時刻よし!19セイコー

19セイコーのメモ                   →「時刻よし!」19セイコー-

 

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この出車式中三針の製品群は、部品等を寄せ集めた製品としているHPを見ることがある。終戦直後という物不足の時代であったことや意外と文字盤の種類が多いことから、さもありなんと感じるのだが、実際はどうなのだろうか。本当に寄せ集めの部品でつくった製品なのだろうか?

 

これは、同じ頃の製品であるエクストラフラットがストップウォッチ機能を省いたことやゼルマがミニスターの部品を流用したことと混同されている可能性があるのではないか? まずムーブメントだが、これは百式飛行時計のムーブメントであり、寄せ集めてつくれるものとは思えない。少なくとも省略されたり、流用されたりということはない。文字盤も、同じものを、それよりも過去の19セイコーや他の時計に見つけることはできない。よって、戦後の出車式中三針の製品群は寄せ集めからつくった製品とは言い難いのではないか。

 

 

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出車式中三針のPRECISION表示のない製品群はレアなせいか、めったに見ない。これらの製品は、本HP以外で見たことがほとんどない。そういった意味でこれらを所蔵できているのは大変な幸運だ。この個体は教えてもらったものであり、そうでなければ知らなかったと思う。

 

文字盤の特徴は金色のアプライドの数字と目盛りであり、これらは白地に黒色の数字を基調とした鉄道時計としての19セイコーの製品群のなかでひときわ個性を放っている。そして、腕時計の一群、Sマーク、SUPERUNIQUEとの類似性が指摘できるのは興味深い。

 

金色のアプライドはもちろん金ではなく、恐らく質の良い真鍮であると思われ、それら素材が入手できるようになってから製造されたのだろう。ひょっとすると、腕時計の一群との製造過程を共通化したものと思われる。よって、終戦直後のものではなく、しばらく間を置いた1950年前後のものではないだろうか。

 

 

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 この出車式中三針の19セイコーは、さらに2つに分けることができる。文字盤に、1 PRECISION表記のある、 2 なし、である。

 

1の方は文字盤の真ん中から下のあたりにPRECISIONとある。戦後の鉄道時計としての19セイコーとは異なるがPRECISIONとあるのは大きい。確かに、この文字盤は地肌が白ではなく、示時の数字が112まで揃っていないものがある。揃っていないものはレイルロード・ダイヤルとは言えない。しかし、揃っているものは鉄道時計として使うことは可能だったはずだ。つまり、鉄道時計に次ぐグレードであることを示していると言える。

 

2PRECISIONの表記がない方は、さらにその下のグレードということだろう。文字盤も白色ではなく、示時の数字も112まで揃っていない。アプライドとなっていて金色だったりするので、豪華さは演出されている。しかし、これでは鉄道時計とは言えない。収蔵品の出所が鉱山の起業家だったところからも、これは一般販売だったことが予想される。

 

 

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この出車式中三針の19セイコーには、私が収蔵しているものを見ると、香箱が3種類ある。1つは、戦中・終戦直後の19セイコーによくある「SEIKOSHA PRECISION」という刻印があるもの。2つ目は香箱の中ほどに3つの弧が渦巻き状に見えるように配置したもの。3つ目は戦前戦後を通して19セイコーによく見る、中心付近が凹んだもの。

 

1つ目のものは、裏二十蓋の7石の19セイコーと同じである。2つ目のものは、100式飛行時計や一部の外地仕様の19セイコーと同じである。3つ目のものは、1つ目と2つ目を間に挟んで、その前(戦前)とその後(戦後)の19セイコーに共通している。

 

よって、整理すると、3つ目→2つ目→1つ目→3つが並行→3つ目、ということになろうか。

 

 

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セイコーもシチズンも、腕時計は本中三針に切り替えられていった。そして、腕時計のスモセコも消えていく。しかし、不思議なことに、この19セイコーに限っては出車式中三針から本中三針に切り替わることなく、センターセコンドは一旦消えてしまう。そして、19セイコーはスモールセコンドに収斂されることになる。

 

センターセコンドが再び登場するのは、後継機と呼ばれる61RW63RWまで待つことになる。そしてクォーツになり、現在に至ってもセンターセコンドのままである。ということは、鉄道時計としてはスモセコでなくてもセンターセコンドで十分役割を果たせたはずだ。そして、技術的にも本中三針にすることは可能だったのに、1950年代ではそれを敢えてしなかったことになる。

 

 

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いずれにしても本中三針が1950年前後に登場してからは、腕時計は出車式中三針から本中三針へ移行した。それは機構的に優れていたからだろう。出車式中三針はほんのシチズンでは数年、セイコーでも10年で幕を閉じた。

 

これは19セイコーにもあてはまり、出車式中三針は、陸軍の100式飛行時計を除けば、終戦直後のほんの数年しか生産されなかった。ただ、そのバラエティさは群を抜いており、私が所蔵しているだけでも6種類ある。他にもあることを把握しているので、全体としてはどれだけの種類が生産されたのか不明だ。

 

 

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そこで気になることがある。49日のところでHPTIME KEEPER』に「直進式中三針半時間打掛時計」の実用新案(特許取得までの保護)は1950年(昭和25年)10月とあると紹介した。これが直接中三針(本中三針)であるなら、本中三針の時計の登場はこれ以降になっているはずだ。

 

しかし、国産腕時計初の本中三針(直接中三針)とされる通称「ニューシチズン」が登場するのは昭和246月。そして、セイコーの初の本中三針腕時計である「スーパー」の登場も1950年(昭和25年)7月だ。どちらも1950年(昭和25年)10月よりも早い。さて、これをどう見たらいいのだろうか。

 

 

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この「直進式中三針半時間打掛時計」の本当の開発者は、福井時計の店主、福井光雄氏という。開発時期は昭和23年〜24年で、福井氏は当時「日本時計」の技術者だったようだ。

 

この直進式とは何を示しているのだろうか。実用新案広報を見る限り、直進式脱進機を用いていることからこの名があり、これはレバー脱進機のことで、現代の機械時計の基本的な脱進機だ。1718世紀にはイギリスで発明されているもので、こちらに関しては別に目新しいことではない。

 

しかし、その上で、輪列内部に、直接、秒針が取付けられるような構造にしており、歯数を60にして一分間を120等分して0.5秒毎に刻むようにした、とある。こちらがアイデアの核心のようだ。

 

 

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シチズンの出車式中三針の製品化が戦後であったことを考えると、19セイコーの陸軍100式飛行時計は戦前の昭和15年だったのだからかなり野心的な試みだったことがわかる。そして、本中三針の特許も日本の時計メーカーだったこと、そして、その後本中三針化がすすむところを見ると、日本の時計産業の興隆の下地ができつつあったと見ることが可能なのではないか。

 

本中三針については、HPTIME KEEPERに詳しい。実用新案(特許取得までの保護)が認められたのは昭和2510月。考案者は佐藤良二氏となっており、出願人は日本時計株式会社(岐阜県武儀郡関町)という時計メーカーのようだ。ただ、この実用新案をよく見ると、「直進式中三針半時間打掛時計」という掛け時計の機構であり、しかも、よく見ると直進式とあって、「直接」中三針とは書いているわけではない。どういうことなのだろうか。

 

 

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19セイコーに出車式中三針の製品群がある。戦前〜終戦直後のセンターセコンドの時計で、初出は戦前の陸軍100式飛行時計だった。これは19セイコーのスモセコ機構を改造したもので、3番車をブリッジの外に出したものだ。戦場、特に飛行機乗りにとっては秒針も重要で、その視認性がよい機構として採用されたようだ。この100式飛行時計はこのセンターセコンドと黒い文字盤という軍用時計の条件を備えており、鉄度時計のファンだけでなく、軍用時計のファンからも人気がある。

 

戦後のセンターセコンドの個体は、文字盤から判断すると、鉄道時計ではなく恐らく一般販売向けとして製造されたものが主体と思われる。なぜなら、示時の数字が112まで揃っておらず、数字の形や色も鉄道時計の要件を備えていないものが多いからだ。ただ、先日、3/12に落札した個体は112まで揃っており、数字や文字盤の色、形が鉄道時計の要件を備えている。この個体は裏蓋に刻印がないものの、なかには鉄道時計として使用された個体がある可能性はある。

 

 

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 出車式中三針は、通常のスモールセコンド式機械時計の構造をそのままに、秒針をセンターセコンドとして加えたものだ。この名前の由来となっている「出車」は、この加えたセンターセコンド(中央の秒針)を回すために、3番車を2階建てにし、ブリッジの外に歯車を追加したことに由来する。この出車で2番車の中に仕込んだ軸のカナを回す。つまり、動力で直接秒針を回しているわけではないので、別名、間接中三針とも呼ばれる。

 

この出車式中三針は歯車が増えることから構造が複雑となり、トルクのロスが出やすくなるため、運針にふらつきが生じやすくなると言われる。そのため本中三針(直接中三針)が開発されると間もなく取って代わられてしまう。しかし、この出車という独特の機械美のために、コアなファンが存在する。

 

 

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 久しぶりに19セイコーをヤフオクで落札した。それもちょうど出車式中三針の終戦直後の19セイコーだ。この個体の文字盤の特徴は、基本は戦後PRECISIONのブレゲ数字だが、「7」だけ下への線が右に跳ね上がっているところだ。しかもその数字の位置が、他の出車式中三針の製品群のよりも少し内側に入っている。

 

残念ながら、コハゼバネが破損しているためか、動力ゼンマイが巻けない。しかも、文字盤が錆でとてもいい状態とは言えない。おかげで敬遠されたのか安く落札できたわけだが、文字盤はあまり見ないものでレアにちがいない。「時刻よし!19セイコー」の収蔵品出車式中三針に掲載したので、ご覧いただきたい。

 

 

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シチズンのA 中三針 出車式という腕時計がある。この時計、名前にもあるとおり出車式中三針の機構で、センターセコンドの時計である。1948年に販売開始にもかかわらず、この出車式という機構は、1950年代には本中三針が登場して、すぐに製造されなくなってしまう。ということで、出車式中三針はけっこうレアな存在で、一部のマニアには大変人気がある。

 

実は19セイコーにもこの出車式中三針の一連の製品群がある。初出は陸軍100式飛行時計であり、名前からもわかるとおり戦前に製造された。戦後も、おそらく一般向けとしてと思われるが、一時期、いくつかの種類が製造されている。そこでしばらく、この19セイコーの出車式中三針を取り上げたい。

 

 

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 19セイコーがPRECISIONになる前、戦前の私が「外地仕様」として振り分けている19セイコーがある。この文字盤の数字の特徴は、何といっても「7」の縦線が下のところで大きく湾曲し、左から右に大きくはねているところだ。これは19セイコーのなかでもほんの少しの時期のみに見られる文字盤だ。

 

