渡来人 秦氏についての覚書

                          1.はじめに
               秦氏について調べ始めましたが、謎の多い氏族ではあります。しかし、ある程度までは、系図とか、
              生活拠点等は、理解できてきているようであります。以下、文献にて私が知りえた範囲内での秦氏像
              を展開してみたいと思います。

            2.日本書記に記述されている朝鮮からの渡来時期
             
               A. 応神紀がかかれた4世紀末頃が1回目
               B. 雄略、欽明天皇の頃 5世紀末〜6世紀初めの2回目
               C. 天智、天武、持統天皇の頃 7世紀後半の3回目

               渡来は、3回に別れてあったという。秦氏の渡来は、1回目の応神朝の頃のようであるという。しかし、
              大和岩雄著「秦氏の研究」(大和書房 1994年)では、渡来時期を、5世紀前後から6世紀前半に、秦氏
              集団(弓月の民)は、主に加羅(耶)地方から移住してきた人たちと推測されてみえました。

            3.3世紀初め頃の朝鮮半島南端の状況とその後の動向
               馬韓、弁韓、辰韓に分かれているが、実質は、それぞれの国内では、更にいくつかの国が分立していた
              ようであります。
               馬韓には、臣墳活国、伯済国、目支国、臣雲国、乾馬国の5国が有力な国であり、それ以外にも52
              ヶ国が存在したという。その後、347年には百済に統一された事が知られます。

               弁韓には、狗耶国、安耶国、半足皮国等が有力な国であり合わせて12ヶ国が存在していた。その後
              は、任那とも伽羅とも言う国になっていくようでありますが、一つに統一される事はなかったのではないか。
               後、新羅に吸収されたという。

               辰韓には、12ヶ国が分立し、これらの国は、秦の始皇帝の労役を逃れた流民により造られた国である
              とも言われ、言語は、中国語の方言が使われていたとも言う。後、新羅として統一されたという。
                ( 後漢書辰韓伝、三国史魏志辰韓伝、晋書辰韓伝、北史新羅伝等による。)

               先述の大和岩雄著「秦氏の研究」P16〜23に於いて、朝鮮半島では、4世紀末〜5世紀初頭頃、戦火
              やら日照り、蝗(いなご)の大群の発生等で、米も出来ず、従前の生活破壊が起こり、避難以外に有り
              得ない状況であったという。加羅の地では、紀元400年に大きな戦があり、百済の民は、兵の徴用を逃
              れる為に新羅へ避難。加羅の民は、遥か日本へと避難するしかなかったのではないかと・・・。
                          
            4.「新撰姓氏録」(平安時代のはじめに書かれた書物)にみる秦氏

              *  弓月の君は、秦の始皇帝の5世の孫 融通王であり、百二十七県の百姓を引き連れ日本へ。( 太秦公
               宿禰の条 )
                                    左京 太秦公宿禰・秦忌寸(融通王5世孫丹照王) 秦忌寸(融通王4世孫大蔵秦公志勝)
                河内 秦宿禰・秦忌寸・高尾忌寸  和泉 秦忌寸・秦勝   こちらの秦氏は、河内国茨田郡が、本貫地か。
                  位も低く、聖武天皇が、平城京より遷都された恭仁宮造営時、大宮垣を築いたことから一気に位を上げ、
                  秦氏一族の中で唯一 宿禰を授けられる。聖武朝 天平14年以降に本流秦氏を追い越し、族長となった。
                
              *  功智王・弓月王来朝。帰国し、百二十七県の百姓を連れて帰化。( 山城国 秦忌寸の条 )
                 山城 秦忌寸  摂津 秦人  河内 秦人    * 欽明朝の頃の族長 秦大津父の系譜(山城国深草)
           
                 右京 秦忌寸(功満王3世孫秦公酒) 大和 秦忌寸 摂津 秦忌寸 * 推古・皇極朝の頃の族長 秦造河勝                                                                           
                                                                         (山城国葛野)

            5.『隋書』の「列傳第四十六 東夷 俀國」と『北史』巻94 列傳第82に記述される秦王国について
              *  『隋書』の「列傳第四十六 東夷 俀國」より
                 明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹嶋 南望[身冉]羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至
                一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也  

