鎌倉末期頃の尾張国春日部郡 阿賀良村の景観についての一試論
1.はじめに
尾張国春日部郡 阿賀良村なる村落は、平成の世には存在していない。しかし、その痕跡は、元享2(1322)年6月27日付
春日部郡林(現 小牧市大字林)・阿賀良村(現 小牧市大字池ノ内カ・・・筆者注)の名主 浄円ら6名が、花押を据えた1通の
請文を、鎌倉 円覚寺宛に出したようです。宛名は、明記されていませんが、内容から推察するに円覚寺宛であることは、明
らかであります。
この請文は、円覚寺文書として残されていた。
史料的には多くはありませんので推測を交えた推論になります事をお断りしておきます。
2.春日部郡 阿賀良村一帯の8〜10世紀の状況
当地域は、現 桃花台ニュウータウンとして篠岡丘陵部に造られた新しい街並みであります。この丘陵部の開発中に丘陵
部裾野にあたる外延部一帯からは、8〜10世紀を最盛期とする尾北古窯址群の穴窯が数多く発見され、小牧市教育委員
会により発掘調査が行われた。
その概要は、拙稿 古代に於ける 尾張北部地域の窯業地帯についての覚書 を参照されたい。
そうした小牧市の発掘調査書をみても窯跡についての詳細な報告は、眼にしますが、工房跡の記述は一切なかった。一体
こうした工人の居住地は、どこであっただろうか。窯跡から左程離れた所ではないと推測致しますが、史料が無い故確定でき
ないでいました。
こうした事柄に参考となる記述が、多治見市史 通史 上にありました。
「多治見に於ける奈良時代から平安時代の窯跡は、生田地区を除いて、土岐川以北の丘陵地帯であり、池田御厨、帷加納
(かたびらかのうと読み、どちらも伊勢神宮の神領であります。)のなかに分布していることであり、この窯は、伊勢神宮と深い
繋がりがある事を示しています。
また、こうした窯は、丘陵の麓にあって、谷に面し、付近には、工人の居住跡が見当たらない。
したがって、これら工人の生活の本拠は、半農半工というより農業を主体とした小河川流域に存在していたのではと考えら
れるという。
窯跡は、大別すると、高社山丘陵地一帯か長瀬山丘陵地一帯に分布しているといえましょうか。
古代美濃窯に於ける陶器生産の中心地であり、工人達の集落が、窯付近の平坦地に存在し、また麓のどこかには、生産され
た陶器の荷つくりや運搬をした人たちの集落も存在したと考えられるという。」( 多治見市史 通史 上 P.182〜183 参
照 )という記述は、尾張尾北地域の工人の生活を類推する一助にはなりました。
(参考) 大山川 上・源流域に於ける古墳の位置を示す地図 ( http://book.geocities.jp/ysk1988tnk/ooyama/4matome1.html
内にあります地図を転写させて頂きました。)
この上記地図から尾北古窯址群は、別名篠岡古窯跡群とも言いえましょう。初期の窯跡は、下原古窯跡であります。
その継続として篠岡丘陵外延部で最盛期を迎えたようです。
「尾北古窯祉群が最盛期を迎えたのは、8世紀〜10世紀にかけてであり、発生は、6世紀まで遡る事ができるとも記
述されております。しかし、11世紀末からは、原料 陶土と燃料の不足により、大物の焼き物、次に小物の焼き物生産
は、渥美半島や知多半島へ移り、篠岡窯の使命は終焉したと言えます。」( 小牧市史 参照 )と。
しかし、尾北窯は、古代寺院の建立が一段落する7世紀末〜8世紀半ば過ぎには、衰退しているようで、必ずしも10
世紀まで小牧市史にいうような操業が続いていたかは疑わしい。また、下原古窯の埴輪工人とは、系譜が同じかどうか
も不明でありますし、篠岡窯の工人は、猿投窯の工人が、流入したのかどうか。このあたりの事柄は、まだはっきりとは
していないのでは・・・。
