辞典
*13坪町 畠 60歩 巳二宮領 昭和41年版
15坪町 畠 8段 内 二宮領 5段 郡司領 3反 P.1230 参照)
22坪町 畠 2段 内 二宮領 1段 郡司領 1段小
・ 18条 賀智里 18坪町 田巳 二宮修(カ)理田
・ 18条 石河里(カ) 6坪町 田巳 二宮修(カ)理田
31坪町 畠9段60歩内 国領 貞元 1反半 如意寺 国領 利国 2反大
熱田宮領 4反
32坪町 畠 大縣宮領 秋元進
・ 18条 馬屋里
8坪町 畠8段 熱田宮領 □永進
10坪町 畠巳 熱田宮領 恒貞進
・ 19条 美〃里 13坪町 畠巳 二宮領 郡司進
24坪町 畠6段 二宮領 郡司進
25坪町 畠3段 二宮領 郡司進
26坪町 畠6段大 熱田宮領 峯安進 6段 国領貞元 大 地子
36坪町 畠3反 二宮領 郡司進
・ 19条 鳩田里 17坪町 畠巳 熱田宮御領 光永進
23坪町 田巳 二宮修(カ)理田
26坪町 田巳 二宮修(カ)理田
30坪町 畠巳 二宮領 4反大 郡司私領 小
31坪町 畠巳 熱田宮領 7反 光永上
・ 19条 続榛里 6坪町 畠巳 熱田宮領 大 秋元進
20坪町 畠5段 大縣宮領 依方進
・ 20条 楊里 13坪町 畠1段大 二宮領 郡司進
24坪町 畠6段 二宮領 郡司進
27坪町 畠1段 二宮領 郡司進
下図 1 康治2年 安食庄内耕地・在家等分布状況の図であります。( 南山大学経済学部教授 須磨氏による図 )
田 大縣宮領 4町の内訳は、”田巳 二宮修理田”であるようで、醍醐寺領荘園内の18条 賀智里18坪と同条 石河里カ
6坪、19条 鳩田里 23坪、同26坪の4ヶ所である事が分かる。18条 12坪町 畠 3段 巳二宮領或いは13坪町 畠
60歩 巳二宮領の記載。
また、16条馬賀里は、全て荒巳の記載、安萌里も大部分が、荒巳、町原里も同断、18条石河田里には、荒巳に加え川巳
なる記載、同条 頸成里にも同様な記載と同時に、田巳なる記載がある。荒・川成等、何らかの災害(多分に大洪水カ)が想定
できそうであります。
犬山市史には、残念ながら、「巳」についての解釈は取り上げられてはいない。平安遺文の記述では、「巳」と解釈されている
ようですが、原文は、「巳」なのか「己」なのであろうか。判断しずらい字体ではあります。私は、原文をみていませんので、判断
しづらいのですが、仮に「巳」と取れば、年と解釈する事も出来ましょうか。
仮に「巳」を年とすれば、いつの年号であろうか。康治2(1143)年より前でありましょう。考えられるのは、「直近では、保延
3(1137)年 或いは、天治2(1125)年か永久元(1113)年 もう少し古い年では、康和3(1101)年であろうか。」
康治2(1143)年検注状には、多分に川成とか、荒等々が散見され、大きな災害が起こった事を示唆している。大洪水か或
いは大地震の類であろうか。大震災であれば、下記も該当しそうでありましょう。
永長元(1096)年子年には、東海・東南海地震が起こった事は史実であり、平成の御世の東北を中心とした東日本大震災の
ような長い時間ゆれ続けた地震であった事が「中右記」等々から知られる。詳しくは、下記PDFファイルを参照されたい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/108/4/108_4_399/_pdf
内の永長東海地震の記述。
洪水を伴なった、大地震による伊勢湾深部 木曽・長良・揖斐川河口部に津波が押し寄せ甚大な被害があったように推測され
る。