               解説文 ( 607年 聖徳太子が、小野妹子を遣隋使として送った事の後に記述された文 )
                明年{翌年(大業4年 608年)}文林郎裴清(書記では、裴世清と記述されています。・・筆者注)を倭国へ遣
               し、百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(筑紫)、ま
               た東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。
               と記述されているという。

                『北史』巻94 列傳第82の記述も同様であります。
                この内容から、秦王国は、豊国(現福岡県と大分県の県境辺りを中心とする7世紀頃の国)の中にあった
               と考えられると言う。この情報は、遣隋使として派遣された小野妹子により説明された事柄を裴清が聞き、本
               国へ帰って報告した事柄でありましょう。具体的な地域で言えば、福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉
               北区・小倉南区・門司区)、筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築地方の全域を中心に、大分県北部(中
               津市・宇佐市)にまで至る地域であり、そこが豊国であり、その中に秦王国があったのでしょう。附則ながら、
               宇佐八幡宮は、この秦氏の氏神であったという。

                                   この記述を補佐する資料は、大宝二(七〇二)年の豊前国戸籍でありましょう。この戸籍のうち上三毛郡
               塔里、上三毛郡加目久里、中津郡丁里(現在の福岡県筑上郡、豊前市、京都郡の一部で山国川北岸より
               行橋までの地域)では秦、勝(スグル、秦の一族)秦部など秦氏系人々が八〇パーセントを占めている資料
               もあります。

                まさにこの地域こそが「秦王国」に違いない。(大和岩雄著 『秦氏の研究』 大和書房 参照)と推察でき
               ます。

                更に付け加えれば、この秦氏の秦王国は、魏志倭人伝東夷伝では、旧 奴国?のあった地域であり、倭国
               の一部でもあった筈であります。更に朝鮮半島へのルートは、魏の時代には、倭国の末ら国(唐津)からが通
               常の行き方であった。4世紀頃には、朝鮮半島へのルートが、旧 奴国(那津、古代の博多港の名)からとなっ
               たようです。ここにも、大和朝廷の支配が北九州地域に及んだ事が読み取れる事例でありましょうか。

                では、この地域に秦氏が多数存在するようになったのは、いつ頃からでありましょうか。
                山尾幸久著「日本古代王権形成史論」 岩波書店 P133によれば、和邇氏は、「2世紀後半頃、北部九州
               とは、別ルート(裏日本から畿内へと)にて進出してきた朝鮮系鍛冶集団」と推測されていました。
                それ故、大和氏は、「4世紀末〜5世紀初頭の朝鮮半島の人災・天災を逃れた難民の多くは、上陸地とその
               周辺に定住したとしても、当時の大和王権は、拒否しなかったのではと・・・。」記述されており、また、更に優秀
               な技術者集団を、大和王権は、畿内へと誘致したのではないかとも記述されています。おそらく、5世紀初頭か
               らの、畿内での大規模な王墓の築造、須恵器窯の築造、河内の古市大溝(おおみぞ)のような治水工事等を
               想定されての事でありましょう。

                この秦王国は、初期の頃より渡来してきて定住していたのではとも解釈できえましょうか。
                そして、確固たる状況になるのは、発端は、527年の筑紫 磐井の乱でありましょう。日本書紀では、526年、
               継体天皇は、朝鮮半島の新羅から、奪い取られた加羅の地を取り戻す為近江臣毛野を大将として、6万の大軍
               を九州より徴収し、派遣しようとしたという説と、6万の大軍を大和より引き連れてきたという両説がありますが、

                筑紫の君 磐井は、新羅、高句麗とも通商していた事もあり、また、継体天皇に取って代わる事をも目論見、
               反乱を起こしたのでしょうか。1年半余程争い、磐井は負けたという。しかし、後世、磐井の古墳が、存在する事
               が確認されているとも聞くにつけ、戦に破れた者の古墳が、存在すること自体不思議な事ではありましょう。
                
                日本書紀では、これを鎮圧したのは、物部氏でありますし、磐井は、殺されたことになっています。、筑紫国の
               磐井の領地は、全て物部氏が領有し、畿内の国に組み込まれたと考えられます。