さて、篠岡窯の工人は、窯跡に工房等を設けていないとすれば、出作であり、居住地は、その近くと推定すれば、大草
・大山・野口・林・池之内・上末・下末辺りであろうか。こうした集落の、北側には、背後に山並みが連なり、後期古墳(既
に河川低地部では、古墳の造営はされなくなった時期に出現している。7世紀後半と推定されている。)が造営されてい
る事は明白であります。後期古墳築造と尾北窯出現とは軌を一にしている事は何を物語っているのでありましょう。
更に、大山川上流域の河川近くには、条里制の水田遺構が残存しているようで、こうした後期古墳を造営した者の集
落へ須恵器生産工人が流入したのか、或いは、工人等の古墳であろうか。
参考までに、こうした工人の労働力はどのようであったのかは、やや時期は、新しくなり、11世紀後半以降の窯跡か
らではありますが、付記しておきます。
「中世の風景を読む 3」 網野善彦・石井進編 ( 土に生きる「職人」ー東海の山茶碗生産者についてー 藤澤良祐
氏の論考。)であります。
それによれば、「結論のみ記述しますが、一つの穴窯の使用回数は、10回程度とも記述されており、耐用年数は、さ
ほど長くなかったとも記されておりました。
更に、穴窯での製品の歩留まり(損耗率)が記され、製品化率は、一回の焼成で、70%、30%分が廃棄処分であった
とか。あくまで参考データとして記載されております。
また、廃棄された工房跡からは、轆轤ピット(轆轤軸を固定する為に造られた粘土で造られた遺構)は、山茶碗や石で
被せられて検出されるようであり、これは、宗教儀礼的とみる見方と次に使用するまでの保護を目的とする見方がある
という。こうした轆轤軸は、使用されたのは一挺であり、成形に携わった生産者は、極小人数であり、経営規模は、さほ
ど大きくはないと推測されると。
最後に、一回の焼成にかかる労働量の推測
小原池1号窯の7616枚の山茶碗量は、一個の山茶碗の重量を約300gであることから、成形に要した粘土量を3ト
ン近くと想定し、製土から窯出し、選別までの労働量を、製土8、成形40、乾燥4、窯詰8、焼成40、窯出し・選別12
とし、計112人と推定し、一回の焼成に必要な薪 赤松材で2トンと仮定し、更に築窯に要する労働量を40人。
とすれば、この窯で約7000枚の山茶碗作成に要する総労働量は、延べ272人位でしょうか。
この作業を極小人数で行っていたと推測されますので、仮に4人ががりで働いたとすれば、2〜3ヶ月を要する大事業
であったと指摘されていた。
それでは、一年間に、何回窯焚きをしたであろうか。ここには、1回の焼成が、4人がかりで最低3ヶ月を要すると仮定
すれば、農閑副業ならば、年1回が限度であろうし、専業であったとしても、せいぜい年2回程度であろうと記述されてい
た。
以上の事柄から、篠岡古窯(瓦・硯等)でも、上記に近い労働状態であったと推定する。
こうした工人の活動終焉は、早くて11世紀初頭から衰退し、遅くとも11世紀後半には、完全に撤退した可能性が高い。
11世紀からは、大山川上流域右岸側の集落は、上記のような一因や土石流等の氾濫・或いは永長元(1096)年子年
の南海地震?・東南海地震・東海地震の三連動?も起こっていますから何らかの被害が加わり、寒村化し、遂には無人化
し、かっては水田であった所も荒廃し、雑木林化したのではないか。三連動?では、河川の逆流による氾濫も加味しておく
必要もあろうかと。詳しくは、拙稿 文献上に現われた東海三県に関わる地震と将来の地震発生確率について を参照さ
れたい。
3.春日部郡 阿賀良村の開墾(11世紀末頃カ)
尾張国春日部郡阿賀良村については、その所在は確定していない事柄ではありますが、敢えて私は、拙稿の記述を