その当時、伊勢湾の河口は、現在より相当内陸にあった可能性が高い。その当時も庄内川・五条川等々へも津波の余波は、
押し寄せた可能性を推測する。その復旧に尽力していたとすれば、5年後の康和3(1101)年頃には、落ち着きを取り戻しつつ
有った時期となりましょうか。こうした時期にまたしても留めの大洪水が起こったとすれば(天災の記録が残っている事柄では、
確かに康和3年には、京都で霖雨の記録あり、大洪水を引き起こしたかは不明。一方、大洪水の可能性は、天治2(1125)年
と永久元(1113)年にはありそうです。中右記には、天治2年和暦8・9月(西暦では、9・10・11月カ)に長雨があり、宇治橋流破・
鳥羽殿人々宿舎・御堂等破壊。近くの近江打出浜 大水なる記録が存在している。あくまでこの長雨が広範囲とすればですが・・。
一番可能性が高いのが、永久元(1113)年(和暦8月20〜21日)西暦10月8〜9日 洪水 (大日本古記録) でしょうか。
神仏にすがるしかその当時の人々には、成すすべが無かったことは推察するにあまりあるのではなかろうか。
そして、国衙に関わる熱田社や二宮へ寄進がされたというのが、一番妥当な解釈になりましょうか。
震度はどの程度かは、不明ですが、限りなく震度6に近い震度5程度であろうか。安政東海地震の震度と同じであれば・・・。
しかし、巳の記載の無い二宮寄進もあり、まとまって寄進がされたのは、巳でありましょうが、それ以前の可能性もありそうで
す。
そして、この当時諸国では、洪水・旱魃害も頻発したようで、11世紀代頃よりの末法思想が、相乗作用として働いた可能性を
推測する。 拙稿 平安末期〜鎌倉期にかけての自然災害・疫病等の大流行について
を参照されたい。
<以上の事が的を得ていれば、大縣社の二宮化は、12世紀初頭頃が想定でき、諸国の一宮成立と同時期となりましょうか。
さすれば、大縣社領が、鳥羽院領になったのは、二宮化の前頃でありましょう。あくまで推測であります。
参考までに白河院政は、藤原伊通領の京都市伏見区竹田に隣接する御殿に近侍する院司等により、太政官制を利用した
政治形態であったとか。>
しかし、一方「己」と解釈すれば、「のみ」となり、年ではなくなります。こうした解釈をされている物に、「尾張の歴史地理 中編」
水野時二著(昭和36年3月版)があります。こちらを取れば、年ではなくなりますが、どちらにしても、この地域では大洪水やら大
震災等々での「荒」・「川成」が広範に起こっていた事には、違いがないかと。
畠 大縣宮領 9町3段60歩の内訳は、上記の部分一覧の通りであります。そして、記載には、二通りでされている事に注目
されたい。
大縣宮領と二宮領。記載は違えど、同一の神社 大縣社領であります。検注状記載者は、この両者の社領には、違いがあり、
それを意識して記述したのでありましょう。犬山市史執筆者も注目され、大縣社が、二宮化された以前と以後の区分と把握され
ています。私もそのように思っています。
また、大縣宮領では、在地の田堵(有力農営者)カであろう者からの寄進。二宮領は、郡司からの寄進という違いもあるようで
す。二宮修理田については、検注状には、寄進主が記載されてはいませんが、二宮領として国衙が寄進したのでありましょう。
・ 次に検討するのは、永仁3(1295)年9月12日付の関東下知状案(犬山市史 資料編三 203号文書参照)であります。
二宮大宮司 原高春の系譜(犬山市史 執筆者の見解)の原弥三郎高国と九条家の相論から垣間見られる大縣社領につい
てであります。
原高春は、丹羽郡郡司家に関わる者であり、醍醐寺領荘園の郡司寄進地(二宮領)は、この丹羽郡郡司家との関わりある者?