                旧来の倭国( 奴国、伊都国等 )は、北九州を放棄し、更に南へと撤退して勢力を保っていったと思われま
               す。
                4世紀頃からは、朝鮮半島への影響は、九州の倭国から、畿内の大和朝廷が主流となるようであります。そ
               うした事は、朝鮮半島の遺跡からの出土物でも確認できるという。
                 
                その200年弱後の大宝二(七〇二)年の豊前国戸籍のうち上三毛郡塔里、上三毛郡加目久里、中津郡丁里
               (現在の福岡県筑上郡、豊前市、京都郡の一部で山国川北岸より行橋までの地域)では秦、勝(スグル、秦の
               一族)秦部など秦氏系人々が八〇パーセントを占めていたという資料も存在している事で、裏付けられるという。

                出雲には、因幡の白うさぎの寓話が残っているという。この白兎は、シラギハタが訛ってシロウサギとなった
               やにも解釈出来るとか。白兎に騙されたワニは、朝鮮半島と出雲の間を取り持つ海人氏族、いわゆる航海に
               長けた氏族であり、朝鮮半島から日本への渡来について白兎(秦氏)は、ワニ氏に何らかの約束をしていた所、
               その約束を守らなかったが為に、白兎(秦氏)が持ち込もうとした機織り機等々の諸道具を取り上げられ、及び
               身包み剥がされたという事ではないかと。そこへおそらく、大国主命が、来て、うまく取り成してくれたという史実
               に基づく寓話として残ったのではないかというのである。

                それ故、秦氏は、蘇我氏の下で縁の下の力持ち的役割を演じざるを得ない状況になっていたのではあるま
               いかとも。いやいや、秦氏は、遥か遠方よりの避難民であり、出自は、語りたがらない氏族のようであるとも。
                蘇我氏も新羅系の渡来人であるかと。出雲国とも何やら関わりがあったのでは、また、吉備に置かれた屯倉
               の管理に直接携わり、吉備の鉄に関わる集団の食糧の確保に努めたとも指摘されているかと。

                繰り返し記述いたしますが、雄略天皇治下(5世紀頃)、葛野郡(現 京都府太秦辺り)に居住していた秦酒公
               (はたさけのきみ)は、分散している秦氏等の統率者となったというようであります。
                
                                    「 秦酒公は、百八十種の勝部を率いて、日本書紀雄略天皇15年条に、調を貢献し、翌16年条にも、「秦民」
                が、庸調を進め、「姓氏録」にも、秦民の貢調により朝廷は、大蔵を構え、秦酒公を大蔵の長官としたと記され
                ている。
                 これは、秦部が、大蔵における秦氏の蔵部としての職掌に応じて設定された部民で、曲部ではなく、国家の
                民に近い存在であろうと指摘している。」( 平野邦雄著「大化前代社会組織の研究」所収 秦・漢両氏と蔵の
                管理 参照 ) 雄略没後は、蘇我氏が台頭し、大蔵関係から秦氏を追い出し、漢氏(東・西)を抜擢したようで
                あります。

                秦氏渡来の以前の事として、次のような民間伝承が、残っているようであります。
                <崇神の治世の終りころ加羅の人 蘇那曷叱智が来たという。崇神の時代に、すでにおぼろげな半島との交
               流のはじまりがあったのでしょう。361年、天日矛 {  網野町浜詰にある志布比神社の社伝(『網野町史』
          より、網野町は現在、周辺5町と合併し京都府京丹後市として、新たに生まれ変わりました)には、
          「創立年代は不詳であるが、第十一代垂仁天皇の御代、新羅王の王子 天日槍が九種の宝物を日本に伝
          え、垂仁天皇に献上した。九種の宝物というのは、『日の鏡』・『熊の神籬(ひもろぎ)』・『出石の
          太刀』・『羽太玉』・『足高玉』・『金の鉾』・『高馬鵜』・『赤石玉』・『橘』で、これらを御船に
          積んで来朝されたのである。この御船を案内された大神は『塩土翁(しおづちのおきな)の神』である。
           その船の着いた所は竹野郡の北浜で筥石(はこいし)の傍である、日本に初めて橘を持って来て下っ
          たので、この辺を『橘の荘』と名付け、後世文字を替えて『木津』と書くようになった。」とある。}
               渡来という記述もあり、この日矛は、新羅の王というが、時に新羅はまだ斯廬の都邑に過ぎず、新羅の建国の王 
              と思われる奈勿王の即位は356年と伝えられる。そもそも新羅は、6世紀の真平王が隋に上表したなかに「王は 
              もと百済人。海から逃げて新羅に入り、ついにその国の王となった」という記事がある。