通して、現小牧市池之内地域の大泉寺地域の東側の地域であろうと想定する。
幸い天保12(1841)年丑6月 池之内村絵図(小牧市史 資料編2 近世村絵図編 P、109 参照)が存在し、そ
の絵図から鎌倉末期頃の阿賀良村の景観を類推してみようと思います。
その景観を類推する為の研究水準として、稲垣泰彦・永原慶二編「中世の社会と経済」 東京出版会 1962年版の
論考 稲垣泰彦氏の「初期名田の構造ー大和国大田犬丸名についてー」で述べてみえる「名」の実態について在地の状
況を具体的に史実に即して記述されている事は参考となりました。
( 参考 )大和国大田犬丸名の成立についての概観
詳しい事は、同氏の論考を読まれて下さい。以下記述する事は、具体的な事から結論付けられる事であります。
「元慶(ガンギョウ)5(881)年2月8日太政官符(類聚三代格巻15)によれば、在地の力田の輩を選んで正長とし、官
田の営農・地子田の経営を預けたが、さらにその監督のために、郷毎に惣監を置き、それには諸司官人や衙府の役人
が選ばれている。
9世紀から10世紀にかけて、律令制の崩壊にかわる新しい財政政策が必要になっている段階で力田の輩や、在地富
豪・郡司の出身者の多い下級官人を選んで土地の経営を委任し、細民を教諭指導せしめていった中央の意図があると。
この時期に続いて出てくる国衙徴税単位としての「名」(尾張国郡司百姓等解の負名と同じでありましょう。)や国衙・荘
園における田堵経営の担い手が、多く下級官人・郡司層・僧侶等によってしめられていた事、逆にいってこれら名・負田の
経営が、官田経営に類似していることは、この時代の社会的段階においてかかる経営が最も適合していることを示すもの
である。官田の営田経営は直ちに行き詰まり、地子田に移行(類聚三代実録元慶7・3・4条)するが、このような惣・監正
長的な管理方法は変わらなかったのであろう。」(前掲書 P.73〜74 参照)と。
著者の考えによれば、「11世紀中期において、大田犬丸名は、いくつかの所領(永作手カ)から構成されており、それらの
所領は、それぞれ一円的独立な性格を持っていた。この大田犬丸名は、こうしたいくつかの所領をまとめて一つの徴税単位
に構成した。」ものであろうと。
氏は、「まず各所領の景観及び内容が極めて独立的であり、特に灌漑系統においてそれがはっきりしていることである。次
に各所領の成立に年代的差が考えられる。(中略)その場合、それぞれの所領の成立は前から存在した田の拡大という形を
とらずそれぞれ別個の水系によって開発されているらしいことである。更に、これらの所領が一族で分有されているのではな
く、まったく他人によって所有される。(中略)一方、これらの所領内には直接経営にあたる農民がおり、その独立化の動きも
はらんでいたのである。このような所領の危機にあたって領主たちのとった道は貴族社寺と関係を結び、所領の保護を求め
る事であった。」と述べてみえる。畿内大和国での事例であります。
とすれば、畿内ではありませんが、畿内に近い尾張国も、限りなく大和国に近い状況で推移したのではないかと推測いたし
ますが、何分山間部の地形条件のもとでの事柄でありますから、実際は、「東国・西国等の丘陵地帯・山間部の村落であり、
小河川(この文意からは、大山川が相当しましょうか。・・筆者注)が沖積台地を浸食してできた谷の上流部及び谷の両側部
分、或いはそこを流れる自然湧水(この文意からは、大山川に流れ込んでいる新蔵川という沢に相当しましょう。・・筆者注)
の平地に注ごうとする谷の出入り口付近が、開発されて集落が出来、村落となったといわれている。関東地方でいう「やた・