(橘朝臣)でありましょうか。或いは、尾張国国司 橘俊綱(宇治拾遺物語 巻3 参照、又はhttp://www.koten.net/uji/yaku/046.html
参照)系という事は考えられないのであろうか。拙稿 永延2(988)年 尾張国郡司百姓等解文 現代訳文の一例 第30条を参
照されたい。「舎人 2人 橘理信 藤原重規」の橘理信なる人物は、橘一族の流れを汲む者ではなかったろうか。
「高春は、源頼朝が勝利する源平の合戦時、高春の母は、関東の支配者平常広(頼朝を支援)の妹という関わりで、頼朝方に
ついて参戦し、寿永3(1184)年に頼朝から「所領を安堵」する下文を貰っている。」(吾妻鏡 同年3月13日条 参照)
これまでに集積した大縣社領を公的に安堵された事になりましょう。鎌倉御家人として、地頭兼二宮大宮司として。
しかし、「元久年間(1204〜1205年)以前、高春の子 高直の代に良峯家系図から言うと従兄弟に当たる高信が、伊勢平氏
の蜂起に何らか関わり、元久年間(1204〜1205年)幕府より地頭職を召上げられ、御家人からも外されたようで、これ以後二
宮大宮司として在地支配を継続したのであろう。」(犬山市史 通史 上 P.252〜253 参照)と。13世紀初頭からは、二宮大
宮司の後ろ盾は、大県社領の領有者(比丘尼顕浄カ)しかいない。その当時幕府の地頭は、中務丞国盛が跡職を付与されている。
* しかし、「良峰一族の原高直が 1204( 元久元 ) 年に伊勢で起きた平氏の反乱に関係して所領没収され、ついで1216(
建保4)
年に立木田高光が丹羽郡司を退任後、その職は子孫へと伝承しなかった。そして、稲木庄も良峰氏の手を離れ、美濃の土岐光
行の一族がはいることになった。」( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1460.pdf 参照 )という記述もあり、犬山市史
とはやや違ったニュアンスであります。どのような史料で記述されているのかは、確認はしておりませんが・・・。*
高直(13世紀初頭頃の人物カ)の子に、系図上では、僧 浄円(元享2年 1322年 春日部郡林・阿賀良村名主等連署状にあ
る沙弥 浄円カ それにしても年数が離れすぎのようにも末裔であろうか。・・筆者注)がいて、大縣社神宮寺に関わっていたと推測
出来、宮司が任命権を有していようか。二宮神宮寺は、6ヶ所在ったことが犬山市史から知られる。
「永仁3(1395)年頃の原高国(良峯氏系図には現れない人物)と関わりあう人物として、年不詳(承久の乱1221年以前カ)の某
申状二通(犬山市史 資料編3
195・196号文書 P.599・600参照)によれば、高範なる者、良峯氏系図にはみえませんが、原
高国より一代?前の系譜であろうし、女院領(兼子の猶子 修明門院藤原重子カ)に関わりがあったのであろう。
その女院領には、小弓荘内に散在する神畠(溝口 現犬山市羽黒)と神田(入鹿迫 現犬山市池野 7町歩)とを領有していた事
が知られる。」(犬山市史 通史 上 P.253〜255 参照)
小弓荘は、良峯家が代々本主である筈、そこに大縣社領が散在。同一氏族間での相論の様相を呈している。
寄進を受けた上位の者が違うことからではありましょうが・・・。永仁3(1295)年頃の二宮大宮司(原 家)家は、果たして良峯家
と関わりのある人物なのであろうか。
「良峰一族の原高直が 1204( 元久元 ) 年に伊勢で起きた平氏の反乱に関係して所領没収され、ついで1216( 建保4)
年に立木田
高光が丹羽郡司を退任後、その職は子孫へと伝承しなかった。そして、稲木庄も良峰氏の手を離れ、美濃の土岐光行の一族がはい
ることになった。」という記述もありますから。
*