              新羅は朴氏・昔氏・金氏と王統を継ぎ、真平王は金氏であるが、昔氏の神話には「海から逃げて(一時加羅に 
              留まり、入れられず)新羅にはいった」ともある。真平王の二代前の法興王は慕秦と伝え慕姓(慕韓すなわち馬
              韓)を称したという。

               その斯廬との争いは、時期的に加羅と斯廬との、時に羨望の的であった、弁辰の鉄を巡る衝突の始まりかも
              知れないようであります。

               崇神から垂仁の治世のはじめ、大和の朝廷としては、はじめて半島の情報に直接接したのでありましょう。たと 
              えば弁辰の鉄も大和王権の直に採るところであった筈はない。山陽・山陰・九州のどこかの豪族をもってして、間
              接的にこの益権を享受していたであろう。( 例えば、草薙の剣の朝廷への献上とか。 )
               その権利の糸がこの時脅かされそうになった。或はこの種の益権を王権は、もともと持たず、ただそれを有する
              筑紫の豪族の有利を、この時よく承知するところとなったのでありましょう。

               熊本県の大津町の西弥護免遺跡では、この遺跡は、弥生時代の環濠集落で鉄器工房跡、218戸の住居跡。墓
              地群。それを囲む4重の環濠が出土しているとも言われ、吉野ヶ里遺跡でも同様に鉄に関する工房跡が、あった
              とか、早くから九州地域は、中国、朝鮮より鉄の塊が、持ち込まれ、小鍛冶技術が、出来るようになっていたので
              しょう。鏃(やじり)等に加工し、戦闘に利用したと推測されます。
 
               垂仁天皇が、太子 景行をして西征に派遣した背景には、こうした現実的な理由があったのだと思われます。

               景行は日向には入らなかったし、筑紫を巡幸しなかった。おそらく周防佐麼にあって筑紫の勢力と対峙し、大和
               の勢力としてははじめてこれに打撃をあたえ、半島への既得権の一部を冒したのでしょう。
               斯摩宿禰の渡朝は、周防にいすわった景行がこれを派遣したと言えましょう。」以上の抜粋は、下記のHP上か
               らの引用であります。
                ( 詳しくは、http://www9.plala.or.jp/juraku/soki1_3.html を参照下さい。 )

               本題に入る前に、先ほどの361年、天日矛( 新羅王の王子 天日槍とも記述か。)についてですが、興  
          味深い記述が、ありました。

          { 出雲神族の末裔「富氏」の口伝には、「物部」を将としたアメノヒボコ族が、「出雲」に攻め込で 
          いくという一節があります。アメノヒボコ族というのですから、個人ではないことになりますが、アメ 
          ノヒボコ=「誉田真若王」とすれば、日本海側にいた「誉田真若王」が、「河内」にたどり着く経路が 
          推察できます。

           と言うのも、『但馬故事記』にあるニギハヤヒの降臨コースと、多分に重なってくるように思えるか
          らです。
           『先代旧事本紀』は、ニギハヤヒの降臨を次のように伝えています。

  
        「饒速日尊は天神の御祖の命令を受け天磐船にのって、河内国河上の哮峰に天降った。さらに大倭国 
          鳥見の白庭山に移った。いわゆる、天磐船に乗り、大空を翔行きこの郷を巡り睨み天降られた。いわ 
          ゆる、空より見た日本の国とはこれである。」