この文字盤にそっくりな外国の鉄道時計がある。ウォルサムだ。写真で見たところ、ダブルサンクで、数字は大きめ。WALTHAM表記のみで、玉葱型竜頭。メモには1910年となっている。最近のオークションでも19201921年というよく似た個体がオークションにエントリーしているのを見ている。これらも明らかに上記の19セイコーよりも古い時代のものだ。

 

 

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 19セイコーの戦後PRECISION(戦中に登場)、つまりブレゲ数字の文字盤にそっくりな外国の鉄道時計がある。これも写真で確認しているものだが、こちらはロンジン、ウォルサムがある。特にロンジンは、数字の形、大きさなどがそっくりで、分刻みの目盛りもほぼ同じである。違うのはPRECISIONの表記がないくらい。

 

ロンジンはケースまでそっくりなものがある。それが1920年代とある上、ほかのそっくりなロンジンの個体はクラッシックなケースであることから、ロンジンのこの文字盤はかなり古いだろう。つまり、これも19セイコーの方がデザインを真似ているのではないか。ウォルサムの個体は「今宵もジュークセイコーの夢をみる!」に紹介されている。こちらもケースまで似ていて、1899年製とさらに古い。

 

 

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19セイコーの初号機は昭和4年(1929年)に出ている。19セイコーのファンならご存知の個体のうちの1つだ。直立の大きめの明朝に似た数字の文字盤だが、目盛りはよく見る◆ではなく、▼となっている。そして、竜頭は玉葱型という、クラシックなその風貌は、他の19セイコーとは時代の違いを感じさせる雰囲気をもっている。

 

この初号機の文字盤とそっくりな、外国の鉄道時計がいくつかある。私が実際に写真等で確認しているものが、ゼニス、エルジン、ロンジンがある。特に、ゼニスのもののなかにはケースや竜頭まで似ていて、一見そっくりなものもある。記憶ではウォルサムにもあったように思う。製造していたと考えられる年代からして、19セイコーがデザインを真似したことが考えられる。残念ながら? ただ、ムーブメントは全く異なっていた。

 

 

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19セイコーについて、最近のヤフオクを見ていても、これは、と思うような個体が出てきませんね〜。ネットの書き込みを見ても、どこかで見たような話題が多いな〜。もうちょっと刺激が欲しいかも。

 

93式飛行時計はお値打ちな価格帯での取引がされるようになって少々驚いています。100式よりも断然珍しいのに、ここのところ、こっちの方が多かったような印象ですね。戦後の出車式中三針のレアな個体が出てこないかな。鉄道会社以外で使われていたとわかる19セイコーも出てこないかな。今後に期待。

 

 

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それに対して、61RW63RWSECOND SETTINGは、竜頭を引き上げると、即座に秒針が止まる。これは、テンプを止めるからに他ならない。

 

 よって、このSECOND SETTINGを使って時刻合わせをするときは、秒針が0の位置に来た時に竜頭を引いて秒針を止める。時刻合わせをする時計の秒針が0になるのに合わせて、竜頭を押し込む。そのため、7石や15石の19セイコーのような無駄な時間はとらない。SECOND SETTINGの完成形といえるだろう。

 

 

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 よって、SECOND SETTINGを使って時刻合わせをするときは、まずは秒針がこれから0秒のところにいく位置であることを確認する。それから、竜頭(ぜんまい)をある程度回して秒針が動き出すのを確かめる。あるいは、秒針が動き出してこれから0にいく位置に来るのを待つ。そして、秒針が0の位置でとまってから、分針を合わせる。それから、時刻を合わせる元の時計の秒針が0の位置に来た時に竜頭を押し込んで時刻合わせをする。最後に巻き足りない竜頭(ぜんまい)を巻き上げる。このようにすると分針が動かず、正確に時刻を合わせられる。

 

ちなみに、秒針を0秒の位置で合わせるときに、時刻合わせをする元の時計の秒針が0の位置に来てから竜頭を押し込んでいる人を見る。しかし、それでは1秒遅れる。秒針が59秒のところに来るのを待って、そこから、秒針が0になるのに合わせて竜頭を押し込むとよい。せっかくのSECOND SETTING機能を上手に使いたいものだ。

 

 

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 他方、SECOND SETTING(秒針規制装置)の方も変化があった。19セイコーの7石、15石のSECOND SETTINGは、竜頭を引くと秒針がすぐ止まるわけでなく、竜頭を引いてもしばらくは秒針は動き続け、0の位置に来て初めて止まる。

 

これは、秒針用の歯車に小さなピンが立っていて、竜頭をひくとレバーが出て、回ってきたピンが引っかかって秒針用の歯車を止めるという仕組みだ。よって、秒針が止まることでムーブメント全体が止まり、テンプも止まるという形になる。

 

逆に言えば、秒針が0の位置で止まるまではムーブメントは動いている。だから、竜頭を引いたからといって、分針は止まっているわけではなく、秒針が0の位置に行くまで最大1分移動する。時刻合わせは、分針にも注意をはらう必要があるのだ。

 

 

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それが17石・21石になるとSECOND SETTINGのみとなる。それはDIAFLEXよりもSECOND SETTINGが重要になったからというわけではなく、DIAFLEXが標準になってきたからである。そして、この頃には、セイコーはゼンマイの材質であるDIAFLEXからSPRONSPRING MICRON)に発展、解消させていた。

 

このSPRONは、「強い」「錆びない」「非磁性」「耐熱性」を備えている大変な優れもので、時計以外への用途が拡大している。例えば、クルマや医療器具、精密機械に使用されているとのことだ。

 

 

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 そして、大事なことがもう1つある。それは、DIAFLEXのみの個体は価値があるが、SECOND SETTINGのみでは成り立たなかったということである。

 

つまり、鉄道時計の命である時間の正確さや信頼性を担保するDIAFLEXはそれほど重要であり、DIAFLEXのみでも鉄道時計は成立するが、SECOND SETTINGのみ(DIAFLEXなし)ではもはや鉄道時計を名乗れなかった、ということだったのだ。

 

 

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 DIAFLEXSECOND SETTINGの機能を、もう少し期間を広げて俯瞰してみる。

 

  7石  … DIAFLEXSECOND SETTINGも、どちらもすでに登場していた

  15石 … DIAFLEXのみとSECOND SETTING DIAFLEX2種類       

  17石・21石 … SECOND SETTINGのみ

  クォーツ    … SECOND SETTING機能はあるが表示なし

 

 つまり、長い間にSECOND SETTINGが定着していくのだが、15石まではSECOND SETTINGは必ずしも必要ではなかったわけだ。それはつまり、鉄道の業務になくてもよかったということにほかならない。

 

 

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少し整理してみる。DIAFLEXのみの個体は7石のみならず、15石の前期・後期まで長く継続したのに、SECOND SETTINGのみの個体はDIAFLEXが登場するや7石までで消えてしまい、15石ではSECOND SETTING DIAFLEXという形に収斂されてしまう。

 

SECOND SETTINGはアイデアが大変素晴らしい。これを搭載した外国の鉄道時計は浅学ながら見ない。しかも、文字盤の見栄えは「SECOND SETTING」と文字数が多く、動作も目に直感的に訴える。つまり、アピール度が高く、私たちにとって印象が強いのに、である。

 

 SECOND SETTINGのみの個体は消え、DIAFLEXのみの個体が継続して存続した理由を考えてみたい。

 

 

 

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15石前期だけでなく、15石後期にまで、DIAFLEX表記のみが存在している理由は何だろうか? もう1つの機構であるSECOND SETTINGが登場したことにより、正確さが求められる鉄道時計としてはこちらの方が上位になり、標準装備にしてもよかったはずだ。その証拠に後継機ではDIAFLEXは消え、SECOND SETTINGのみ残った。

 

15石になった時にはゼンマイがすべてDIAFLEXに替えられたのは理解できる。しかし、それにしてもDIAFLEXのみの個体を商品化する理由は何だったのだろうか? 単なる廉価版というのが答えなのだろうか?

 

 

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 翻って、(A)は15石化が想定されて決められたデザインということになる。精工舎は、恐らくDIAFLEXよりも15JEWELSの方に価値を認め、より目立つ示時の12の下にもってきたのだ。

 

もともとはSECOND SETTINGが登場したとき、表記はスモセコの上だった。そこへ DIAFLEXが加わり、この表記もスモセコの上になった。そのため、DIAFLEXSECOND SETTINGが表記の位置を取り合ったのだ。しかも、それが解決する前に15JEWELSの導入が決定したために、(A)と(B)登場することになったのだろう。

 

 

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117日の(B)の存在は、意外なことを示しているように思う。それは、19セイコーの15石化があらかじめ十分な準備を経て実施されていないかもしれない、ということである。

 

戦後の15石化は、戦前の標準になっていた15石への復活を示すものであり、戦争の影響である戦時設計からの脱出を意味するものだったはずだ。よって、15石化は準備万端で行われたものと思っていた。

 

しかし、(B)の「DIAFLEX」表記の位置に「15JEWELS」の表記をもってきたということは、この段階では15石化が念頭になかったのであり、精工舎の見通しのなかったことを示していると思われるのである。

 

 

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 1030日の記事から2つのことがわかる。1つめは、7石から15石への転換は1年で一斉に行われたのではなく、タイムログがあることを示している。そして、今のところは昭和35年までは確認できるが、それ以後の個体を見つけることが課題となっていることだ。2つめは、SEIKO表記の7石でSECOND SETTING DIAFLEXの個体はムーブメントが同じでも、文字盤は2種類あることを示している。

 

このDIAFLEXの表記の位置が異なる2種類は、1つはスモセコの上にあるもの(A)、そしてもう1つは示時の12の下(B)にある。精工舎は最初、DIAFLEXを示時の12の下につけたものの、結局はすぐにスモセコの上にもっていくことにしたようだ。そのため、示時の12の下にDIAFLEXのある個体がレアになったようだ。

 

 

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1959年(昭和34年)は19セイコーにとって留意すべき年なのではないかと思う。SEIKOSHA表記からSEIKO表記に代わる。そして、1960年(昭和35年)には15石が登場する。もし、15石への切り替えが一斉に行われたのであれば、SEIKO表記の7石は1年間しか製造されなかったことになる。

 

しかし、私の所蔵する19セイコーには、裏蓋に昭和35年の表記のものがある。そして、それはDIAFLEX表記が時示の12の下にある。他の通常の19セイコーはDIAFLEX表記はスモセコの上部にある。ということは、この個体は7石から15石への過渡期のものということなのだろう。

 

 

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ヤフオクに『精工舎懐中時計図鑑』が出品されているのだが58,000円という大変高い開始価格になっている。この書籍は、私も19セイコーについてのデータとして大変あてにしている、とても貴重なものということは認める。しかし、定価は4,500円であるので、その10倍以上というのは高すぎるのではないかと常々思っていた。