犬山市史 通史 P.198〜200の”小弓荘と小弓開発荘”では、「小弓荘は、おそくとも11世紀には成立しており、さらには12
世紀にはいるとその領域を拡大し、小弓開発荘とする新荘が建てられていた事実が知られる。」と。また小弓荘の寄進者は、「系
図の語る季光としておきたい。」(上村喜久子「尾張『良峯氏』考」日本歴史 579)と。そして、「当初の小弓荘は、継鹿尾(ツガオ)・
善師野(ゼンジノ)・羽黒・現犬山市域を中心に成立していたと考えられる。関連地名は未開地をも含む広範囲の地域に分布してい
るが、すべての土地を排他的に支配するのではなく、他の所領が複雑に入り組み権益が重なり合った状況が想定される。」と。*
関東下知状(永仁3年 1295年
)からは、大縣社領(二宮以前カ)は、「宮中80余町」であったようで、初発からの私領であろうか。
神戸制による遺制分であるのか国衙領であった筈。その後、修理田(免田として、神戸制が、崩壊した以降に国衙より寄進された可
能性が高い。)として寄進されたものであろう。鎌倉期には、ますます盛行し、勅免・国免以外に、目代の免判によっても成立したとか。
{醍醐寺文書(鎌倉遺文 巻8 竹内理三編 東京堂出版 昭和53年版 P.245 官宣旨案)によれば、「国衙領(尾張国のどの地
域か不明でありますが、推測が許されるのであれば、おそらく尾張国中嶋・愛智・丹羽郡内の国衙領と思われます。・・筆者注)名 重
枝・次郎丸名」は、元は二つの名(名田畠三十余町)であったが、景長(中條カの注あり)国務時に、裁免を蒙りし後に當国二宮庁屋修
理料として寄進。
この名田畠は、「開発以降数十代の領主(誇張し過ぎではなかろうか?せいぜい数代カ・・筆者注)」の尾張俊氏(尾張氏一族カ)が
合わせて相伝していた事を認められたのでありましょう。この名田畠30余町を大縣社に寄進した。天福元(1233)年頃の事であり
ましょう。
付記でありますが天福年間にも地震があったという。そして、この寄進と共に大縣社庁屋一宇(銭数百貫文を用いて)を再建して
いる。
しかし、この寄進は、成連法師(守護の威を借りる者 また徳大寺大納言家・前司帥大納言等の口利きカ・・筆者注)の横槍で、天福
元(1233年の期間を指す。)年に承久以後の国免・勅免以外の神領を国衙に戻す一国平均綸旨により、国衙へと返納されそうになった
ようですが・・・。仁治2(1241)年4月24日付けの官宣旨の運びとなったのであろう。大日本古文書 家わけ第19の8 醍醐寺文書
P.265〜268でも確認できる。}醍醐寺カと熱田社カの綱引きの様相を呈し?、尾張国守護や院等も加わった様相であった可能性が
高い。
この相論は、建治3(1277)年9月11日で決着したかのようです。尾張俊氏(尾張氏一族カ)が合わせて相伝していた事を認められ
ていた。40数年の相論であったかと。鎌倉時代承久の乱以降の幕府中・末期の出来事ではあった。
*
上記名田畠30余町は、尾張俊氏が、そして、70余町は、成連法師が領有している事が、官宣旨案から知られる。*
九条家の大縣社領(広義の意味)は、承久以後の返還に際し、領家・地頭を置かない一円支配を認められていたようで、再度、永仁
(13世紀末)年間の下知状で、一円支配と鎌倉幕府より裁定されましたが、永仁年間の相論では、原高国は、某村(阿賀良村カ・・私の
注)は、宮中80余町外の所領と申し述べている。また、大縣社領の九条家による検田は実施されず、原高国は、古帳(過去の検田帳カ
)により、懈怠なく九条家へ納めていると言い、九条家側は、高国は、文永年中(1265〜1274年)から色代(銭納)で納め、夫役をしな
いと非難されているようで、社官(二宮大宮司)兼田所職であると同時に大番役を務める{文永(13世紀中)以来幕府御家人として)原
高国は、したたかに大縣社領の実質支配をなしえていたといえましょう。