          『但馬故事記』は、この白庭山(しろにわやま)に着くまでの行程を伝えていて、

 
         田庭の比地の真名井原→但馬国美伊→小田井→佐々前→屋岡→比治→丹庭津国→河内国村上哮峰

          というのですが、簡単に言えば、但馬→丹波→河内の順になります。しかし、田庭の比地の真名井原
         が「丹波国与謝郡」(常識的に考えれば、真名井神社のある籠神社)に比定されていますから、「但馬
         」も「丹波」も大きい意味での「丹波」なのでしょう。「田庭」は「但馬」とも「丹波」とも読めます
    
          これだけでは、何のことか良く分からない筈でしょう。日本書紀 
垂仁紀には、「崇神天皇の御代 
         に、額に角の生えた人が、ひとつの船に乗って越の国の笥飯の浦についた。そこでそこを名づけて角鹿
         (つぬが)という。越前”敦賀”の地名由来のようでもありますが、このとき訪れた人物とは、「大加羅 
         国」の王子「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと)でした。となるわけです。

          そしてツヌガアラシトは、「天日槍」(アメノヒボコ、『古事記』では「天日矛」)と密接に関わっ 
         ています。
          というのは、『古事記』でのアメノヒボコのエピソードにそっくりなものが、『日本書紀』では、ツ 
         ヌガアラシトのものになっているからです。引用したのは、http://www2.plala.or.jp/cygnus/st2.htm
        からでした。こうしてみてくると、古事記、日本書紀共に、事実である事を巧みに引用して、記述してい
        るという事なのでしょう。

         こうした民間伝承は、崇神・垂仁朝から後の河内王朝への移行を何やら暗示しているように思えるのです
        が・・・。

          本題にもどします。
               
                山城国風土記には、秦氏の財力は、「稲が沢山積み重ねられ大変裕福」とか、{米から出来た当時としては
               貴重な「餅」を弓矢の的代わりに使用する}など慢心しているという評判がたったという。
                また、秦氏の財力と技術で、「山の峰」(従来農耕に適さない或いは穀物の栽培ができなかった土地)まで
               耕作地として広げたともいう。

                秦大津父氏(ハタノオオツチ 欽明天皇治下 継体天皇の子であり、6世紀初頭頃でしょうか。)の住居は、山背国
               紀伊郡深草と言われており、この大津父は、秦酒公の系統であるのでしょうか。太秦の秦川勝(聖徳太子と同時
               代人 7世紀頃)とは、本家、分家の関係でありましょうか。

                また、聖徳太子の息子は、蘇我氏により攻められますが、太子の息子のお付の者は、皇子に秦氏の居住地
               の深草の地へ逃げるよう耳打ちしたという。これは、蘇我氏といえども、この頃の秦氏には直接手を下せないと
               言うことを暗に示していると言えるのではないでしょうか。皇子は、そこへは逃げず、亡くなりました。

                                   余談ではありますが、この深草の地は、大和時代の初めの頃は、「土師氏」が住み、良い粘土があり、土器
               を造っていたようであります。

                雄略朝の頃に、秦の民は、この深草へ移住させられたという。欽明天皇の頃の秦大津父は、深草の住人で
               あったようです。その後、賀茂氏と思われる所から秦伊呂具(伊呂久カ)を養子に迎かえ、この系統が、伏見稲
               荷家となっていったようで、この伊呂具(伊呂久カ)が、伏見稲荷を創建したという。賀茂氏と秦氏は、何やら強
               い結びつきが、あったように推察できます。
                秦氏の言い分を聞けば、うかの神様との同一視を狙い イネナリ=>稲荷(イナリ)神社を創建したと言われ
               ているようです。が、「猿田彦と秦氏の謎」を著した 清川理一郎氏によれば、秦氏の出自は、遥か古代 イスラ
               エルの原始キリスト教を信仰する民であり、母国では、迫害を受け、バビロニヤでは、バビロンの捕囚となり、アレ
               キサンダー大王時 捕囚を解かれ、遥か中国の地へ来て、「秦」の住民となり、苦役(万里の長城等の使役)に耐え
               かねて朝鮮半島へ逃亡した民であり、辰韓(秦韓)国をたちあげたという事のようです。