やつだ」或いは、「やとだ」や関西以西でいう「迫(サコ)」がそれにあたろう。」( 日本歴史 中世2 岩波講座 1967年版
P.129 参照 )が、最も近い状況であろうか。この地方では、「洞(ホラ)」と呼ぶべき地域でありましょう。
4.天保期の池之内村の絵図から推測される春日部郡阿賀良村の景観
上図の上側(北側に当たる)に、蓮池、出池(古老等は、うで池と呼んでいるようですが・・筆者注)なるため池が、存在する。
いつ頃に造られた池であるかは、不明。この池の水は、大山川へ流れ込んでいる支流 新蔵川(沢)から取り入れているのか
も知れない。また、灌漑用ため池であり、旱魃の補水用のため池でありましょうか。
新蔵川の源流は、地元の人の話では、地元の裏山にある焼却場の埋立地になっている所であると言う。左程大きな川ではな
く沢であります。
この川の流路には、八幡宮(現存)の東隣上に「観音堂」なる地名が、村絵図上では、白地に記入されている。この辺りの田
が、鎌倉末期頃の阿賀良村の在地ではなかろうか。もう一箇所観音堂(現存 明治期に創建カ)が存在し、その堂は、現代にも
至っていますが、こちらは、陣配池を持ち、別系統の灌漑水路となっている。
鎌倉期の観音堂の創建は、不明ですが、白山社(現 林地内カ)と何らかの繋がりを想定する。
その白山社については、拙稿 鎌倉末期 林・阿賀良村にあった尾張白山社について
を参照されたい。
天保期の村絵図には、大泉寺があるようですが、これは、江戸初期の創建であり現在の大泉寺は、明治期に再建された寺で
あるようです。鎌倉期末には、存在していない。そして、この地域一帯の村民は、鎌倉期から連綿と続いていなかったのでは、室
町末期頃までには、そっくり住民が入れ替わったとしか思えない状況が推測されるからであります。
*かって、林村の盛禅和尚の創建と言われる三明社西側の低地部分に詳雲寺があったとか。この寺の創建は、篠岡村誌で
は、文正年間(1466年)とか。この年は、応仁の乱(1467年)が起こる一年前の出来事であるようです。
現在の詳雲寺は、高台にあり、そこの先代の住職さんより、興味深い事柄をお聞きしております。「この地域にも、入鹿切
れの山津波が押し寄せ、村は壊滅的な被害にあい、低地にあった寺は、現在の高台に再創建されたとか。」 えっと思ってし
まいました。確かに入鹿切れは、江戸時代最末期・明治の初め頃入鹿池の堤が切れ、犬山・小牧・春日井の入鹿用水の受益
地は、大被害を蒙り、多くの死者が出た事は、史実であり、先代の住職さんのお話では、この辺りまで入鹿池の水が押し寄せ
たという事を言われるのであります。
これは、入鹿切れと同様な悲惨な山津波?が、かってこの地域を襲ったという伝承と明治期の入鹿切れの事象が混合した
結果ではないかと。実際詳雲寺は、江戸末期(天保期)以前には、既に高台に移転していたのでありますから。
とすれば、この地域での大規模な山津波は、応仁の乱が始まって以降の事柄でありましょう。不思議な事に、林・野口両村
に於いては、室町末期言い換えれば、戦国時代末期(織田信長が尾張国を統一する頃)には、住民がそっくり入れ替わったの
ではないかと思われる節が推測される。
詳しくは、拙稿 小牧市林 余語右近将監の碑を訪ねて を参照されたい。
概略を述べれば、「佐々成政関係資料集成」 浅野 清編著 平成2年刊行 新人物往来社の抜粋に依拠しております。
林に起こったという事は、隣村の野口でも起こりえた事ではないかと、大山川下流域にも、何か天変地異の現象があった
可能性は・・・と。推測しております。こうした事が、野口村では、室町期以前の伝承が、後世に伝わらなかった一因であった
とも推察いたします。*
上図の色黒の箇所は、畑地であり、水田は、白地に近い箇所として表されています。家々は、やや高台に散在し、大山川沿
