美濃幕領 笠松陣屋の構成と役割について
1.はじめに
このHP内の拙稿にて笠松陣屋については、述べてきているのであるが、改めて、陣屋の構成員やら、
役割りをまとめてみようと思う。
この笠松陣屋は、幕領を支配する代官所ではあるが、最上級に属する代官所でもあり、郡代とも言わ
れ、日本全国に幕領は存在するのであるが、郡代役所と呼ばれるのは、4つ。その一つが、笠松陣屋
ではある。あと、飛騨の地域に高山陣屋、何と現 岐阜県内に最上級の郡代陣屋が二つも置かれてい
たのである。郡代役所の中の郡代役所は、関東郡代であり、老中の下に位置し、勘定奉行と同等乃至
は上位に位置していたのかも知れない。残りの西国郡代と合わせて3郡代役所は、勘定奉行の下に位
置していた。
これは、取りも直さずこの美濃、飛騨地域を直轄領(天領)とすべき事情が、江戸幕府当初には、存在
していたからであろう。言い換えれば、豊富な木材の供給地として、築城、補修等には欠かせない所でも
あったのである。そして、この地を一括支配する大名を置かず、小大名と小領主としての旗本知行地に
分割し、残りは、幕領として支配しようと考えたのである。後には、御三家の一つ尾張藩に木曾等を任せ
ることとなる。所謂江戸幕府の息の掛かった成瀬氏を尾張藩付家老職に送り、犬山城の城主として、木曽
川筋に目を光らせたのであろう。
2.笠松陣屋の仕事と構成
ア、陣屋の仕事
江戸幕府当初の頃の直轄領の石高は、400万石強とも言われており、東海地域ではどれ程あったので
あろうか。安永2(1705)年当時の直轄領の石高は、幕府の政策上の改易、上知、国替え、加増等の領
地、采地の増減が複雑で多いため、正確な史料が少なく、わかる範囲では、350万石。内東海地域の石
高は、60万石であったという。( 「笠松の宝もの」 記念誌 P、48、49 参照 )
美濃国内の幕領の石高は、寛政期までは、右肩あがりであり、最高20万石を境にその後は、増加はし
ていないと思われる。笠松陣屋は、この最高20万石分の石高に相当する年貢米を徴収し、江戸表に送
る重要な任務を請け負っていたのである。
また、陣屋は、武力を持っていないことから大名に対し出兵請求権を有していたようであり、地方民政官
として、警察(軽犯罪に対応)機能、裁判(事実認定程度)機能を持ち、勧農、水利、土木、検地、宗教政策
(キリスト教、日蓮宗の取り締まり)、寛政〜文化期においては公金貸付業務等を行っていたと思われます。
更には、間接的にではあるが、美濃の地の私領に目を光らせる幕府の出張所としての重要な役割を持っ
ていたと言えよう。
イ、陣屋の構成
参考例 ( 岩田鍬三郎郡代時の配下の者 ) < 「 笠松のたからもの 」 記念誌より抜粋 >
郡代(代官)− 郡代(代官)役所 ( 美濃天領からの年貢徴収、民政安定、裁判 )ー手付ー手代
5名 18名
堤方役所 ( 治水土木工事の指揮・監督 )ー地役人
12名
* 手付(幕臣)
5名 内訳 江戸詰 3名 陣屋詰 2名 ( 内 元締手付 1名 )
手代(准幕臣)18名 内訳 〃 8名と元締手代1名 〃
7名と元締手代1名、手代普請役1名
**地役人 美濃奉行であった岡田将監父子の頃、在地の土豪を起用して幕領諸村の堤方、川除け普
請等を勤めさせたことが由来で、この将監父子による治水法を熟知しているが故、笠松陣屋
より10名が、安永元(1704)年に、美濃、伊勢、尾張国の川の幕領、私領を問わず水行障
害物の取り払いを命ぜられ、多良役所 高木家の配下の者と共に作業の指揮を執った。
そして、このことより笠松陣屋の堤方役人が、地役人として転属し、堤方役として固定し、世
襲化したようである。
更に、享和4(1804)年には、郡代役所の下に 村方の有力者を水防役に取り立て、郡代家臣としたよう
である。
水防に関する司令系統が、二つできたことにより、この後混乱が起こることになるのである。