                秦の民は、遥か先祖が受けたであろう古の苦痛が、脳裏の底にあり、出自についてを余り語らず、真実を封じ
               込め、決して政治的な活躍をせず、脇役として日本史上では暗躍していたようであります。それは、きっと過去の
               苦い死に至る事柄の為せる事でろうと氏は、考えておられるのでありましょう。渡来した秦氏も同様に考えていた
               のでしょう。

                秦伊呂具(伊呂久カ)が、創建したというその稲荷神社のある山は、もともと古墳で覆われた山であり、神社は、
               中腹に建てられ、山頂部分は、鳥居が幾層も連なる独特な形式を取っているという。そして、氏は、イナリの元の
               意味は、秦氏しか判らない隠語であるという。それは、キリストの十字架の上に記された「INRI」からきているので
               は、という。その意味は、ユダヤ人の王ナザレのイエスのそれぞれの頭文字を取っているという。

                この聖句(INRI)の重要な事、そしてその意味を、多くのユダヤ人は、知っていた。勿論秦氏一族も知っていた事
               であろうと氏は、考えておられるのでしょう。鴨氏からの養子である秦伊呂具(伊呂久カ)も、知っていたのでありま
               しょうか。

                本当の事は、奥に秘め、イネナリー>イナリと説明していますが、本来は、INRI−>INARI(イナリ)に置き換え、判る
               人にだけ判るように細工をしたという主張のようでありました。
               
                伏見稲荷は、全国の稲荷神社の総本山である事は、周知の事実でありましょう。神社本殿前に安置されてい
               るオキツネ様は、稲などの害虫である鼠を食してくれる神様の使いという存在としてあるのでしょうか。何故にあ
               ぶらげを供えるのでしょうか。不思議な事ではあります。

                「この狐でありますが、当時は、狼(大神)も狐も区別されなかったようで、田畑を荒らす鹿、猪類を退治してく
               れる有りがたい生き物で、人間には害を与えないと考えられていた。」( 猿田彦と秦氏の謎 清川理一郎著 参
               照 )とも記述されております。

                余談になりますが、全国の総本山である伏見稲荷は、京都駅から少し南の位置にあり、桂川の支流域 鴨
               川左岸側にあたります。その辺りを、昔 山城国紀伊郡深草といい、現在は、深草西浦町とか深草飯食町等
               になっている所でありましょう。そうした地域には、当時、小河川が流れ、宇治川へと流れ込んでいた。そこら
               辺りに秦氏は、居住していたのでしょうか。

                遥か、弥生時代には、この辺りは、低湿地であり、弥生時代の初期農耕には向いていた土地柄ではありま
               しょう。(現 深草西浦町は、弥生時代の頃は、湖があったようで、この湖辺で稲作をし、集落を営んでいたと
               いうが、飲み水が、よくなく、水害等もあり、もう少し上流域 現 深草飯食町に移住したと聞く。ここは、当時、
               長根寺川、七瀬川に挟まれた丘陵地であったという。この丘陵地は、水害からも逃れられ、よい飲料水に恵
               まれた地であったようだという。)
                秦大津父氏は、深草という伏見稲荷のある辺りの近い所に住居を構えていたのでしょう。               

                その後、607年頃聖徳太子一族が、この地を領有していたという。更に、この地は、山背国紀伊郡深草郷と
               言われるようになった。紀伊郷とは「紀氏」一族が勢力をもっていたのでその地名となったという。

                当時の紀氏は、同族の権勢者蘇我氏に仕え、雄略朝期に権勢を誇った帰化人の秦氏を配下にして勢力を
               扶植していたといわれる。
                深草には、古くからの先住民がおり、「うかの山」や「うかの神さま」がいたという。「うか」とは、豊かさ或いは
               豊かな実りをかもす土地を象徴するもの。或いは穀物でしょうか。

                蘇我氏が滅亡すると、紀伊氏の勢力も衰え、秦氏のみが栄えたという。               
                               
                秦氏は、土木工事にも長けていたようで、京都を流れる桂川の嵐山辺り(太秦近く)に大堰(渡月橋近く)を築
               いたという。この辺りは、水利が悪く、桂川の水を堰きとめて、水を引く工事をしたと言う。5世紀初頭の出来事で
               あったでしょうか。
                確かに、秦氏一族は、土木、蚕(養蚕)、機織、鉱山等々の高い技術を持った技術者集団ではありましたでし
               ょう。