しかし、阿賀良村は、先祖が、自ら開発した相伝地であり、二宮領として寄進?したが、大縣社領(二宮以前)と裁定されたのでありまし
ょうか。
*
二宮神宮寺(創建は、犬山市史からは、平安時代末期で、6ヶ所の神宮寺跡として残ると)に関わる源 助良・橘盛保(鎌倉末期<
元亨2年1322年 春日部郡林・阿賀良村名主等連署状に名主等として登場する者)の先祖は、或いは阿賀良村の開発時の実質的
な領主(在庁官人カ)として君臨していた存在ではなかったろうか。
それ故、二宮大宮司たる永仁3年当時の原 高国は、某村(私は、阿賀良村であろうと推測するのですが・・)は、宮中80町歩以外
の所領と九条家との相論で申し述べたのかも知れない。
良峯家と原家は、系図上では、繋がっているようですが、果たしてどこまで信頼できるのであろうか。*
「弘安7(1284)年に立券された千代氏荘にも重枝次郎丸名が存在し、中嶋・愛智・丹羽郡内に広く散在する田 19町6反、及
び畠29町5反が含まれていた。」(醍醐寺文書 犬山市史 P.259 参照)と記述されていますが、鎌倉遺文 巻20には、見当た
らなかった。大日本古文書 家わけ第19の1 醍醐寺文書 東京大学出版会 昭和46年版 P.266〜268に重枝次郎丸田畠の
記述は存在している。弘安5(1282)年7月付けで、浄金剛院領尾張国衙領注進状案に。内容は、重枝次郎丸田畠、中嶋・愛智郡
内に広く散在する田 19町6反、及び中嶋・愛智・丹羽郡内に広く散在する畠29町5反でありました。名田畠 計 49町1反になり
ましょう。天福(貞永の後、文暦の前。1233年の期間を指す。)年間の名田畠の系譜とすれば、20町程増加した事になりそうです。
*
「浄金剛院領は、後白河院以後の御願寺領であり、後嵯峨天皇(在位1242〜1246年)の領有所領である。」(岩波講座 日本
歴史 中世1 1967年版 P.186 参照)その後 浄金剛院領は、後嵯峨院皇后領(大宮院領)となった。*
大日本古文書 家わけ第19の1 醍醐寺文書 P.45には、応永5(1397)年4月28日 義満花押 今河讃岐入道宛文書 足利
義満御教書があり、内容は、「尾張国千代氏名重枝次郎丸は、一円国衙領であり、押領人を退け、三宝院雑掌に沙汰せしめよ。」で
あり、押領人は、不明でありますが、あながち、同名の名だけではなく、系譜的には天福元年頃の名の流れであろうと推測出来るので
はないかと。上記 尾張国千代氏名重枝次郎丸の田畠も領有者は、二転三転しているようです。
更に付記すれば、別の醍醐寺文書(大日本古文書 家わけ第19の15 東京大学出版会 2012年版)より明徳元(1390)・2(139
1)年の出来事であります。
明徳元年8月7日 土岐満貞(土岐伊予守)より戸蔵左近将監宛に「熱田座主職の事として、醍醐寺座主宗助が任じられた。」と
明徳元年9月2日 室町幕府 斯波義将(左衛門佐)より土岐伊与守(土岐満貞)に「美濃守代官(三国守護から任命された代官
土岐頼忠・・私の注)を退け、熱田社座主職・同座主領を理性院宗助の雑掌に沙汰」と。
明徳2年5月日 熱田社座主領注文案に「一所科野(現 瀬戸市品野・・私の注)郷」の記載あり。
*
この科野郷を含め熱田社の神領は、尾張知多郡英比郷・尾張愛智郡大脇郷・土取村(5反畠)・新密宗領所
・蔵司田・寺家管領の7ヶ所
明徳2年5月12日 室町幕府 細川頼元(右京大夫)より土岐満貞(土岐伊与守)宛 「熱田座主領(7ヶ所)を理性院雑掌に
沙汰されるべく。」と。
*
三代将軍 義満治下の三国守護(伊勢・尾張・美濃国守護)土岐康行は、代々幕府の指示に従わず支配地で
違乱し、荘園主の領地を荒らしていた。その康行の弟で京都へ土岐家から派遣され幕府と土岐家の連絡役をし
ていた人物の土岐満貞でありましょう。
将軍は、この満貞の野心を利用して、尾張国守護に任命したようです。土岐家の内紛の勃発の原因ともなりました。
