蘇我氏の系譜についてとその勢力拡大の推論
1.はじめに
いったいいつごろから蘇我氏は、日本に渡来し、欽明朝になって一気にその頭角を現したのだろうか。その祖ではなかろうかという日本史に
於ける空白の4世紀に視点を置いて、推論として述べてみたい。空白の4世紀については、二つの拙稿を参照されたい。
日本史に於ける 空白の4世紀についての覚書 日本史に於ける 沈黙の4世紀を伝える民間伝承について
2.蘇我氏の系譜
ウィキペデイア 蘇我氏 の系図を引用。(最終更新
2017年3月15日 (水) 12:09)
詳しくは https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F を参照下さい。
<蘇我氏系図> <参考 倭の五王>
孝元天皇 一般的には「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→
┃
允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇と考えるのが
彦太忍信命 通説である。
┃ 倭国の実態や、倭王とヤマト王権の関係自体も、現時点の
屋主忍男武雄心命 学会等で明確化されているとは言い難い。
┃
( ウイキペデイア 倭の五王 最終更新 2017年3月10日 (金)
14:36
武内宿禰
より引用)
武内宿禰
(創造上の人物・実は葛城襲津彦カ・・私の注)
┃
蘇我石川宿禰 「尾張国の渡来文化を探るー馬津駅(湊)を中心に
┃
してー」 沢田 金康著 1985年4月刊 P.89より引用・
満智 (履中・雄略朝カ・・私の注)
┃ 三代実録によると「蘇我の祖 石川宿禰が石川の別
韓子 (雄略朝カ・・私の注) 業に生まれ後 蘇我の大家を賜った。」(石川朝臣木村の奏言)
┃ また、満智は、履中紀、古語拾遺などに記載があり、
馬背(別名 高麗<コマ> 韓子の孫で稲目の父カ・・私の注)
┃ わけても古語拾遺に、「蘇我麻知宿禰として三蔵を
稲目 検校しむ。」とある。
┏━━━╋━━━━━━┓
欽明天皇┳堅塩媛 馬子 境部摩理勢
┏━━━━┫
┣━━━┓
推古天皇 用明天皇 蝦夷 倉麻呂(雄当)
┃ ┣━━━━━━┳━━┳━━┳━━┓
入鹿 倉山田石川麻呂 赤兄 連子 日向 果安
┃ ┃
天智天皇┳姪娘
安麻呂
┃ ┃
元明天皇 石川石足
┃
年足
┃
名足
* 平成29(2017)年4月13日(木)朝日新聞48625号(日刊) 13版 2面 いちからわかる「奈良・明日香村に巨大な古墳だって?」
2014(平成26)年に県立橿原考古学研究所が、学校の校舎を建て替える前に調査した結果、東西48m、幅7mの巨大な石張りの
溝を発見。当時は、豪族の屋敷跡と考える意見もあったようですが、最近の調査で石室の痕跡がみつかり古墳と確定。(小山田古墳
と命名)
一辺が70mの方墳だったようで、7世紀頃(飛鳥時代)の最大級の方墳になるという。前回の調査では、溝の斜面に特殊な板石を
階段状に積み上げる等超一級の古墳であることは間違いがないとも。有力候補は、舒明天皇か蘇我蝦夷・入鹿か。決着は、調査待ち
と推察されます。
3.蘇我氏の足跡
・ 「日本書紀」 応神天皇3年是歳条によると、「百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、木菟宿禰は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰とともに遣わされ、
その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した。」
・ 「日本書紀」 履中天皇2年10月条において、天皇が磐余に都を作った時に、蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主らと共に国事を執ったと記されて
いる。
・ 「古語拾遺」 雄略朝に蘇我麻知宿禰として三蔵(実際は、二蔵カ)を検校しむ。
( 満智は、秦氏・東文・西文氏に大蔵・内蔵の出納・記録の事務を分掌させた。)
・ 「雄略紀」9年3月条に蘇我韓子(満智の子)は、「大伴・紀氏等とともに新羅を討つ。」同 5月条に「紀小弓の子に韓子は射殺された。」