 

ところが、ほとんどのweb書店では在庫がなくて扱っておらず、在庫があっても、中古の最低価格で69,750円と56,000円という価格になっているではないか。驚きである。そうであれば、58,000円も妥当というところだろう。

 

 

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 19セイコーのなかで戦後7PRECISIONの文字盤のうち、白く塗装していない、うっすらと緑がかった金属の地金のような文字盤がある。これは19セイコーのなかでは唯一のものだ(黄色がかった金属地金の個体はもう1つあるが)。状態が良ければ美しい輝きがあり私のお気に入りだ。しかし、この珍しい文字盤は終戦直後という時期だったために資材が乏しく、特に塗料が入手できなくて仕方なくこの形式にしたのだろうと考えていた。

 

ところが、この文字盤とよく似たウォルサムの個体がヤフオクに出品されているに気づいた。ブランド名はTEMPUS。説明によれば軍用時計のようだが、ケース径は51mmと鉄道時計とほぼ同じ。肝心の文字盤については、「シルバー梨地文字盤」となっている。同じものということであれば、資材不足もあったとは思うが、精工舎はこの文字盤の良さをわかっていてこれを採用した、と考えられる。

 

 

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 先週に続いてシリアルナンバーの刻印のない戦前15石のムーブメントを確認した。戦前の二重蓋15SEIKOSHA PRECISIONだ。これは市販されておらず、将校用として支給されたものではないかと言われているものだ。

 

 石留め(シャトン)は銀色で、緩急針の目盛りは間違いなく戦前のものだ。やはり『精工舎懐中時計図鑑』で確認してみると、これについては、前期・中期・後期とあるなかで、後期のものにシリアルナンバーがないと明記してある。先週に紹介した甲板時計も同様だった。終戦間際になると、少しでも早く出荷するようにしていたのだろうか。

 

 

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 戦前の15石のムーブメントにはシリアルナンバーが刻印されているが、戦後の15石のムーブメントにはシリアルナンバーはない。しかし、これに当てはまらない個体があることがわかった。それは海軍甲板時計の15石である。

 

先日、オークションに出ていた甲板時計のムーブメントにこの刻印がなかった。戦後15石のムーブメントを換装したものかと思ったが、石留め(シャトン)があり、緩急針の目盛りも戦前のものだった。『精工舎懐中時計図鑑』に出ている甲板時計を確認すると、なんと、シリアルナンバーのないものがあると書いてある。そして、掲載されている個体のムーブメントもシリアルナンバーがないのだ。

 

 

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電話交換手が使った19セイコーの交換時計は、市外電話の課金を測るために使用した。

 

 この19セイコーは、スモセコのインダイヤルを風車のように黄色で色分けしている19セイコーがある。0秒〜10秒・20秒〜30秒・40秒〜50秒が下地で、10秒〜20秒・30秒〜40秒・50秒〜60秒が黄色となっている。ものによっては、その色分けのところに、手書きの16の数字が書き込まれている個体もある。

 

 では、この色分けが10秒ごとになっている理由は何だろうか。課金体系等を色々調べているが、その根拠はまだ見つけられないでいる。それがはっきりしてこそ、この時計の本当の使い方がわかると思う。

 

 

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 24型でSECOND SETTINGのみの表記の個体が、先日ヤフオクに出ていた。SECOND SETTING DIAFLEX表記の個体はよく見るのだが、これは珍品と言ってもいい。前から課題となっていたのが、この個体の石数だ。

 

ムーブメントの写真がなく、直接確認できていないが、幸いなことに、SEIKOの商品紹介のカードが付属品となっており、そこには15石との表記があった。この個体そのものは確認できなかったが、15石の個体が存在することは確認できたことになる。

 

 

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この塗料の特徴から見たときに、謎の位置づけになるのが、またまた例の韓国交通部鉄道庁(K.N.R.)の専用干支と言われる個体だ。

 

戦後SEIKO15石後期はすべてがスモセコのインダイヤルが白色で、文字盤全体はきれいな白色だし、戦後SEIKO15石前期はスモセコのインダイヤルは銀色と白色があるが、白色の個体は文字盤全体はきれいな白色だ。ところが、K.N.R.の個体は15石であるのは間違いないのだが、スモセコのインダイヤルが白色にもかかわらず、文字盤全体は黄色ぽい、焼けのある白色で、明らかに異なるのだ。

 

つまり、戦後SEIKO15石前期でスモセコのインダイヤルが銀色のものか、戦後SEIKO7石の文字盤の塗料と同じということになる。収蔵品のところでは、ケースのシリアルナンバーから戦後SEIKO15石後期ではないかと推測しているが、ここから戦後SEIKO15石前期である可能性が垣間見えるのである。

 

 

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戦後の19セイコーのPRECISION、いわゆる鉄道時計の金属文字盤は、大まかに2種類に分けることができる。1つはスモセコが銀色のもので、もう1つは白色のものだ。これは、文字盤全体にも関連がある。

 

スモセコが白色の個体は文字盤全体が真っ白で、大変きれいな状態のものが多い。

 

スモセコが銀色の個体は文字盤がうっすら焼けていて、全体に黄色っぽくなっている。しかも、きれいに焼けているというよりは、シミやカビがあったり、変色していたりする。

 

これは明らかに塗料が異なることを示している。これは塗料の技術が向上したということなのだろう。発色が良いだけでなく、変色や腐食にも強い塗料だったのだ。

 

 

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 今回、普段使いのために、ある19セイコーのゼンマイを巻いて時刻合わせをしていたときに、偶然だが気がついたことがある。戦後SEIKO7石のスモセコの上にDIAFLEXのみの表記で、スモセコのインダイヤルは白の個体である。

 

 この個体、60の位置で秒針が止まったのである。つまり、この個体にはSECOND SETTINGの表記がないのに、秒針規制の機能があったのである。あまりに初歩的なことで、頭から秒針規制の機能はないと決めつけていたのだが、以前に紹介した韓国交通部鉄道庁(K.N.R.)の専用干支と言われる個体と同じだったのである。これだけでこの個体に秒針規制があると結論付けるのは早計だろう。今後の課題としたい。

 

 念のため、私が所蔵している戦後SEIKO15石前期のやはり、スモセコの上にDIAFLEXのみの表記で、スモセコのインダイヤルが銀の個体について確認したら、この秒針規制の機能はないことがわかった。

 

 

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24型の19セイコーで、文字盤は「SEIKO」のみの個体を発見した。これは戦後の19セイコーの特徴であり、24型の個体では私は初めて見た個体であり、珍品と言っても過言ではない。

 

ムーブメントを見ると、戦後の特徴を備えており、7石ではなく、15石だったのかと悦に入っていた。シリアルナンバーはなく、独特の字体のSEIKOSHA15JELELSとあることから、間違いなく戦後15石のムーブメントだ。

 

ところが、石を見ると何と金色のシャトン(石留)があるではないか。これは戦前の19セイコー15石の特徴だ。 ただ、よく見ると、このシャトンはオリジナルよりも細く見える。石の形は戦後のものだ。ということで、この個体は意図的なガッチャということがわかる。となると、文字盤もオリジナルなのかリダンか判断できない。残念だ。

 

 

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戦後SEIKOSHA7石以降のスモセコのインダイヤルが銀色の個体は、銀色のところが汚れているものは見ても、錆びていたり、傷んでいるものを見ることは少ない。大変きれいな光沢のある銀色のものが多いのだ。

 

それらの個体の文字盤は、白色の部分はカビなどで汚れていたり、傷んでいるものが多いにもかかわらずだ。50年以上もたっているにもかかわらず、この銀色の部分がきれいな理由は何だろうか。今後の課題だ。

 

 

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 スモセコのインダイヤルの周りが「レールのような模様」でない個体が、実はもう1つある。RAILWAY WATCHだ。7/24であげていなかったのでここで加えておく。

 

 1秒ごとの目盛と10秒ごとの数字が書かれているのは外地仕様や終戦直後の個体と同じだが、数字が四角いゴシックで、メモリも太い目盛になっている。これはこのRAILWAY WATCHのみなのだ。文字盤の1〜12の数字の字体に統一性をもたせたものにしたのだろう。この個体は扱いにくいと書いたことがあるが、視認性は抜群である。

 

 

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 19セイコーのスモセコのインダイヤルの周りは、ほとんどすべてと言っていいぐらい1つの目盛になっている。それは二重の線の中に、1秒ごとの目盛が入っているものだ。見ようによっては「レールのような模様」とも言える。ひょっとすると鉄道時計を意識してのデザインかもしれない。

 

 しかし、2種類のみこれにあてはまらない個体がある。1つは戦前の外地仕様であり、もう1つは終戦直後の個体(ひょっとすると一般販売用かもしれない)だ。

 

 外地仕様、7の下の部分が右に跳ね上がっている、特徴ある文字盤のものは、1秒ごとの目盛のみが書かれている。終戦直後の方は、10秒ごとの数字が書かれている。

 

 

令和3717

 

 19セイコーの後継機は、すべてセンターセコンドであり、センターセコンドの尻尾がすべてo型というのは、実は大変興味深い。19セイコーのスモセコの尻尾がほぼo型であるからだ。そして、実は全体の形もほぼ同じ。

 

 つまりは、19セイコーの尻尾がo型のスモセコをそのまま大きくしたものが後継機のセンターセコンドとして使われていることになるのだ。それは、19セイコーの正統な後継機であることを示すものということもできそうだ。

 

 

令和3711

 

 次に19セイコーのセンターセコンド(中三針)は次のような特徴がある。

 

 飛行時計100式の出車式中三針と終戦直後の出車式中三針の尻尾(示秒ではない方)は、すべて菱形になっている。ただ、針の色は、飛行時計100式は金色、終戦直後はほぼ赤色だが、黒色と金色もある。

 

しかし、示秒の方は、針の色が赤色でも黒色でも中抜きの菱形が多い。ただ、私の所蔵している個体を見ると、針が黒色で菱形がなく針状のものと、針が金色で菱形のものもある。

 

 後継機の61系、63系、そしてクォーツの本中三針は、すべてo型であり、針の色は黒色である。

 

 

令和374

 

 19セイコーのスモセコの針の尻尾(示秒をしない短い方)には3種類ある。@o型、Aクローバーの三葉に似た型、そしてB分針の先によく似た型の型である。

 

 戦前は@が基本である。AはRAILWAY WATCHのみ。Bはもう少し多い。ただ、Bはスモセコの針そのものが細いものと太いものがあり、規則性もよくわからない。そのため、Bについては19セイコー以外、あるいは精工舎以外の流用の可能性もあるのではないか。

 

 戦後は、私の所蔵している個体はほぼすべてが@であり、戦前のスモセコの針とだいたい同じ形だ。ただ、私の所蔵しているK.N.R.の個体のみでBとなっている。だた、このK.N.R.はケースが替えられている可能性が高いので、他社等の流用かもしれない。