(詳しくは、多治見市史 通史 上 参照)
理性院とは、「醍醐寺の5つの塔頭の門跡寺院
(三宝院、金剛王院、理性院、無量寿院、報恩院)のひとつであっ
たようです。
室町期初期頃までは、醍醐寺の座主は、5つの塔頭の住職が交代で務めていたようで、満済以降三宝院の住職が、
代々醍醐寺の座主を勤めるようになったと。*
以上の記述から、明徳元(1390)年に熱田座主職に伴う座主領(科野郷)が、三国守護 土岐氏一族に押領されていった事に対す
る醍醐寺側からの反論で、醍醐寺座主(理性院)宗助に、この所領は安堵されたという一件であったのでしょう。
上記のような流れのなかで、応永5(1397)年足利義満御教書にて、尾張国千代氏名の重枝次郎丸(熱田社に関わる人物の領地カ)
は、熱田社座主を兼帯する醍醐寺座主領とする沙汰が下されたのでありましょう。
さて、大縣社領(広義の意味)は、二宮として位置付けられる以前の社領と以後の社領に分けられ、尾張国各郡に広く散在する神
領は、後者であったようです。社領形成は、初発は、大県社領(二宮以前)として田堵層による私領の寄進から、二宮として位置づけ
られた12世紀初頭(或いは11世紀末カ)からは、郡司或いは在庁官人・領主的名主層からの寄進で拡大していったと思われる。
二宮以後の寄進主にすれば、寄進によって神領となり、免田化されることになりましょうから。
また、神領(散在社領)は、寄進主からの貢納という形を取り、大縣社は、直接には、関わっていない支配形態であったかと。
犬山市史では、「大縣社固有の所領は、神社敷地境内・社家の屋敷・神社周辺の土地(入鹿・羽黒・今枝の地カ・・私の推測)」で
あり、二宮大宮司家の元々の私領(80余町歩)であったのであろうと。
* {「楽田村青塚」に、かつ て は大県神社 の「-の鳥居」があ り、
ここまでが神社の境内だった。境内は広大で、西楽田をも含んでい
たことになる。}( http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2165/1/AN00211590_92_1.pdf
参照)という記
述を認めれば、楽田村近辺は、神社境内ということになり、かなり広大な社領ということになりましょうか。
原 高春が、二宮大宮司兼幕府御家人として地頭として頼朝に寿永3(1184)年下文を与えられ、「所領を安堵」された地域とほ
ぼ重なるのでありましょう。
二宮以後の社領は、散在社領が主であり、尾張国各郡に広く散在していたし、村乃至は迫(サコマ)と呼称される地域も存在して
いたのでありましょう。主たる散在社領は、13世紀中頃から銭納化が行われていったのか、或いは米納のままで、社官が集積し
た後、銭にして納めるようにしたのかも知れない。
3.大縣社領の領有者
大縣社の二宮化は、12世紀初頭(或いは11世紀末まで遡るかも知れませんが・・)であれば、鳥羽院領としての大縣社領は、
11世紀後半頃を想定しえるのでは・・・。しかし、鳥羽院領としては、文献上では、康治3年=天養元(1144)年正月24日の鳥羽
院庁下文の内容からしか知られない。
「院庁下 尾張国在<庁官人等カ>
可カ令別当権大納言藤原卿家知行弐宮社務事
右カ件弐宮社、有由緒為彼大納言家所知、依子孫相継永無有牢籠、可令知行社務之状、所仰如件、在カ庁官人等宣承知、不
可違失、故下、
康治3年正月24日 主典代主計権助兼皇后宮大属大江朝臣(花押)」
更に詳しくは、建保3(1215)年8月の後鳥羽院庁下文(犬山市史 資料編3 P.603〜604 参照)で内容がはっきりしてく
る。竹田替・成海荘との交換等々も記載されています。
それによると。「二宮社は、故九条前大相国(藤原兼実)、鳥羽院庁下文を賜いてより多年領掌す。云々」(同下文 脚頭)と。