・ 宣化・欽明朝に「稲目は財務に手腕を振るい、王辰爾を遣わして船賦を数えて記録させた。また、天皇の命により諸国に屯倉を設置している。」
(中部以西において26ヶ所の屯倉を設置。尾張国では、入鹿・間敷の2ヶ所の屯倉を設置)
・ 「日本書紀」 欽明朝にかけて蘇我稲目とその子 馬子等が、白猪・児島屯倉の設置と経営の為吉備五郡・吉備国に派遣された記述もある。
{ 山陽地域では、蘇我氏が関わった鉄鉱石採掘事例(蘇我氏は、吉備に置かれた屯倉の管理に直接携わり、吉備の鉄に関わる集団の食糧の確保に努め
たとも指摘されているかと。・・拙稿 「渡来人 秦氏についての覚書」 参照 鉄鉱石による製鉄カ
また、東京工業大学製鉄研究会から出された「古代日本の鉄と社会」 平凡社 1982年版をみると、下記のような記述もある。
播磨国風土記・日本霊異記・扶桑略記等に出てくる鉄穴は、砂鉄採集というより鉄鉱石採集であり、我国の初期鉄資源採集方式は、露天の竪穴採掘ではな
く、横穴を持つ鉱山採掘であろうと記述されている。
また、初期の製鉄を全て鉄鉱石と主張するつもりはないが、文献的には、むしろ鉄鉱石と思われる物が古いのであって、これは、自然科学の側の、チタンを
含まぬ鉄鉱石やチタンをわずかにしか含まない砂鉄を原料とした方が技術的には容易いという見解である。(同書 P.180 参照)と。}
4.まとめ
蘇我氏も現代流に言えば””特異な難民””でありましょうか。安住の地を求め、日本へ。その当時、東アジアでは、現 中国ー>朝鮮半島ー>日本へが難民ル
ートであったようです。
「三代実録」に記載されている石川朝臣木村の奏言を認めれば、祖 石川宿禰が、蘇我(奈良県 葛城地域)の大家を賜った事から蘇我と名乗ったと。
「日本書紀」では、祖 石川宿禰の太祖は、武内宿禰(年齢3百数歳とか。創造上の人物名としか思えません。・・・私の注)とか。祖 石川宿禰なる「石川」は、地域
を示しているとすれば、その地は、現 大阪府ではなかろうか。そして、河内王朝を創設した人物と共に朝鮮半島から移動してきた”アメノヒボコ族”ではなかろうかと。
* 参考までに、{出雲神族の末裔「富氏」の口伝には、「物部」を将としたアメノヒボコ族が、「出雲」に攻め込でいくという一節があります。アメノ
ヒボコ族というのですから、個人ではないことになりますが、アメノヒボコ=「誉田真若王」とすれば、日本海側にいた「誉田真若王」が、「河内」
にたどり着く経路が推察できます。
「日本書紀 垂仁紀」には、「崇神天皇の御代、大加羅国」の王子「都怒我阿羅斯等」(ツヌガアラヒト)が来訪と。そして、「第十一代垂仁天皇
の御代、新羅王の王子 天日槍(アメノヒボコ)渡来カ」{網野町浜詰(現 京都府京丹後市)にある志布比神社の社伝(『網野町史』)}と。
{この当時の渡来人(来訪者)は、異国の王権と倭国の王権間に於ける互恵関係であり、異国からは、王族の子弟が倭国への「質(ムカハリ)」所謂
人質として。しかし、日本の戦国時代の服従という意味合いよりも弱い、外交使節的な面と文化・技術をもたらす面が強く、倭国からは、異国へ
軍事援助をするという互恵関係で成り立っていたという。
「倭国と帰化人」 P.35には、意富加羅(オオカラ)国王子 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)伝承を例として、この伝承を加羅国(後の任那)王権の
倭国への「質(ムカハリ)」ではなかろうかと。
日本書紀では、「意富加羅(オオカラ)国王子 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)は、福井に上陸カ。到来時期は、崇神天皇の頃であったが、崇神天皇に
謁見する前に、天皇は死去。その後即位した垂仁天皇に3年仕え、帰国を願い出て許された。」と記されている。
古事記には、天日槍{アメノヒボコ 斯廬の都邑(後の新羅)の王子}が、垂仁天皇の御世に来朝。同様な記述は、現 京都府京丹後市(旧 網野町
を含む)の網野町史に、網野町浜詰にある志布比神社社伝としてもある。しかし、この王子は、「質(ムカハリ)」であったのであろうか。出雲風土記
には、天日槍の事も記述されているが、出雲先住の首長と国占に関わる説話としてであり、はたして、「質(ムハカリ)」であったのであろうか。