 

 

令和3627

 

19セイコーの金属文字盤のインダイヤルには、数十本の細かい溝が同心円状に入っている。これはインダイヤルが銀色のものだけでなく、白色のものも全く同じだ。そして、それは戦前の個体にも共通している。

 

ただ、この金属文字盤のインダイヤルの直径には若干の変遷がある。戦前の外地仕様24時間表記の個体のインダイヤルが一番小さく12.5mm。これはペイントとへこみがだいたい一致している。戦前の二重蓋の個体のインダイヤルのへこみは若干大きくなっていて13.0mmだが、ペイントは少し小さく12.5mm。そして戦後のインダイヤルはへこみとペイントの大きさが再び一致していて13.0mmとなっている。

 

 

令和3620

 

 この19セイコー戦後7石のなかでスモセコ・インダイヤルが銀色の個体は、実は鉄道時計のなかではけっこう珍しい。19セイコーの特徴と言っても過言ではない。

 

もともと鉄道時計の文字盤は、その誕生からポーセリンが主体だったため、スモセコ・インダイヤルは白色だった。それが銀色になったのは、金属文字盤ならではのものなのだ。19セイコー以外の銀色の個体は、私の知る限りではウォルサムの鉄道時計の一部にあるだけだ。

 

 

令和3613

 

 スモセコのインダイヤルが銀色の個体は、戦後昭和2010月に生産を再開した当初から存在する。以後、戦後SEIKOSHA7石・戦後SEIKO7石・戦後SEIKO15石前期まで続き、戦後SEIKO15石後期にはなくなる。

 

 この文字盤を可能にしているのが金属文字盤である。これは戦前の外地使用の一部の19セイコーと終戦間際の裏二十蓋7石の19セイコーがルーツとなっている。ただ、これらのスモセコのインダイヤルは文字盤と同じ白色に塗装されている。戦後はインダイヤルを銀色にして差別化を図ったようだ。

 

 

令和365

 

19セイコーを収集し始めたころに感じていた謎をここで紹介したい。戦後15石後期の個体は、スモセコのインダイヤルはすべて白色である。しかし、戦後15石前期の個体と戦後7石の個体は、スモセコのインダイヤルが銀色のものと白色のもの2種類がある。ところが、この銀色と白色のものの使い分けがよくわからない。

 

 たとえば、スモセコの上にDIAFLEXのみの表記の個体は、銀色と白色のどちらもある。そして、それ以外は全く同じに見える。また、DIAFLEX SECOND SETTINGの個体も銀色と白色のどちらもあるのだ。

 

 

令和3523

 

グーグル翻訳を使って、試しにハングルで19セイコーや鉄道時計について検索してみた。しかし、参考になるようなHP等はほとんどない。出てくるのは、K.N.R.19セイコー1つと「朝鐵」の刻印のある戦前の19セイコー1つぐらいだろうか。韓国には、鉄道時計や19セイコーに関心のある人はほとんどいないようだ。

 

上のことからわかることは、戦前・戦中は当時の19セイコーが使われていたということだ。鮮鉄にしても朝鉄にしても日本の朝鮮総督府の管理下、あるいは影響下にあったのであるから当然と言えば当然だ。しかし、戦後はどうだったのか? K.N.R.91-0050T以外の確かなデータはほとんどなさそうである。実際はどうだったのか、興味がつきない。

 

 

令和3515

 

精工舎は、鉄道時計ではないとわかっていて、そして、K.N.R.が鉄道時計として使うことを、わかっていてK.N.R.に輸出したのだろうか? さすがにそれは考えにくいのではないか? 

 

精工舎はアメリカ鉄道時計を知り尽くし、日本の国有鉄道や鉄道企業に提供してきた。外国とはいえ鉄道企業に、鉄道時計でないものを鉄道時計として販売するとは思えない。しかも、当時の韓国はアメリカの影響が強かった時期だ。鉄道時計でないものを鉄道時計として輸出することは、精工舎にとっても不名誉なことだったはずだ。

 

ということで、考えられるのは、まず、精工舎は一般販売用として輸出していた。それを、K.N.R.が鉄道時計として採用した。ただ、それは、正式な鉄道時計ではなかった。ということではないか。そうであるなら、410日に紹介した、K.N.R.の刻印のない19セイコーの説明がつく。

 

 

令和358

 

K.N.R.19セイコーについて、重要なことをもう1つ書いておく。

 

     K.N.R.19セイコーは、鉄道時計のレイル・ロード・ダイヤルではない。

 

K.N.R.の文字盤の示時数字は24時制を採用しており、内側に赤く1324と書かれているため、一見、外地用のレイル・ロード・ダイヤルのように見える。韓国の鉄道用なのだからこれはあり、か、と思いがちだ。しかし、肝心の示時の数字をよく見ると、ゴシックの中抜き数字になっている。これは決定的だ。鉄道時計の象徴的な特徴は、大きくて太く黒いアラビア数字だからだ。つまり、K.N.R.19セイコーは、「なんちゃって鉄道時計」になっているのだ。

 

 

令和352

 

K.N.R.の刻印のある19セイコーの存在は、日本から鉄道時計として輸出していた(現地で生産していたのかもしれない)という意味で、大きな意味を持つ。それは、少なくとも当時、韓国には19セイコーを超える、あるいは、少なくとも並ぶ時計がなかったから、韓国国有鉄道が使用していたことを示しているからだ。

 

当時の韓国では、スイス時計などの子会社が盛んに韓国製として時計を生産していたらしい。韓国が自ら「時計製造強国」と称するのはかわいらしい方で、「世界3大時計生産国」とか、「スイスの有名時計ブランドと肩を並べる韓国製の一流時計ブランド」があるなどとも言っているとか。さらには、「朝鮮式ぜんまいからくり時計という機械が時計の起源」という起源説もあるそうで、日本(精工舎)に時計技術を伝えたのは韓国という書き込みさえある。

 

K.N.R.刻印のある19セイコーを研究することは、日本の鉄道時計の歴史を明らかにするだけでなく、韓国の時計史を正す足がかりにもなると考えられる。

 

 

令和3424

 

K.N.R.(韓国鉄道庁)は1963年〜2004年に存在した、韓国国有鉄道を管轄した国家行政機関だ。そこで疑問がわく。91-0050Tの文字盤がK.N.R.の専用文字盤であるというのなら、91RWだけというのは不自然ではないかということだ。

 

日本で91RWの製造が終了したのが1971年であり、クォーツの75RWが登場するのが1978年、そして、その間に61RW63RWがあり、75RWの後のクォーツ時計も登場している。

 

もし、そうであるなら、それらのキャリバーでも、それぞれ同じ文字盤、あるいは発展形の文字盤の個体があってもいいのではないか、とも思うのである。しかし、残念ながら、91RW以外のキャリバーでの文字盤を見たことがない。実はクォーツで同じ文字盤の19セイコー、という個体もあるのだろうか?

 

 

令和3417

 

 K...の専用文字盤とされる91-0050Tについて、もう1つ書いておきたい。スモセコのインダイヤルの上には、DIAFLEXとしか書いていない。だから、同時期の同じ表記の19セイコー、9110Aには、秒針規制はない。 ところが、この91-0050Tにはあるのである。

 

 SECOND SETTINGの表記がないのに、秒針が600)の位置で止まるのだ。

 

 輸出品ということで、国内向けとは仕様が異なるのだろう。秒針規制が標準装備であり、それが当たり前ということなのだろう。ということは、韓国にはこの機種から輸出されたということであり、日本国内のように徐々に付け加えられてきたという歴史と一線を画すということなのだろう。

 

 

令和3410

 

...の専用文字盤とされる91-0050T(HP『今宵もジュークセイコーの夢をみる!』)について、最近ヤフオクに出ていた個体を見ると、裏蓋にはK.N.R.の刻印はなかった。専用文字盤であれば、K.N.R.の刻印があるはずだ。私の所蔵品の91-0050Tはケースを変えている可能性があるが、やはりそれもK.N.R.の刻印はない。

 

専用文字盤というのは本当なのだろうか。ひょっとすると、別の会社に販売されたものや一般販売のものはなかったのだろうか。K.N.R.の専用文字盤であるとわかる根拠、出典がはっきりできるとうれしい。

 

 

令和343

 

最初のクォーツ時計であるクォーツアストロン35SQが出たのが1969年であり、第二世代クォーツキャリバーとして、1971年に登場したのが38系(Cal.38)。クォーツ時計の普及版として開発されたムーブメントである。

 

しかし、普及版と言っても、当時のクォーツ時計は高価だった。大卒初任給が5万円弱だったときに、アストロンは45万円、38系は廉価版とされた38QRでも5万円を超えた。機械式時計の高級時計グランドセイコーと同等かそれ以上の価格だったことは把握しておきたい。造りもしっかりしていたため、50年近くたつのに現在も稼働するものが多い。愛好者からはオールドクォーツと呼ばれ、けっこう人気がある。

 

 38RWは、この38系(Cal.38)クォーツの鉄道時計なのだ。

 

 

令和3328

 

38RW75RWの違いは電池にもある。38RWSB-A9SR44SW)、75RWSB-A8SR43SW)であり、違いは直径と高さ、質量であり、標準容量である。つまり、38RWの方が少し大きいのだが、電池寿命は短いわけだ。それだけ多くの電流を使うということだろう。電圧は同じ1.55Vである。

 

電池というものは、原則はあるものの、実際はなかなか一筋縄ではいかないもののようだ。浅学なため勉強しなおしてみたい。その結果は、改めて「機構のメモ」で取り上げていきたい。

 

 

令和3327

 

 精工舎のクォーツ鉄道時計の初号機38RWの性能について改めて確認してみる。電池寿命は1年しかなく、それが5年としている2代目の75RWには遠く及ばない。これは使い勝手や保守の観点から75RWの方が格段に向上したと言っていいだろう。しかし、肝心の携帯精度は、なんと38RWの方が上なのだ。75RWが月差±15秒以内なのに対し、38RWは月差±10秒以内。

 

 実際、38RW75RWそして、7C11を並べて置いておくと、75RWの精度が若干だが劣ることがわかる。後から出た75RWはデチューンされていたわけだ。38RWに対する精工舎の思い入れは相当なものだっただろう。当時の雑誌の記事にも「水晶時計の教科書として歴史に残る値打ちのあるものである」と書いているものさえある。

 

 こう見てくると、当時はクォーツ時計がまだまだ高価だったときで致し方ないのだが、47,000円という価格設定が高すぎたというのは間違いではないと思う。

 

 

令和3320

 

 天測時計も、レプリカとわかっていて楽しむのは問題ない。参考に私が把握しているものを挙げてみる。

 