<大縣社領 領有者推移>
藤原伊通ー>藤原兼実ー>九条院(藤原呈子)−>比丘尼顕浄ー>藤原兼子ー>兼子の猶子ー>承久の乱(鎌倉幕府領)
(鳥羽院領大縣社領 安元2(1176)年 (兼子領成海荘と比丘尼 修明門院重子カ
と伊通領京都市竹田 没 領大縣社領を交換 建保3年 1215年)
を交換。竹田に、鳥 *
安楽寿院創建は、保延3(1137)年と百錬抄に記述されている。
羽院の安楽寿院創建)
−>九条道家 以後九条家が領有
(平政子の配慮カ)
以上の推移をみれば、鳥羽院への大縣社領の寄進は、伊通領有の京都市伏見区竹田の地を大縣社領と交換した時期より
前でありましょう。交換後直ぐに寺院を建立したとして、どの位の年数がかかったのでありましょうか。数年近くはかかっていた
であろうと推測すれば、1130年代以前からでありましょうか。
大縣社の二宮化は、1100年代前後頃かと。大縣社のその頃の領有は、二宮宮司家であった筈。高春・高直は、御家人でもあり、
地頭になったのは、寿永3(1184)年頼朝の下文であり、所領を安堵されている。
寿永以前の領有の経緯は別にして開発領主として幕府より公認されたのでしょう。二宮大宮司と地頭という二束の草鞋を履い
て。
いったいいつ大縣社領(二宮以前)は、誰の手により鳥羽院(堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129
年から27年間,院政を行う。)領となったのであろうか。
11世紀末頃から旧来の国造系の尾張氏に替わって在地領主としての郡司層が出てくる事は、史実であり、院政が開始され
はじめた頃より、旧来の郡司層(尾張氏系)は、自身の私領の保全を図って院に寄進したのかも知れない。その系譜が、鳥羽
院領として出てくるのであろうか。熱田社と大縣社の宮司は、古代からの婚家?であり、繋がりはあった筈。熱田社の神領の寄
進は、平治の乱(1159年)以降であるようです。
確かに小右記には、長徳2(996)年10月13日条に尾張氏の一族とみられる海(部カ)宿禰某が、丹羽郡少領に擬せられてい
るという記述もありますし、長元4(1031)年の太政官符には、尾張国丹羽郡大領 外正六位上 椋橋(クラハシ)宿禰惟清を補
任という記述も類聚符宣抄 第7 にある。椋橋家は、京より下りし氏族であり、丹羽郡に居住し、郡司を務めるようになった家
であります。この頃の大縣社は、丹羽郡郡司家からは、独立した存在であったかと。尾張氏との繋がりを推測する。
何やら尾張氏の影響が、尾張国の郡域には、まだまだ残存しているような状況であり、こうした所領をいかに自らが有利に保
全できるかと模索していたのではなかろうか。
丹羽郡では、在地領主制を内包する新たな層が、新しい郡司層として台頭しつつあったのでしょう。そうした事柄が、丹羽郡
の良峯家系図に入りこんでいると捉えられる。安食荘での橘朝臣(春日部郡司カ)もそうした新しく台頭してきた郡司層の一員
でありましょう。
10世紀末頃尾張国へ赴任した国司 藤原元命朝臣により旧来の郡司層は、収奪し尽され、以後衰退の道を歩んだといえまし
ょうか。(大震災・大洪水等により、復旧に資金がかかったという要因も加わった事が衰退を加速した可能性がありましょう。)
11世紀代は、在地領主化する新たな郡司層の出現で、旧来の郡司層は、駆逐されていった可能性を推測致します。
しかしながら、こうした状況下でも、尾張氏一族は、在庁官人・熱田社権宮司・在地では領主名の名主として存続していた様相
を呈している事は、醍醐寺文書より垣間見れた。
更に付記しておけば、大縣社領たる春日部郡阿賀良村には、鎌倉末期の名寄帳が円覚寺文書として残されている。その中に
二宮への米と同時に、領家分(九条家への郷分としての貢納)の米が記述されている。