                深草に居住する秦氏以外にも、秦氏には、太秦に居住したという秦川勝系統もあり、この系統が、雅楽の東儀
               氏やらの雅楽系統の氏族を輩出したという。更に、薩摩の島津氏とか、四国の長曽我部氏に繋がるともいう。

                「この深草に居住するに至った秦氏の過程は、秦の民であり、葛城臣の祖 葛城襲津彦が連れて来た人々であり、
               渡来直後は、葛城の朝妻えき上に居住し、その後 葛城氏が5世紀前半に、葛城の賀茂氏に秦氏を付けて、相楽
               郡岡田(現 木津川市加茂町北鴨村 )へ移動させたという。その5世紀代には、秦氏は、木津川を下って、紀伊郡の深
               草に移住したと考えられるという。雄略天皇により葛城氏は、滅ぼされ、雄略天皇は、秦酒公の進言を受け、この
               葛城氏に使われていた秦の民を秦酒公の支配下に入れたということでありましょうか。

                5世紀代に、深草の地を開拓する為に秦氏が、移住させられ、深草屯倉が設置されると、実質的な管理者に深草
               の秦氏が宛てられたという。そして、更に葛野地域(現 京都太秦の地でしょうか。)へと開拓の手が伸びたのであろ
               うという。とすれば、秦酒公は、雄略朝時、既に現 京都府太秦に居住されていた。その当時は、山城国葛野と呼ば
               れし地域であったようです。」( 大和岩雄著 秦氏の研究 大和書房 1994年 参照 )と記述されております。


                しかし、古代では、決して政治の表舞台には出てこず、裏方に徹して、羽振りのいい生活を享受していたと思わ
               れます。現代で言えば、日本版華僑のような存在であったのでしょうか。自らの意思でそのように振舞ったのか、
               或いはそのような境遇に従わざるを得なかったのでしょうか。

                更に、大化の改新以降、秦氏は、その出自を知られないように苗字を変えたようであるという。( 飛島昭雄・三
               神たける両著「秦氏の謎」 学習研究社 参照 )
                ハタ・ハダという読み方は替えず、当てる字を変えた・・・畑、端、秦、畠、波田、波多、波蛇、羽田、八田、半田、矢田

                次に前記の苗字に野・山・田をつけるケース・・・波多野、秦野、畠山、畠田、畑川、畑中、広幡、八幡など

                全く違う姓になるケース・・・ 服部、林、宗、朝原、太秦、田村、島津、辛島、小松、大蔵、三林、小宅、高尾、高橋、
                                 原、常、井出、赤染、大幡、長蔵、惟宗など

             6.古代の秦氏の居住分布
                  古代秦氏の分布表
                       (加藤謙吉『秦氏とその民』から転記)

                畿内
                     山背国葛野郡・愛宕郡・紀伊郡・宇治郡・久世郡・相楽郡
                     大和国忍海郡・城上郡
                     河内国茨田郡・高安郡・丹比郡・安宿郡・讃良郡・大県郡
                     摂津国西成郡・豊嶋郡・嶋上郡・河辺郡
                     和泉国

                   東海道
                     伊勢国朝明郡・飯野郡
                     遠江国敷智郡・蓁原郡
                     伊豆国田方郡
                     相模国高座郡
                     武蔵国
                     尾張国葉栗郡

                   東山道
                     近江国愛智郡・神前郡・犬上郡・蒲生郡・浅井郡・坂田郡・高嶋郡
                     美濃国当嗜郡・賀茂郡・本巣郡・方肩郡・各務郡・山県郡・厚見郡・席田郡
                         池田郡(味蜂間郡春部郡里↓和銅・養老年間に池田郡分置)・不破郡
                     上野国多胡郡
                     下野国

                   北陸道
                     若狭国遠敷郡・三方郡
                     越前国足羽郡・坂井郡・大野郡・丹生郡・敦賀郡
                     加賀国加賀郡
                     越中国射水郡・砺波郡