●中田商店 嵐山美術館監修  旧海軍航空隊の腕時計 黒文字盤 裏蓋に「空兵第三六一三號」

クォーツ 日本海軍日本軍 48mm 

 

●加坪屋製 少数生産品 現在絶版品 帝国海軍航空兵腕時計 天測時計 日本海軍 メンズ腕時計

 キネティック(電池交換不要) 黒文字盤 AGS 裏蓋に横書きで「横空 第三六一八號」 

リュウズガードあり 48mm 

 

●ミヨタ社 帝国海軍航空兵腕時計 自動巻き(Cal.8215 手巻可) 黒文字盤 裏蓋「横空」 48mm

 

●イーグルモス社 海軍天測時計 黒文字盤 

裏蓋「EAGLEMOSS COLLECTIONS 1940's JAPANESE PILOT PILOTEJAPPONAIS 

PILOTOJAPONES JAPANESE QUARTZ MOVEMENT」 クォーツ 

 

●精工舎製 元海軍大尉監修 セイコー時計資料館協力 黒文字盤に「海軍航空時計 精工舎」

 裏蓋には刻印なし 龍頭は3時の位置と12時の位置の2種類ある 自動巻き(手巻可)  

48.5mm <実物にない文字が文字盤にあるのが目印>

 

●ミノリ社 帝国海軍航空兵時計 SEIKO SII自動巻き発電キネティッククォーツ(Cal.YT57B

秒針停止装置あり 電池交換不要) 日常生活防水仕様 裏蓋はスケルトン 35mm <小さい>

 

未確認のものも挙げておくと、ワールドファミリー製、フランクリン・ミント製、そして、社名はわからないが中国製のものもあるようだ。天測時計はそれだけ人気ということなのだろう。

 

 

令和3314

 

念願の3870-0010T、いわゆる38RWを入手した。セイコー初のクォーツの鉄道時計として知られている。75RW7550-0010T)はよく見るが、この38RWはほとんど見ない。あまりにレアで、入手をあきらめていたので、出品者には感謝だ。<「時刻よし!」19セイコー>の左、収蔵品の「後継機 クォーツ」に載せたので是非ご覧になっていってほしい。

 

ただ、電池がLR43になっていたので、少々戸惑っている。把握していたSR44SWSB-A9とは違っていたからだ。これについても調べていきたい。他の点でも、入手してみてわかることが多いものだと実感している。

 

 

令和3313

 

天測時計は大変人気があり、本物はオークションでもかなりの高値で取引されている。時計マニアだけでなく軍事マニアにとっても魅力があると思われる。19セイコーの腕時計版という珍しさだけでなく、軍事時計という血統とその風貌も人を惹きつけるものがあるのだろう。

 

そこで注意しなければならないことある。レプリカ(復刻)の存在だ。そうと一目でわかるものはいいが、中にはよくできたものもあり、文字盤を見ただけでは判別が難しいものがある。しかも、なかにはマニアが本物にそっくりに手を加えたものがあり、それらは写真では判別はまずは不可能だ。しかし、それらのムーブメントは19セイコーではないため、購入を検討する人はムーブメントを確認することをおすすめする。

 

 

令和336

 

 天測時計が陸軍の船舶で使用されたかどうかは今後の課題となるが、19セイコーが意外な使い方をされたことは当時のカタログが手がかりとなるかもしれない。

 

      「鐵道省の御用を承ります鐵道時計セイコーシャは魚雷等の天測用にも使用され極めて堅牢にして

示時正確な事は申す迄も御座いません。一般時間本位の懐中時計として御奨め致します。」

 

『鎖と時計No.37』 (服部時計店) 昭和912

 

 このなかの「魚雷等の天測用にも使用され」という部分が大変興味深い。「魚雷等」ということは、魚雷だけではないことを示しており、しかも「天測用」というのだ。いったい、どんな使い方をしたのだろうか。この19セイコーの使い方については、まだまだ発掘の余地がありそうだ。

 

 

令和3228

 

「天測時計」は海軍で使用されていたというのが一般的だ。戦後に販売された復刻版はどれも海軍と銘打っていることからもそれはわかる。では、天測時計は、本当に海軍の航空隊だけで使用していたのだろうか。

 

 実は、『精工舎懐中時計図鑑』のp114に気になる記述がある。引用してみる。

 

     「(陸軍)精密時計も(海軍)甲板時計と用途は同じで、航法用として用いられたが、天測時計の方が主として使用されたので、

軍の交付申請記録は小(まま)ない。(少ない)」 ( )は筆者

 

つまり、陸軍の船舶が航行するために使用した精密時計の代わりに、この天測時計を使用した、というのである。陸軍の航空部隊ではない。船舶で使用したというのだ。

 

 

 

 

令和3220

 

25日で紹介した「陸海軍将校用高級10SEIKOSHA PRECISION」という腕時計は、「裏二重蓋19セイコー」と同じ「PRECISION」の名を冠するので、これが19セイコーと同じムーブメントか、と勘違いしそうだが、実はムーブメントは異なる。19セイコーのムーブメントをもった腕時計はないのだろうか。

 

実は「天測時計」がそれである。『精工舎懐中時計図鑑』p135136の記述から、海軍のパイロットが使用していたことがわかる。しかし、興味深いことには、出車式中三針であり、ムーブメントは「陸軍100式飛行時計」のものをそのまま使用したようである。

 

 

令和3214

 

 19セイコーのなかで最もレアな機種のうちの1つが、「SEIKOSHA 盲人用懐中時計」、セイコーミュージアムでは「視覚障害者用懐中時計」と紹介されている。触って時刻を確認するため、「読式(触読式)」としているものも見ることがある。そもそも戦前の失明した傷痍軍人向けに製作されたので、数が大変少ない。推測で140150個とされる。よって、現存している当時のものはほとんど手に入らない。あっても状態の良いものは少ない。戦後のものと思われる精工舎製の蝕読式腕時計を見たことがあるが、こちらも目にすることは少ないと思う。

 

19セイコーのこの時計、2000年にヒストリカルコレクションの1種類として復刻販売された。どれだけ販売されたかは不明だが、限定1000本というからオリジナルよりも随分と多い数が出たことになる。文字盤はほぼ同じ。SEIKOSHASEIKOになっている。ムーブメントは、クォーツ・ムーブメント7C17-0A10で、ケースはニッケル(クロームメッキ)がステンレスになっている。当時のメーカー価格は35000円。

 

 

令和325

 

 もう1つが『精工舎懐中時計図鑑』p14「陸海軍将校用高級10SEIKOSHA PRECISION、戦前の腕時計である。そこには、こう書いてある。

 

   昭和14年に精工舎技術陣、布施義尚主任技師の元、佐藤三郎氏が設計を行い、切り天府、巻き上げヒゲを用い、

巻車は鏡面仕上げ、受け全面にストライプの模様仕上げ、3姿勢調整を行っており、ケースも不酸化鉄(ステンレス)

側を使用、文字板は同時代のミニスターと酷似したバトラー支、ムーブメントはセイコーシャナルダン形、高級19

セイコーシャプレシジョンに迫る勢いの上等な仕上げとなっている。

 

この時期は布施氏は主任技師で、部下に設計を行わせていたことがわかる。そして、腕時計であり、ムーブメントは異なるものの、「裏二重蓋19セイコー」と同じ「PRECISION」の名を冠する時計に、布施氏がかかわっていたのだ。

 

 

令和3130

 

 布施義尚氏がかかわる時計は、『精工舎懐中時計図鑑』に他に2種類紹介されている。1つは「17SEIKOSHA RIGHT」だ。抜粋してみる。

 

セイコーシャライトは、17型セイコーシャナルダン形と同じく、布施主任技師を中心とした精工舎技術陣による

当時の世界でも最先端の最新設備、最新技術を背景に、新規設計、開発されたムーブメントです。

 

このセイコーシャライトは、ナルダン型の出た次の年である昭和6年に登場した機種で、準高級品という扱いだそうだ。時計の性能を決定する機構は、アンクル脱進機、チラネジ付き切テンプ、巻上ひげと、やはりナルダン型、19セイコーとほぼ同じ。ブリッジの形はナルダン型とよく似ており、スワンネック緩急針を採用している。しかし、ナルダン型では隠れていた丸穴車と角穴車を表に出していることとその位置は、19セイコーとほぼ同じになっている。つまり、ナルダン型と19セイコーのいいとこどり、折衷のような形になっているところが興味深い。

 

 

令和3124

 

ナルダン型と19セイコーのムーブメントを見て興味深いのは、緩急針である。ナルダン型の緩急針は、なんとスワンネックなのだ。スワンネックと言えば、当時のアメリカ鉄道時計の標準とも言えるほどの機構で、19セイコーは何かとアメリカ鉄道時計と比較されるのだが、その19セイコーにはとうとうスワンネック緩急針は採用されなかった。

 

他方、ナルダン型がスワンネックなのは、基にしたユリス・ナルダンのムーブメントがスワンネックだったからというのが理由だろう。しかし、時期から見てその気になれば19セイコーにもスワンネック緩急針を採用できたのではないだろうか。それなのに19セイコーがシンプルな緩急針だったのは、19セイコーの方はあくまでモリス型を基にしたことを示しているのかもしれない。

 

 

令和3116

 

19セイコーの設計者ではないかと推測している布施義尚氏について、『精工舎史話』に気になる記述がある。「17型高級懐中時計SEIKOSHA」のところで、2か所も布施義尚氏の名前が出てくるのだ。そこにははっきりと「設計者」と書いている。

 

この時計は別名「ナルダン型」と呼ばれ、スイスメーカーのユリス・ナルダンを模範として作成したと言われる。19セイコーとこのナルダン型は、確かにムーブメントは全く異なるが、使われている機構は、アンクル脱進機、チラネジ付き切テンプ、巻上ひげと、性能を決定づけるものは同じだ。

 

布施氏は、9型腕時計(モリス型)を設計しており(令和21121日の記事で紹介)、このナルダン型も彼の設計であるということであるので、当時のスイスの先端技術をもったメーカーの技術を取得したことになる。

 

 

令和3110

 

平成3015日に、「再開後における第二精工舎の時計類の生産は、まず最初に二十年十月、はやくも桐生工場において十九型鉄道時計(中三針のそれをふくむ)の生産が復活」と紹介した。『精工舎史話』の本文に間違いなく書いてあるのだが、次のような表記も見つけた。

 

    同書の「セイコーウォッチの歩み」には、

昭和2010月(1945年) 懐中19型鉄道時計 復活(桐生)

       11月        〃  19型中三針  復活(桐生)

 

 ということは、本文では復活したのはスモセコPRECISIONも出車式中三針も昭和2010月と書いているのに、この「歩み」では、スモセコPRECISION 10月、出車式中三針は11月となっているわけだ。どちらが本当なのか、今後の課題となるだろう。

 

 