対して隣村である春日部郡林村には、同じ大縣社領であっても領家分の米は、記述されていない。こうした点は、二宮以前の
寄進は、大縣社領。以後は、二宮領と区別されていたのではなかろうか。鳥羽院領大縣社領は、二宮以前分の寄進とみれば、
差異が出てくるのであろう。社官 後には大番役の勤めもしたと幕府から認められたようですが、原 高国のしたたかな相論
の言い分からみて、文永以降には、銭納化・夫役放棄を通し、その他の散在神領は、二宮社領とした可能性は高い。
鎌倉末期には、商業活動も活発化し、社官は、その当時 現 春日井市下市場町に市場があったようであり、何らかの利益
をここから得ていたとも取れそうです。
拙稿 鎌倉期末期以降か? 篠木荘内に於ける市場(いちば)開催について
を参照されたい。
複雑なのは、承久の乱後の大縣社領の領有。九条家に鎌倉幕府は、大縣社領には、領家・地頭を社領に置かず、一円支配
を認めた事。二宮宮司家(原 家)は、社官として田所職を恩顧として与えられ、在地支配を継続出来えた事でありましょうか。
その後の経緯は、資料もなく、不明でありましょう。
しかし、「南北朝期に、南朝方として北朝方土岐氏と対峙したのは、土岐一族の傍系の原・蜂屋氏であろう。」(新修名古屋市史
巻 2 参照)と。
平成27(2015)年12月29日 脱稿
平成28(2016)年1月7日 一部加筆
平成28(2016)年1月26日 一部訂正加筆
平成28(2016)年9月15日 一部訂正加筆
平成29(2017)年3月2日 一部訂正加筆
付記@
「南北朝期には、熱田社 藤原氏宮司本流野田氏一族は、南朝方に加担していたのでありましょう。在の野田季氏の娘を母に持
つ、京の足利尊氏の近習 千秋高範に在の宮司藤原一門が頼っていった可能性が高い。
そして、「京で活躍する千秋氏が、在の熱田在住の野田氏を飲み込み、熱田大宮司主流になっていった。」のでありましょう。信長
の馬回り役として登場しているのは、その千秋氏一族であった。」
拙稿 天文18年 信長の熱田八ヶ村宛の制札から垣間見られる熱田社についての覚書
より引用
付記A
二宮社に伝わる織田信清カによる定 *
左 定 野田社家なる記載。永禄7(1564)年10月とかなり時代が
二之宮 くだりますが、野田社家とは、いかなる社家でありましょうか。
定 野田社家百性中 野田社家とある以上、社家でありますから、熱田社社家もかっては、
一新儀諸役・門並令免許事 野田でなかったかと。もし、そうであれば、この時代頃には、かっての
-
借銭・借米不可返弁幸 熱田社宮司系統が、二宮社宮司へと転進した可能性は、考えられな
一郷質不可取之、理不尽之使不可人事 であろうか。
右条々、於違犯之輩者、可処厳科者也、仇下知
如件
永禄七年十月日
織田信長・信清
の戦場となった地点は、楽田・羽黒・小口・犬山・金山等々となり、いずれも「木曾・稲置街道」上で、「大県神社」や
入鹿村の部分は空自となる。これは、二宮が自検断の村「自力の村田」として、入鹿村と共同して、信長の軍隊の侵入を阻止した
からであろう。
「二宮」は外界の戦いを後目に、独自な世界を築いていたと思われる。しかしここにも、信長・信清の対立は持ち込まれ、守護に
よる一国平均の役=「反銭・棟別銭」の賦課は及んでいた。
それに対する対応が、この文書の基本的な性格を形作っていると思われる。
( http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2165/1/AN00211590_92_1.pdf
参照)
付記B 上記 pdfファイルからの引用
「永禄年中の犬山城主 織田信清権力の経済的な基盤は室町幕府料所の
「入鹿・羽黒・今枝」にあり、これ と隣接する二宮
の世界は、料所の支配 と密接に関わっていた と言
うことができる。」と。.