以上のことから、実際に現地、笠松陣屋内で業務を執り行う者は、現地、郡代役所では、11名。と堤方役
所の地役人 12名という布陣であったことが知られるのである。こうした少人数であるため、出水時には、人
が足りなくなることがあり、享和4(1804)年にその不足を補うべく水防役を置いた所、指揮系統が二つ出来
たことにより、互いに反目し合い、うまく機能しなかったとも聞く。
また、郡代(代官)は、現地の任地陣屋にずっと滞在していたのではなく、江戸にも滞在して職務を遂行して
いた事も知られるのである。
尚、この笠松陣屋の郡代(代官)に任命される者は、木曾三川分流工事の計画立案、前職の暴政の後始末
という重要な職務を控えている時は、有為な者が任命され、勘定吟味役兼帯とか、関東郡代からの配転という
特異な任用があるが、それ以外では、勘定組頭からとか、別の所から最後の任地として花道を飾る配属の場合
が多いのが特徴であろうか。( 幕領陣屋と代官支配 参照 )
歴代笠松陣屋の郡代(代官)については、拙稿 幕領笠松陣屋の代官及び郡代と出張陣屋についての覚書
を参照していただきたい。
ウ、笠松陣屋の位置とその建物遍歴
笠松陣屋は、寛文2(1662)年 岡田将監善政の後を任された名取半左衛門長知が、この地に陣屋を置いた
のが始まりであり、代々陣屋は、この地に置かれたのである。建物は、岡田将監善政が、可児郡の徳野陣屋とし
て使用していた陣屋門、玄関、書院等を移築したと言い伝えられている。その位置は、現 笠松町にある八幡神
社と法でん寺を結ぶ線と木曽川の間に存在し、笠松陣屋跡として残っている所が、まさに郡代の居住していた屋
敷跡ではなかったかと、そして、やや西よりの所が郡代役所のあった所ではないかと考えられる。そして、現 笠
松町役場辺りに地役人(堤方役)の詰め所(堤方役所)があり、丁度入り口に相当したのではないかと推察する。
その敷地面積は、1町8反歩余り( 17820uの広さ )であったという。
また、笠松川湊は、現 木曽川に架かる木曽川橋のやや上流、木曽川右岸側にあったようである。更に付け
加えるのであれば、現 名古屋鉄道 名古屋本線が走る木曽川右岸側は、その当時徳田新田と呼ばれていた
所であった筈である。
この寛文2年頃の陣屋絵図面は、現 名古屋大学付属図書館に所蔵されているという。( 岐阜県史より )
しかし、この陣屋は、天保4(1833)年正月29日夜 おりからの西風に煽られ類焼で、陣屋の全てが全焼して
燃え尽きてしまったという。この火災により騒動が起き、郡代は、辛うじて逃げることが出来たのである。
陣屋の再建は、費用が嵩み困難をきわめていたようであるが、笠松村の有力者の寄付と貸付金により、同年6
月、一期工事が完了。同年8月、二期工事も完了。同年12月最後の工事も完了し、復興したのであった。
天保6年、郡代 野田斧吉は、江戸表に召還され、江戸へ向かう途中 自刃したようである。
安政元(1854)年11月4日 安政東海地震が起こり、笠松陣屋、役人屋敷、笠松村等々木曾三川でも堤防等
が、ずたずたに切れ甚大な被害を蒙ったことが知られ、再建の為、笠松陣屋は、大垣藩より4000両、高須藩よ
り1000両合わせて5000両の拝借を要請したともいう。
( 拙稿 文献上に現れた 脇之島の地震と将来の地震発生確率について 参照 )
そして明治維新となり、笠松陣屋は、明治政府に接収され、後 笠松県庁舎としても使われ、岐阜に県庁が移
されてからは、明治の学制の発布により、笠松尋常小学校として利用されていたが、明治24(1891)年 濃尾
大震災により焼失してしまったようである。
参考文献
・ 幕領陣屋と代官支配 岩田書院
・ 「 笠松のたからもの 」 記念誌 笠松町歴史民俗資料館監修
・ 岐阜県史 通史編
・ 拙稿 文献上に現れた 脇之島の地震と将来発生する地震確率について
・ 拙稿 幕領笠松陣屋の代官及び郡代と出張陣屋についての覚書