令和313

 

 巻上ひげは、現在でも高級時計に使われており、しかも注目すべきは、いまだに進化しつつあるということだ。それら高級時計といわれる各メーカーのHPを見ると、巻上ひげであることを自慢げに掲載している。巻上ひげは職人の手曲げが基本であり、コストも3倍増と紹介しているところもあるぐらいだ。そして、興味深いことには、CMW二次試験のなかに、19セイコーの変形した巻上ひげゼンマイの修正があるのだ。

 

それを昭和の初期に19セイコーに投入したのだから、精工舎としてはかなり思い切ったことだったのではないだろうか。

 

 

令和21226

 

 ここでしておかなければならないのは、新エンパイヤと19セイコーのムーブメントの比較だ。『精工舎懐中時計図鑑』を見てみるとほぼ同じなのだが、相違点が1点あることがわかる。ひげゼンマイだ。

 

新エンパイヤ … 平ひげ    

19セイコー  … 巻上ひげ  

 

 巻上ひげは別名「ブレゲひげ」とも呼ばれ、HPBreguet』は、高級ブランドが好んで採用していると紹介している。平ひげはホイヘンスが1675年に発明したもので、振り子時計と同程度の精度を懐中時計で実現したことで画期的だった。しかし、ブレゲは1795年に「ゼンマイの巻きの最後の端を持ち上げ、より小さなカーブにすることで、ひげゼンマイが同心円状に展開することを可能」にし、精度を上げたという。

 

19セイコーは、新エンパイヤのひげゼンマイを平ひげから巻上ひげに置き換え、精度をさらに高めたた製品だったということになる。

 

 

令和21219

 

『精工舎懐中時計図鑑』の新エンパイヤのページに興味深いことが書いてある。

 

   <この震災(関東大震災)により、創業時代を支えた一連の技術者が引退し、

     布施技師らキャリアを積んで力をつけてきた若手技術者が震災を機に世

代交代を行いました。>

 

ここには、新エンパイヤの設計者が布施義尚氏とは直接は書いていないが、その可能性を匂わせている。9型腕時計(モリス型)の設計者が布施氏であり、ムーブメントがそっくりなところを見ると、新エンパイヤも布施氏と考えられるのだ。

 

 

令和21212

 

 日本の腕時計の技術力を示す、気になる論文を見つけた。『産業活性化と地域システム : 諏訪地域の産業分析』(2017五味嗣夫)である。抜粋してみる

 

   <昭和 28 年(1953)完成の「男子用 10 2 針腕時計」は、業績急伸を牽引した製品で

     あったとはいうものの、実はスイスの腕時計のコピーであった。腕時計製造は戦前から

スイスの腕時計の模倣製造が当たり前で、自前で設計できる技術者などはおらず、また

製造も精度の低い部品を如何にうまく擦りあわせて組み立てるかに主眼が置かれ、組立

職人の技に依存していた。>

 

昭和28年でもこの状態だったことを考えると、戦前、しかも大正12年の時点での9型腕時計(モリス型)のレベルは推して知るべしというところだろうか。ましてや、そもそもモリス型と呼ばれているのだから。

 

 

令和2125

 

日本における腕時計については大正時代はまだ黎明期であって、9型腕時計(モリス型)も日本では最先端だったはずだ。技術的にかなり高度だったことが予想される。ところが、布施義尚氏の経歴から確認すると、精工舎に入社したのが大正2年、9型腕時計(モリス型)を設計したのが大正12年である。この大正12年には試作品までできていたことを考えると、何年か前から設計に取りかかっていたはずだ。すると、布施氏は入社してからそれほどたっていない時期から設計に取りかかっていたことになり、それは弱冠20歳代半ばということになるのではないか。

 

精工舎として技術を蓄積してきていたとはいえ、果たしてそれは可能だったのだろうか。そして、それは設計図に基づいた近代的な設計が導入されたからこそ可能になったのであり、入社間もない社員でも十分に可能だったのだろうか?

 

 

令和21128

 

布施義尚氏について、わかる範囲で整理してみる。

 

山形市郊外の山寺生まれ。大正23月に山形県立米沢工業を卒業。同年精工舎に入社。昭和14年第二精工舎の取締役工務部長だった布施から山崎久夫に腕時計ネイションの組み立てを誘う。山崎は昭和175月に諏訪に大和工業を設立。昭和19年には第二精工舎が諏訪に疎開し、以後、大和工業と第二精工舎諏訪工場は一体操業で運営。昭和34年に大和工業は、第二精工舎諏訪工場から事業を譲受され、諏訪精工舎となる。布施は常務取締役。

 

東京オリンピックでは公式時計の担当となったセイコーを諏訪精工舎が支援。布施は、東京オリンピック時の研究開発に貢献したとして昭和39年に科学技術功労賞を受賞。昭和40年には諏訪精工舎と子会社エプソンが合併してセイコーエプソンが誕生する。また、昭和42年には時計製造技術の発展向上に貢献した功績で、勲四等、旭日小綬章を授与されている。昭和51年逝去。

 

 セイコークォーツ腕時計、アストロン35SQを開発したのが諏訪精工舎(昭和44年)だったことを考えると、現在の日本の懐中時計と腕時計をはじめとする時計産業を支えてきた人と言っても過言ではなさそうだ。

 

 

令和21121

 

念のため、本家モリスの懐中時計のムーブメントを見ていると、驚くほど19セイコーと似ているものがある。いや、19セイコーがモリスの当時の懐中時計のムーブメントにそっくりなのだ。ということは、モリスのムーブメントが、まず9型腕時計(モリス型)と新エンパイヤの設計に参考にされて、その優秀さが実証されたことから19セイコーにも導入されたことになる。19セイコーの設計者についてはこれまでどこにも書かれておらず謎だったのだが、これで光が見えてくる。

 

9型腕時計(モリス型)については、『精工舎史話』に詳しく出ている。設計者は布施義尚氏と紹介されているのだ。この時計は、元は「グローリー」という名前で、大震災の前日に完成していた試作品が見本として提出されていたもので、この2個から復活させたというエピソードのなかで出てくるのだ。

 

 そこで、私は仮説として、19セイコーの設計者は布施義尚氏であると提案しておきたい。

 

 

令和21114

 

新エンパイヤは、大正1291日に起きた関東大震災で壊滅的な影響を受けた服部精工舎が、復興をかけて開発した機種と言われる。

 

そして、この新エンパイヤより半年ほど早く製造開始された9型腕時計(モリス型)という機種が、角穴車と丸穴車の位置が逆というだけで、新エンパイヤにそっくりのムーブメントなのだ。つまり、19セイコーにもそっくりということになる。この9型腕時計も、設計図に基づいた、製造工程を近代化した機種という点で新エンパイヤと共通しており、やはり服部精工舎が復興をかけた機種だったと言われる。

 

 

令和2118

 

19セイコーのムーブメントについては、ゼニスやウォルサムのものが似ているので、参考にしたのではないかという話はよく聞く。しかし、精工舎の数ある懐中時計のムーブメントを調べてみると、19セイコーと大変良く似た機種があることに気がつく。「新EMPIRE」(新エンパイア)の7石(四枠飾受付)だ。ブリッジの形だけでなく、テンプ周りや、角穴車と丸穴車、ビスの位置、石数までほぼ同じになっていることがわかる。

 

明治42年(1909年)に製造開始したいわゆるエンパイアとは異なり、この7石四枠飾受付の新エンパイアは大正14年(1925年)10月に製造を開始した機種で、設計図を基にした開発がなされていると紹介されている(『精工舎懐中時計図鑑』)。素材にもエリンバーが使用されているのが新しい。19セイコーはこの流れを汲んだ機種なのではないか。

 

 

令和2117

 

SR43SWについてもう少し調べてみると、こちらも現在は水銀を使っていないものが主流のようだ。電池については日々改良が重ねられていることがわかる。しかし、ここで疑問がわく。SR43SWが無水銀になったら、無水銀のSB-A8とどこが違うのだろうか? 2つは同じ? 実際はどうなのだろうか。

 

それからSB-A8のパッケージを見ると、SR43SWと互換性があることが大きく表示されていることがわかる。それは、SR43SWも同じだ。ということは、私が電池交換に持って行った時計店は、なぜ互換性のあるSB-A8を入れなかったのだろうか。電気製品は元々入っていた電池を入れるというのが原則だそうだが、はたしてそういった理由だったのだろうか?

 

 

令和21030

 

 75RWの電池は、規格ではSR43SWである。これはJIS規格の電池であり、酸化銀電池。酸化銀が用いられるためこの名称だが、亜鉛の表面を覆うために、微量ではあるが有害な水銀が使われている。そのため、無水銀電池が互換性のあるものとして登場した。特に時計用にセイコーインスツル株式会社(SII)が製造しているのがSB-A8であり、セイコーの純正電池として開発されたものだ。

 

1024日に書いた、電池を取り寄せることになったことについて、通常であれば、互換性のあるSB-A8を入れても差し支えないのではないかと思う。時計店にはSB-A8はあったはずだ。しかし、店にはSR43SWがなく、SB-A8が互換であることを知らなかったか、SB-A8よりもSR43SWの方が適していると考えたか、のどちらかになると思う。

 

果たして、交換された電池は、SR43SWだった。セイコー製品を多く扱う時計店であるので、知らなかったとは考えにくく、SR43SWの方が何某かの理由で適していると判断したのではないかと思うのである。

 

 

令和21024

 

クォーツ75RW7550-0010)も購入した。収蔵品のK後継機 クォーツのところに上げてあるのでぜひご覧になって頂きたい。

 

国鉄で最初に採用されたクォーツ鉄道時計として記憶されている。精工舎の最初のクォーツ鉄道時計38RWからの2代目だ。文字盤には38RWと同じ、水晶の結晶形状がデザインされたマークとその下には諏訪精工舎のマークがある。そのため、一見しただけでは75RW38RWは区別がつかない。

 

この75RWが電池切れを示す秒針の動きをしていたので時計店に持って行った。すぐに済むと思っていたら、電池を取り寄せるという。どうしてこのようなやりとりになったのか、次回に書こうと思う。

 

 

令和21017

 

先週とりあげた「Sマーク」については、戦後すぐの腕時計に多くつけられていることは気づいていた。しかし、体系的にまとめた資料は少なく困っていたが、下のことを詳しく記述しているHPを見つけた。かいつまんで紹介する。

 

 この「Sマーク」は、昭和21年(1946)の「新10A型」(第二精工舎諏訪工場)から始まり、「新10B型」(〃)、「スーパー」(〃)、「オートマチック」(第二精工舎亀戸工場)、「ユニーク」(〃)、「マーベル」(第二精工舎諏訪工場)、「クロノス」(第二精工舎亀戸工場)、ロードマーベル(第二精工舎諏訪工場)、「ローレル」(第二精工舎諏訪工場→亀戸工場)、「クラウン」(諏訪精工舎)、と続き、昭和34年(1959年)6月ごろまであしらわれたとしている。