さて、書記には、天日槍伝承はないようですから、倭王権が関わっていない事柄でもあった可能性もありましょうか。}
(上記引用は、田中史生著「倭国と渡来人ー交錯する「内」と「外」−」吉川弘文館刊 2005(平成17)年版。やや史料批判の甘さはあり
ますが、概ね的を得ていると思いました。それを補ってくれるのが、地元に居を置く大山誠一著「日本古代の外交と地方行政」 吉川弘文館 平
成11年版でありましょう。併せて参照されることを望みます。)
以下の年表は、垂仁・景行朝の出来事。
366年 倭国の斯摩宿禰、卓淳国へ行き、使者を百済におくる。
367年 千熊長彦を遣わして新羅を責める。
369年 新羅を攻め、比自体(ひしほ)以下の7国を平定し、比利以下の4邑を降伏させる。
372年 百済の肖古王、久テイらを倭国に遣わし、七枝刀1口・七子鏡1面をおくる。 (
七枝刀は、石上神宮に保管カ )
382年 襲津彦を遣わし、新羅を攻める。
倭国の斯摩宿禰は、北九州の倭国か畿内の国か。おそらく畿内の国の可能性が高い。そして、斯摩宿禰の”斯摩”とは、どこの地域であろうか。
斯摩=嶋=葛城であれば、この斯摩宿禰は、葛城氏一族の可能性がありましょうか。
また、斯摩宿禰・千熊長彦・(葛城)襲津彦等は、同一人物かそれともそれぞれ別人物なのであろうか。私は、別人物と推測しています。*
とすれば、蘇我石川宿禰(宿禰は、律令期の姓ではなく、この当時の尊称カ)の祖は、案外斯摩宿禰ー>葛城襲津彦の流れを汲む一族の可能性を推測
するのですが、どうであろうか。
以上は、歴史学を学ぶ方々の書籍からまとめえた事柄ではあります。
さて、以下述べる事は、歴史学からではない方の論述からまとめたものです。大阪大学医学部系からの記述でありますが、大胆に「日本書紀」等の
記述は、天武朝が、正史として記述した以上、そこには、天武天皇が政権を取り、不都合な部分は、消去若しくは改ざんされ、それ以前の過去は、正
しく反映していないという前提が横たわっております。歴史学上でもそのように捉えている筈。
しかし、著者は、何らかの正しい過去の痕跡があろうというカギになる言葉等を注意深く探りながら、一つのキーワドから推論されたようです。著
者は、推論でなく証明した事柄という強い信念が横たわっているように読み取れた。医学の心得えのある方かと。
著者は、客野宮治 「蘇我氏の研究」文芸社刊 2015年初版であります。
結論から言えば、「蘇我氏は、皇統の中から生まれ、定められた枠から一歩も踏み出る事無く、そして皇権の完成とともに自ら姿を消した。その誕生
も消失も、ある意味必然だったといえる。」と。(同書 P.11 序 からの引用)
私なりに、噛み砕いて記述すれば、蘇我氏は、現天皇制の礎となった「継体天皇」以降連綿と続く皇統の基を築くために出現させた皇統系の臣下まで
降りぬ皇統と臣下の中間的存在であり、有る意味天皇に嗣ぐ存在であり、絶対的な権力を行使した者という把握でありましょうか。
天武天皇側からすれば、天武天皇系は、それまでの皇統の流れではない。それは、皇室内のスキャンダルであり、表に出したくはない事柄であったの
でしょう。それ故蘇我氏の痕跡を、皇位を狙う極悪人として、正史から葬ろうとしたと証明したと。
さて、著者のツールは、「日本書紀」で使われている皇族の諱(イミナ 忌み名)であるようです。諱は、その当時実際にそう呼ばれていた「通称・通名」
であろうと。(例として 「額田部皇女」は、諱、後の推古天皇をあげておられる。)
天武以前は、人民は、間接的統治であり、直接は、皇族や各地の豪族が管轄し、皇族・各地の豪族を皇統は、統治したが故に間接人民支配体制であった。
(歴史学上ではそのように理解されています。)
それ故、当時の人民は、部という組織で括られていた。部は、歴史学上では、膨大な議論の歴史があり、著者は、諱と部の民(人民)との関係から、3
つに部をまとめて記述される。
@ 役目を負わされている名負いの部 (例 鞍部(クラツクリベ)・衣縫部(キヌヌイベ)・陶部(スエツクリベ)等々)
A 皇族の財産としての名代部 (例 壬生部(ミブベ)・日下部(クサカベ)・忍坂部(オサカベ 別名 刑部)等々)
B 豪族の所有する曲部(カキベ) (例 蘇我部・大伴部等々)