いは、低地であり、江戸時代では、水田となっている。特に注目するのは、出池(江戸期では、いで池とでも言っていたのであろ
うか。平成の御世では、地元の人は、うで池と言われている。)南側江戸期でも水田となっている所、ここは、棚田状の田地とな
っており、水田地域の両側は、やや高台となり、現在でも畠地であるようです。
平安期には、山裾が大山川に向かってなだらかに下っており、出池南側のみ極端に低い。或いは、新蔵川により浸食され、谷
状になった洞(ホラ)ではなかったかと。現在の出池は、江戸時代初期以前に再構築された池でありましょうか。池の南側の水田
や畠地への灌漑用として平成の御世でもため池として使われています。
平安期、この洞を開墾し、谷の上部に灌漑用の池を造り、開発されたと推測いたしますが、どうであろうか。
比較的隣の林村の低地は、かって開発されていた可能性が高い。林村には、式内社の非多神社?に比定される三明神社が
存在する。拙稿 古代 式内社であっただろうか 三明神社を訪ねて
を参照されたい。
阿賀良村の東隣の春日部郡林村は、開発がやや遅いという諸氏の論考があり、初発の開発は、阿賀良村という点では、一致
しているようです。では、その開発は、いつ頃からであろうか。拙稿においては、11世紀末頃を想定しておりますが、そうであれ
ば、稲垣氏の論考で述べてみえる「11世紀中期において、大田犬丸名は、いくつかの所領(永作手カ)から構成されており、そ
れら所領は、それぞれ一円的独立な性格を持っていた。この大田犬丸名は、こうしたいくつかの所領をまとめて一つの徴税単位
に構成した。」ものという史実に基づいた事柄から同様な事柄が、尾張国春日部郡未開地で起こったと考えても良いのではと。
また、「まず各所領の景観及び内容が極めて独立的であり、特に灌漑系統においてそれがはっきりしていることである。次に各
所領の成立に年代的差が考えられる。(中略)その場合、それぞれの所領の成立は前から存在した田の拡大という形をとらず
それぞれ別個の水系によって開発されているらしいことである。更に、これらの所領が一族で分有されているのではなく、まった
く他人によって所有される。(中略)一方、これらの所領内には直接経営にあたる農民がおり、その独立化の動きもはらんでいた
のである。このような所領の危機にあたって領主たちのとった道は貴族社寺と関係を結び、所領の保護を求める事であった。」
という記述。
こうした地域の開発は、稲垣氏の言われる「国衙・荘園における田堵経営の担い手が、多く下級官人・郡司層・僧侶等によっ
てしめられていた事、逆にいってこれら名・負田の経営が、官田経営に類似していることは、この時代の社会的段階においてか
かる経営が最も適合していることを示すもの」という記述に依拠すれば、ため池を有し、沢川流域において田を造る事が出来
えるのは下級官人・郡司層・僧侶等であろうという事になりましょうか。推測でしかありませんが、当地域の開発者は、熱田社大
宮司家ではなかろうかと。
この当時、尾張国春日部郡の未開発地に「別名」としての保・村として存立した可能性を推測いたします。
実際、鎌倉時代末期、元享2(1322)年6月27日付 春日部郡林・阿賀良村(現 小牧市大字池ノ内カ・・・筆者注)の名主
浄円ら6名が、花押を据えた1通の請文を、鎌倉 円覚寺宛に出したようです。宛名は、明記されていませんが、内容から推察
するに円覚寺宛であることは、明らかであります。この請文は、円覚寺文書として残されていた。
その内容は、「当村は、春日部郡司 範俊開発の内たる条異議なく候、但し、彼の跡篠木・野口野田以下は、関東御領として