<HP『唐獅子の時計を計るブログ』>

 

 この「Sマーク」は精工舎の頭文字をデザイン化したものであり、けっこう人気がある。しかも、精工舎の時計群のなかで戦後の一時期にしか使われていなかったことから、この時代を象徴するものになっている。そして、19セイコーの「Sマーク」の個体が製造された時期も、ちょうどこの時期に一致しているのだ。19セイコーの文字盤は、「Sマーク」だけでなく、全体の姿も上記の腕時計群によく似ているのが興味深い。

 

 

令和21010

 

 再開します。皆さん、いかがお過ごしでしたか。 最初に、購入した個体の紹介。

 

 戦後の一時期にだけ存在した出車式中三針の、珍しい個体を入手した。収蔵品のE出車式中三針のところに上げてあるのでぜひご覧になって頂きたい。

 

以前、蒐集仲間の方から譲って頂いた、珍しい個体を紹介した。当時、この種類の19セイコーの存在を知らなかった私は、どう位置付けたらいいのかかなり迷った。今回の個体も、それに似てはいるのだが細かいところが異なる。文字盤の数字は、24681012と金色のアプライドの偶数のみ。秒針は、他の出車式三針が赤い針なのに対して、これは時針・分針と同じく金色なのだ。

 

そして、SマークにSEIKOのみ。PRECISIONの表記はない。つまり、戦後のSUPERの文字盤にそっくりだ。これらの個体が鉄道時計ではなく、一般に市販された19セイコーである可能性が高くなったように思う。

 

 

令和244

 

 世の中はCOVID-19で大変な状況になりつつあります。

 

世の中が落ち着くまで、私自身の充電の期間として、休止します。

 

(時計や時間に関する記述は、子どもの自宅学習<主体的・対話的で深い学び>などに使えると思います。よろしければ使ってください。)

 

 

令和2330

 

 3/29について訂正。Diseaseは疾患という意味だそうで、COVID-19は新型コロナウイルスによる感染症と訳すのが正しいようです。だから、ウイルスそのものはSARS-CoV-2でいいようです。今朝、志村けんさんが亡くなったというニュースが入ってきました。ご冥福をお祈りします。

 

 

令和2329

 

COVID-19Coronavirus disease 2019の略だそうで、言わずと知れた新型コロナウイルスのことです。201911月に発生が確認され、1231日にWHOに報告されたから19年の19とついているのだそうです。

 

他方、国際ウイルス分類委員会 (ICTV)では、SARS-CoV-2と名づけています。こちらはSevere acute respiratory syndrome coronavirus 2 の略だそうです。つまり、SARSとあるように、サーズ、重症急性呼吸器症候群の姉妹系統ではあるが直接の子孫ではないことから、2番目のコロナウイルスということです。

 

 今や19と言えば、COVID-19のことを指すようで、このHPにとっていい感じがしません。個人的には、SARS-CoV-2

の方がいいなあ。

 

令和2326

 

初期型航空時計は自動車時計がベースになっているとされている。このベースという意味が今一つ不明なのが惜しい。どこまで一緒で、どこが違うのか。

 

 『精工舎懐中時計図鑑』の記述からレバー式が付加されたものが航空時計なのではないかと考えた。しかし、写真を見ると自動車時計の方にもレバーらしきものは写っている。ケースの形状も異なると書いてあるが、どこがどうちがうのかよくわからない。課題である。ヤフオクでは出品されている航空時計はたまに見るが、自動車時計はほとんど見ない。ネットにも自動車時計はほとんど見ない。大変残念である。

 

 

令和2315

 

ケースと言えば、海軍航空時計について興味深いことが『精工舎懐中時計図鑑』に出ている。海軍航空機のコックピットに嵌め込んでビスで留めるタイプになっているのだが、その素材が次のような紹介になっている。

 

   最初期:ブロンズ製

   前   期:真鍮製

   後  期:アルミ合金製

 

よく見るのは艶消しで黒い塗装がされたケースであり、遠くから写した写真で一見しただけでは、いったいどれなのかはっきりとはわからない。航空時計の最初期型は自動車時計をベースにしているとあり、このケースがブロンズ製。その後、前期・後期の航空時計が登場しており、それらも自動車時計と形がよく似ているが、ケースの素材は真鍮製とアルミ合金製になっている。

 

 

令和2223

 

19セイコーの金色ケースについては、私が把握しているものとしてもう1種類ある。それは、戦中の裏二重蓋15石の個体である。文字盤は戦後のブレゲ数字のPRECISIONと同じなのだが、ポーセリン製になっている。この個体は箱付きで、その箱に「精密時計」と彫られている。特別な時計であることは間違いなさそうだ。

 

この個体は裏蓋の刻印にNICKELとあるところから、金メッキや真鍮ではなく、ニッケルケースが何がしかの要因で変色したか、写真の色合いで金色に見えるだけという可能性もある。ただ、どの角度からとった写真でもすべて同じような金色に見えるのは面白い。

 

 

令和2215

 

 令和元年56日に、金色(真鍮または金メッキ製)のケースの19セイコーについて紹介した。この個体の文字盤は戦前の直立数字の瀬戸引き文字盤だった。

 

しかし、先日、同じような金色のケースの19セイコーがヤフオクに出品された。26日〜12日に出品された個体だ。ただ、この文字盤は戦後のもので、前期15石のSECOND SETTING DIAFLEXの金属文字盤だった。戦後前期15石は1960年(昭和35年)に発売開始だったのに、この個体についているフォブは1970年(昭和45年)の大阪万博のメダル。

 

このケースが純正であるなら、番号から19618月製造ということになる。この金色ケースの個体は、いったいどんな素性なのだろうか。興味は尽きない。

 

 

令和222

 

 12/21に取り上げたJAPAN表記について、明示されるようになったのが昭和30年(1955年)であれば、この年には何かがあったのではないだろうか。

 

この1955年は、実は、GATT(関税及び貿易に関する一般協定締約国団)に日本が加盟した年だった。GATTは自由・無差別・多角の3原則に基づいて自由貿易を推進しようとする貿易協定であり国際条約であり、現在のWHO(世界貿易機関)のことである。

 

 つまり、世界貿易に、戦後日本が復活したのだ。そして、19セイコーが輸出されるようになりJAPANを明記する必要があったか、1947年〜1952年に義務付けられた「Occupied Japan」(占領下の日本)を免除されたことの証しなのではないか、と考えるわけである。

 

 

令和2126

 

 1/19の@ABについて説明が必要なようだ。海軍航空時計はいずれも文字盤が大きく、19セイコーのケースにはそのままでは収まらない。他方、陸軍飛行時計は93式にしても100式にしても19セイコーのケースにそのまま収まる。

 

よって、陸軍飛行時計(93式・100式)は、文字盤もムーブメントも19セイコーのケースに換装したものがかなり出回っている。しかし、海軍航空時計は文字盤が換装されたものはなく、ムーブメントのみ換装されたのではないか、そして、それが11時にレバーのように見える個体なのではないか、ということなのである。

 

今のところ、その個体の文字盤は、戦後SEIKOSHA7石のみのようだ。もし、他の文字盤のものがあればチェックしておきたい。

 

 

令和2119

 

海軍航空時計について、1/12とは別のある方からメールをいただいた。19セイコーの、いわゆるレバー式の個体について、その方独自の見識を教えてくださった。その主張のポイントは次の3点だ。

 

 @戦後、陸軍飛行時計を19セイコーのケースに収めた個体がたくさん出回っているが、海軍航空時計はなぜないのか?  

 A海軍航空時計のムーブメントのみ換装した19セイコーが、19セイコーのレバー式なのではないか?

 B海軍航空時計には、いわゆる10時の位置のスライド式のレバーだけでなく、11時の位置にもレバーらしきものがある。

   これがAのレバーなのではないか?

 

詳細についてはその方が調査してまとめてくださることを期待したい。ただ、Aが正しいとしたら、19セイコーのレバー式は、19セイコーのケースに収めた陸軍飛行時計に比べて数が少ないのはなぜか? Bが正しいとしたら、19セイコーのレバーは、レバー式というよりもダボ式なのではないか? 等々、私はどちらも所蔵していないので、教えていただいたり、購入したりして、私もこの点について調べていきたいと思う。

 

 

令和2112

 

海上保安庁の「船舶通信懐中時計」の12/28に落札された個体とは別の個体がヤフオクに出品されていると、ある方がメールで知らせてくださった。この時期、私はメールを開いておらず全く気がつかなかった。落札額は36,000円で、出品者は同じだった。

 

写真ではあるが2つの個体をよく見ると、どちらも戦後SEIKOSHA7石。SECOND SETTINGでもDIAFLEXでもないので、おそらく昭和27年〜30年ごろのもの。そして、スモセコのインダイヤルはやはり白色。瀬戸引き文字盤ではなく、金属文字盤。時計の機構そのものはよくあるものだった。

 

 

令和2年1月1

 

先日の「海上保安庁」の19セイコーの文字盤は、昭和25年に制定された旧電波法第64条で定める「第一沈黙時間」が赤色、そして、「第二沈黙時間」(電波監理委員会規則)が緑色で着色されていたわけだ。船舶通信などで、モールス符号のSOSが、他の通信と混線しないように沈黙(無言)を守る義務があったのだ。ちなみに、周波数は第一沈黙時間は無線電信の485515kHzで、第二沈黙時間は無線電話の2182kHz(電波監理委員会規則)。この周波数を発射しないようにしていたそして、これを世界中に守らせるために、中央標準時に合わせた時計が使われた。この19セイコーは、第一沈黙時間の赤色はオーソドックスに2か所ペイントされているが、第二沈黙時間の緑色は03分のみで30分〜33分はない。元々、無線電話を使用しない船舶であればこの緑色のペイントはなく赤色のみであることと、旧電波法の条文の文言が「毎時六分をこえない範囲内」とあるのを見ると、03分だけでも良かったのだろう。

 

 ヤフオクの出品者は、この時計を「沈黙時計」と表記しているが、これは変えた方が良いだろう。この時計は、船舶通信(無線とは限らないようだ)で使用されていたことと、壁掛けのタイプもあったようなので、「船舶通信懐中時計」としてはどうだろうか。

 

 

令和元年1228

 

昨日12/27、ヤフオクで珍しい19セイコーが落札された。裏蓋に「海上保安庁」と刻印があり、文字盤は見慣れない赤2か所(15分〜18分、45分〜48分)と緑が1か所(0分〜3分)着色されている個体だった。そして、スモセコのインダイヤルは白。写真で見る限り金属文字盤のようだ。ムーブメントは、戦後SEIKOSHA7石。SECOND

SETTINGでもDIAFLEXでもないので、おそらく昭和27年〜30年ごろのものだろう。落札価格は74,501円だった。

 

 

令和元年1221

 

 19セイコーの文字盤の下にある表記で気になるのが「JAPAN」だ。キャリバーが明記されるようになったのは、125日の記載にある@91-0010Tだが、それ以前にこのJAPANが登場している。私が所蔵しているものでは、「SEIKOSHA PRECISION SECOND SETTING」からであり、つまり、昭和30以降となる。

 

 このJAPANについて、HP「今宵もジュークセイコーの夢をみる!」では、「取り替え用の文字盤と考えておる。」としている。91RWではそれは当てはまるのかもしれない。しかし、その前の、SECOND SETTING以降の 7石がほぼこのJAPANであるところを見ると、それは当てはまらないのではないか。

 

 

令和元年1215

 

ここでキャリバーについて少し整理しておきたい。

   @1915石       文字盤…91-0010T    裏蓋なし?