著者は、忍坂部を例にして、忍坂部は、当初 允恭天皇の大后 忍坂大中姫の名代部カー>忍坂大中姫から押坂彦人大兄へ、そして、舒明天皇へ、更
に中大兄へと受け継がれたと。中大兄までに行き着くまでに上宮王家・蘇我本宗家等の没落一族から押収した部の一部も吸収されていたであろうと。
大化2(646)年に中大兄から国家に返納された時、その所領は、屯倉181、支配戸数1万5千以上という巨大な部となっていたと。
部民を率いて統括する者が、伴造(トモノミヤッコ)であり、この伴造が、皇族に直接奉仕していた。こうした伴造は、資養氏族であり、諱は、「何々部が
仕えている皇子(皇女)」という通称で呼ばれていたと。額田部皇女とは、「額田部を統括する伴造が仕えている皇女」という通名であり、本名ではな
いと。
ところが、皇族の中には、伴造クラスではない大族(大豪族)の下で養われている皇族もあり、部は付かず大伴皇女・尾張皇子・葛城皇子名も存在す
ると。部の付かない皇子・皇女は、養う意味と同時に大豪族の後見的意味合いが強いと。
氏は、諱には、更に2つの由来があるという。一つは、先の伴造(資養氏族)或いは大族(後見人)に養われている皇子・皇女ともう一つは、地名由
来の皇子・皇女がある。(該当するのは、雄略天皇〜天智天皇まで)と。
氏は、上記の諱というキーワードを通じて、その皇子・皇女の基礎をなす氏族との関わり等を勘案されて、日本書紀に記載された諱から証明されてい
る。
詳しくは、上記 著書を参照されたい。
氏の論証は、上記著書にて確認されたい。結論のみ略記します。
先に、歴史学上での蘇我氏の系譜を記述しましたが、氏は、蘇我稲目以前の系譜は、作為とされ、系譜上の初発は、稲目からとされる。
では、稲目の出自は、氏は、継体天皇の元妃目子姫(尾張草香の娘)の子 後の安閑天皇の子と断定されている。
書紀では、安閑天皇には、子は無いと。蘇我氏の由来を皇族とは無関係の帰化人と推測出来るように書紀著者は、記述したのだろうと。天武側は、自
らの正当性を述べんが為、蘇我氏を極悪人として書紀に位置付けたと。天武側の皇統は、本来ではない事を認識していたのでしょう。皇室内のスキャン
ダルと把握しており、その行為を蘇我氏を極悪人として位置づけ、自らのスキャンダルを抹殺しようとしたと。
その証左は、随所に記述されている。その一例として、「宣化天皇元年、朝鮮半島より来朝する使節の饗応と飢饉に対処する為、九州は、那津(なの
つと読み、福岡市博多港の古名)に官家(みやけと読み、大宰府の前身カ)を造り、一部の皇室直轄領(屯倉)の穀(もみ)を大臣、大連らは、連等に
命じて運び込ませよ。」と命じられた。ここで、関係する文言は「蘇我大臣稲目は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀を運ばしむべし。」という一
文のみで充分でありましょう。
(故に、宣化天皇元年に、尾張連氏は、管理の為に派遣されたのではなく、既に尾張に土着していて、尾張の皇室直轄領(屯倉)の穀を運ぶように命じ
られたと解釈すべきでありましょう。)
氏は、尾張の屯倉の籾以外にも、4か所の屯倉の籾は、どうも同族乃至支配関係にある氏族により運ばれたと理解され、尾張連と蘇我稲目は、同族と
読みとられた。継体天皇と目子姫(尾張連草香の娘)の子 安閑天皇の皇子が、蘇我稲目と。だから稲目と尾張連氏は、同族なのだと。
(天武天皇は、その極悪人の蘇我氏と近い尾張連氏一族の海氏の下で資養されたが為に大海人皇子と言われていた筈。)
古代は、出自が最も重要であり、血筋がどのようであったかにより、先の事柄もほぼ決まってくるようです。皇籍は、天皇より血筋が5世まで。臣下
と皇室は、雲泥の差であり、皇室のスキャンダルは、臣下にとっては、雲の上の事柄であり、神々の争いという捉えかたであったのでしょう。太平洋戦
争までは、天皇は、現人神と捉えられていた事柄と相通じ、現代に近い時期まで連綿と続いていた事が証左でありましょうか。・・・私の注)
氏は、日本書紀の中から、その当時の共通認識と相反する事柄、医学的見地からの生存年数の不都合等々を駆使し、書紀内に残された正しい歴史事象
を注意深く探り、記述されているように推測した。
氏の真意は、蘇我氏の復権であり、真の正史を見極めようとされたのであろう。