                   山陰道
                     丹波国船井郡・何鹿郡・桑田郡・氷上郡・天田郡
                     但馬国出石郡

                   山陽道
                     播磨国賀茂郡・飾磨郡・揖保郡・赤穂郡
                     美作国英多郡・久米郡
                     備前国和気郡・邑久郡・御野郡・上道郡
                     備中国都宇郡
                     周防国玖珂郡

                   南海道
                     紀伊国名草郡・安諦郡 
                     阿波国板野郡・那賀郡
                     讃岐国大内郡・三木郡・山田郡・香河郡・多度郡・鵜足郡
                     伊予国越智郡・温泉郡
                     土佐国吾川郡・幡多郡

                   西海道
                     筑前国志麻郡・早良郡
                     豊前国仲津郡・上毛郡・京都郡・筑城郡・宇佐郡

                     (ただし秦氏の一族勝姓者の分布地も加えてある)

                   この分布をみるにつけ、秦氏自らこのように意図して居住したのか、別の意図が働き、このように居住させられたというように
                  理解すべきなのでしょうか。おそらく後者ではありましょうか。

  
             7.秦氏の系図
                秦氏考なるHPがあります。その中に秦氏の系図が載っております。参照されたい。
                 ( http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-18.html  秦氏考のHPです。)

               秦氏 略系図
                弓月の君ー○ー秦酒公(雄略天皇治下 5世紀頃)−○ー三男カーーーー○ー秦川勝(聖徳太子に仕える。7世紀頃)
              
                                                   四男、ー秦大津父(欽明天皇治下 6世紀初頭)
                                                    或いは
                                                   五男カ
   
           8.まとめ                                
                秦氏の事柄を調べていくと、秦氏とは、不可解な氏族であるという印象を受ける。桓武天皇治下、平城京から長岡・
               平安京へと遷都しておりますが、平安京の内裏は、旧 秦川勝の邸宅のあった所という天皇の日記もあるやに聞く。
                京都への遷都には、資金面等で秦氏の財力がつぎ込まれたとも言われておるようです。

           付記 
                4世紀以降 朝鮮半島から日本へ渡来した氏族は、秦氏(金官伽耶国から)だけでなく、東漢氏(安羅伽耶
               国から 大和の武市郡へ)、西漢氏(百済から大和の丹比郡古市へ)があり、大和朝廷内の蘇我氏により渡
               来した氏族は、見事にコントロールされていったという。ちなみに、物部氏は、北九州福岡県、大分県の境辺
               り一帯を磐井の乱後支配したと思われます。
                古代の大和朝廷の屋台骨は、渡来人と呼ばれし、これらの朝鮮経由の方々に依存していたようです。また、
               この上に立つ大和王権の天王(後の天皇)も中央豪族と呼ばれし氏族も、やはり渡来人ではあったのでしょう。

                参考までに、「蘇我氏は、百済仏教、聖徳太子は、新羅仏教であったという。そして、蘇我氏の下には、漢氏系が付き
               聖徳太子には、秦氏系がバックに付き、秦氏と漢氏とは、仏教においても対立していたとか。雄略朝の大蔵長官は、秦
               氏でありましたが、蘇我氏が、権力を握り始めると、秦氏を追放し、漢氏を重用したようであります。」( 秦氏の研究 参
               照 )

                一連の拙稿 日本に於ける 「稲作」 のはじまりについての覚書 、
              
                         2〜3世紀頃の九州一帯の諸国分布の一考察
                                                            − 魏志倭人伝から知られる諸国−
                        
                        日本史に於ける 空白の4世紀についての覚書 の三部作により、大よその流れが、見えてき
                たのではないかと。そして、この渡来人 秦氏についての覚書により、古代の日本の歴史が、垣間見えたよう
                な気がいたします。あくまで、私流にではありますが・・・。

                 正規の歴史書とも言えませんが、民間伝承とて、その当時の事実を踏まえてでありましょうから、こうした事
                柄も加味して、古代の史実に近づけたい、日本書紀とは違う、辻褄あわせをした仮説としての古代史を書いて
                しまいました。当たらずとも遠からじと自負はいたしております。日本書紀よりは、まともな日本の古代史では
                ないかと思っております。

                                          平成24(2012)年12月22日 マヤ暦の最終日の次の日に記述