円覚寺御管領候といえとも、当村においては別相伝の地として、宴源・浄円等面々累代相承し、今に相異なく候」と記述されて
いる。
この請文は、鎌倉時代の地頭である円覚寺に出されたものであり、自らの領有の正当性を源頼朝に縁がある尾張国国造系
の尾張氏一族の開発地であり、代々別相伝地として相承していると申し述べているのでありましょう。まったくの作り話とも思え
ませんし、そうした事に基づいて述べたと推測致しました。
林村も同様に、大山川の右岸側高台に平野池・雨池等を有し、平野池からは、一本の水路。雨池からは、二本の水路が延び、
灌漑用に使われている。とすれば、2・3の所領として開発された可能性があろうか。(小牧市史 資料編2 近世村絵図編 P,
104 参照)確かに、林村の鎌倉末期には、3人の有力者が存在していた事は、名寄帳からも垣間見られますから史実でありま
す。
この林・阿賀良村の名主として連署している6名は、沙弥浄円・源 助良・沙弥心蓮・僧 宴源・橘 盛保・僧 盛尊であります。
この六名中 沙弥浄円・橘 盛保は、丹羽郡郡司一族の可能性が高く、源 助良は、美濃国から移住してきた一族でありまし
ょうか。国衙に関わる官人とも推測できましょう。
本来なら、先進地では、請文の名主等は、在地領主化し、名寄帳に記された名主が、本来名主として登場していた可能性が
あり、山間部の地形条件等が、そうした発展を阻害し、内部構成を複雑にしたのでありましょう。
*参考までに、「満政の曾孫 重宗(中央政府 右兵衛尉という官職についている。)は、佐渡源太とも八島冠者とも名乗り、安
八郡、方県郡、本巣郡に勢力を張り、その子孫は、”山田、葦敷(あじき)”、生津(なまづ)、小河高田、鏡、白川、小島木田、
開田の諸氏にわかれている。( 詳しくは、多治見市史 通史編 上 昭和55年 刊 参照 )とか。
この満政の父は、清和天皇の孫 経基王(臣籍に下り、源経基と号した。)であり、満政は、土岐源氏の傍系に当たり、源頼
朝とは、同族であります。瀬戸市史通史でも、尾張国へ南下した清和源氏系の一族は、尾張国国衙に何らかの形で関わり官
人として活動したかのようです。
尚 重宗流源氏についての概略 ( 以下の文は、瀬戸市史 通史編 上の要約であります。)
重宗には、重実・重長・重高・重時・重親という子がおり、はっきりするのは、重時で、白河上皇に使え”検非違使”として警察能
力を発揮した事。
重実は、鳥羽院武者所と言われ、美濃国河辺郡での狩猟が伝えられると。重長は、美濃国木田郷に居住し、木田三郎とも名
乗っていた。
その後重実の子 重成は、鳥羽院のもとで活躍。重実の子 重貞は、保元の乱(1156年)の時、後白河天皇方で戦功をあげ
ている。
重実の長子 重遠は、美濃国を生国として、尾張国浦野へ進出し、居住。浦野を名乗ったのでありましょう。この浦野は、尾張
国のどこであるかは不明。(一説では、春日部郡浦野邑という方もありますが、どのような資料から言われているかは不明・・・私
の注)。仮に、浦野邑が、阿賀良村辺りであれば、大縣社の神宮寺に関わる源 助良なる鎌倉末期の人物は、上記 源 重遠系
の人物の末裔の可能性もあろうかと。拙稿
尾張国 山田郡域の平安末〜鎌倉初期に於ける 山田氏 の動向 を参照された
い。
関連する拙稿として 平安中・末期以降の丹羽郡 良峯家々系図を通して、鎌倉末期頃の春日部郡林・阿賀良村についての再考
を参照されたい。
既に、両村の在地構造は、拙稿 春日部郡 林・阿賀良村の鎌倉末期頃の村落構造の一考察 で記述しておりますので割愛致し
ます。
以上の記述は、多分に推測部分が多く、史実とは言い得ない部分もあり、後日を期したい。雑文の類でありますことをお断りして
おきます。
平成27(2015)年12月13日 脱稿