A1915石       文字盤…9119-0020T  裏蓋…9119-0020

B1915石       文字盤…9119-0030T  裏蓋…9119-0020

C2415石       文字盤…9119-0040T  裏蓋…9119-0030

D1915石       文字盤…91-0050T    裏蓋…91-0040

 

 前段=キャリバー、ハイフン、後段=ケースのバリエーション、とする指摘がある。これについては、ネットの書き込みを見るとマニアの間では認知されているようだ。文字盤やムーブメント、ケースは入れ替えられていることが珍しくないので、一致していないこともあるだろう。それは仕方ないものとしても、しかし、次のような疑問が湧いてくるのも事実だ。Bの文字盤はケース0030を示し、Cの裏蓋はケース0030を示している。後段がケースのバリエーションを表すのであれば、同じケースのはずである。ところが、Bのケースは19型であり、Cのケースは24型。同じであるはずはない。同じく、Cの文字盤はケース0040を示し、Dの裏蓋はケース0040を示している。これも、同じようにCは24型であり、Dは19型。これも同じはずはない。

 

 後段はケースのバリエーションを表しているのはない!? ここでは疑問の提示に留めておきたい。

 

 

令和元年128

 

2419セイコー交換時計・標準時計はもう1つある。それは、「SEIKOのみ スモセコは白 SECOND SETTING DIAFLEX 下にJAPANのみ」の個体で、裏蓋に刻印はなし。ムーブメントの写真がなく確認できなかったが、説明には15石とある。つまり、よく見る「SEIKO 15JEWELS スモセコは白 SECOND SETTING DIAFLEX」とムーブメントは同じなのに、「15JEWELSの表示がないことになる。そんなことがあるのだろうか?

 

1955年(昭和30年)       秒針規制装置(セコンドセッティング)採用

1957年(昭和32年)       DIAFLEX採用

1959年(昭和34年)       SEIKOSHA表記からSEIKOへ  →ここまでは7

1960年(昭和35年)       前期15石発売

1963年(昭和38年)       後期1591RW9119-0020T)発売

 

この個体の存在をそのまま信じると、当然1960年以降であり、よく見る15JEWELSあり」の個体よりも前で、19型の9119-0020Tよりも後まで製造されていたと考えられる。しかし、セールスポイントになるはずの「15JEWELS」の表記がないことについては何とも腑に落ちない。写真がないのが何とも残念だ。実際はどうなのだろうか。可能性の問題ではあるが、もし、ムーブメントが入れ替えられていて、オリジナルが7石だったとしたら、1959年以降という可能性が出てくる。

 

 

令和元年1130

 

私の確認している2419セイコー交換時計・標準時計の「SEIKOSHA スモセコが銀色」の個体は、裏蓋に逓信省の刻印がある。逓信省は、明治18年(1885年)12月〜昭和18年(1943)年11月と戦後の昭和21年(1946年)7月〜昭和24年(1949年)6月に存在した。

 

この個体は、スモセコが銀色であり、金属板の文字盤ということになる。19型の19セイコーで文字盤が金属板は戦中の後半に登場していると思われるのだが、スモセコが銀色のものは戦後になってからの登場だ。ということは、この個体は、戦後の逓信省の交換時計と推測するのが妥当だろう。

 

 

令和元年1123

 

令和元年922日のBに話を戻す。2419セイコーの交換時計・標準時計は、戦前SEIKOSHA〜戦後SEIKO 15SECOND SETTING DIAFLESの間に、24型の個体はあるのかということである。

 

 私が確認しているものは、次の2つである。

  ・文字盤上部がSEIKOSHAで、スモセコのインダイヤルが銀色、スモセコ上部に文字なし

  ・文字盤上部SEIKOで、スモセコのインダイヤルは白、スモセコ上部に文字なし

 

 19セイコーをもとにすると、ほかにも存在する可能性はある。

 

 

令和元年1110

 

例のK...の個体について関心を持たれた方がメールを送ってくださり、そのやり取りの結果、次のことがはっきりした。

 

ケースのシリアルナンバーから、ケースは5年末尾の年と特定できた。そして、キャリバー91-0010T は1963年以降であり、キャリバー91-0050T はそれよりも早いことはない。そして、それ以前で使えるオシドリのケースは1955年しかない。

 

つまり、K...の専用文字盤 + 91-0050Tのムーブメント + 15石後期(円柱の竜頭)のケース(たぶんK...の刻印入り)が元々の個体の形であり、お役目を終えて廃棄された後、なにかのルートで、元々の個体を入手した人が、15石前期のケース(刻印なし)に入れた。

 

いやいや納得です。ということで、11/2に推測したとおりということでよかったわけだ。そして、残念ながら11/3のようなオリジナルという可能性はない、ということだった。

 

 

令和元年119

 

この「91-」と「9119-」に関しては、情報が少なすぎてはっきりしないが、これらのうち、「-0010T」〜「-0050T」を整理してみた。すると、すべて戦後SEIKO15石「後期」(竜頭が円柱)か戦後SEIKO15石「24型」(大型)のものとわかる。

 

@「91-0010T」は、スモセコが白く、その上にはDIAFLEXのみ文字盤

 

A「9119-0020T」は、スモセコが白く、やはりその上にSECOND SETTING DIAFLEX

載の文字盤。これは、前期(竜頭の頂が扁平)のものも見る(本HP収蔵品)。

 

B「9119-0030T」は、スモセコは白と黄色に10秒ごとに塗り分けられ、その上に-

SECOND SETTING DIAFLEX記載の文字盤。いわゆる交換時計。

 

C「9119-0040T」は、24型でスモセコが白く、その上にSECOND SETTING DIAFLEX

記載の文字盤。

 

D「91-0050T」は、先日紹介した、K..Rの専用文字盤とされるゴシックの白抜きで、

スモセコは白く、その上にはDIAFLEXのみ文字盤。これは、前期(竜頭の頂が扁平)

のものも見る(本HP収蔵品)。

 

これだけを勘案すると、概ねつぎのようなことが言えるのではないか。戦後SEIKO15石の「後期」(竜頭が円柱)あるいは2415石に限って言えば、DIAFLEXのみは「91-」、SECOND SETTING DIAFLEXは、「9119-」。

 

 

令和元年113

 

 ここで疑問に思うのは、112日で紹介した【 K..Rの専用干支 】というのは本当か、ということである。残念ながら、HP『今宵もジュークセイコーの夢をみる!』の記述には、出典・根拠が示されていない。

 

実は、入手した個体のケースの状態があまり良くない。交換するならもっと状態の良いものにしたのではないか、キャリバーの91-」と「9119-は本当に同じであるのか、という疑問がわく。もし、「91-」と「9119-」が同じものであるなら、なぜ表記が異なるのか理由がほしいところである。もし、別物ということであれば、それぞれ「91-」が前期、「9119-」が後期という可能性も出てくる。そうなると、ひょっとしたらこの個体もオリジナルである可能性が出てくる。この文字盤は、K...専用干支ではなく、一般販売された19セイコーだった、ということだ。すると、戦後SEIKO15石「前期」となる。

 

根拠があるわけではないので、あくまで可能性のレベルとして掲載しておくとして、今後の議論を期待したい。そこで、収蔵品のページとしては、期待を込めて<戦後SEIKO15石「前期」>の方に掲載しておこうと思う。

 

 

令和元年112

 

 1023日に紹介した個体について、竜頭の頂が扁平であり、ケースが戦後SEIKO15石「前期」のものであるにもかかわらず、なぜ、戦後SEIKO15石「後期」としたか。これについて記述しておく必要がある。その理由は、HP『今宵もジュークセイコーの夢をみる!』の記述による。このHPでは【 K..Rの専用干支 】としているからである。

 

専用であるなら、この個体はK...が発足した19639月以降のものでなければならない。これは絶対だ。他方、後期1591RW9119-0020T)は同じく1963年である。販売開始の月がはっきりしないが、前期が11月まで販売されていれば、この個体が前期のものであるという可能性はあった。

 

ところが、キャリバーが、この個体もHP『今宵もジュークセイコーの夢をみる!』の個体も、同じく「91-0050T」。241591RW9119-0040T)の販売開始が1964年。キャリバーの「91-」と「9119-」が同じであるということであれば、「91-0050T」がそれよりも早いとは考えにくい。しかも、ケースの裏蓋には、K...の刻印がない。

 

ということであれば、この個体は「後期」「K...」のものであるが、何かの理由で「前期」「刻印なし」のケースに交換されたもの、と考えるのが順当なところではないかと考えられるわけである。

 

 

令和元年1023

 

戦後SEIKO15石後期の興味深い個体を入手した。よく見るブレゲ数字のものではなく、ゴシック数字の中抜きである。その内側には赤いゴシック数字で24時間表示となっている。本HPの収蔵品のところにアップしているのでご覧になっていただきたい。

 

HP『今宵もジュークセイコーの夢をみる!』によく似た個体が紹介されており、韓国交通部鉄道庁...)の専用干支と説明している。入手した個体は、文字盤の下の「JAPAN 91-0050T」という表示まで同じである。ただ、ケースが異なる。K...のケースは15石後期の竜頭が円柱形のものだが、入手した個体のケースは15石前期の頂が扁平であり、裏蓋にK...の刻印はない。

 

この個体の素性についてもう少し情報がほしいところだ。

 

 

令和元年1019

 

1013日に書いた、24型のsecond setting機構(秒針規制機構)をもった15石は、コートドジュネーブのあるムーブメントと書いたが、コートドジュネーブのないムーブメントもある。

 

ムーブメントはどちらも91RWというのは通常の19セイコーと同じ。コートドジュネーブのある方は、ムーブメントのブリッジに、SEIKOSHA 15JEWELS という刻印のみだが、コートドジュネーブのない方は、SEIKO 15JEWELS JAPAN 9119Aとの刻印となっている。

 

 

令和元年1013

 

通常の19セイコーのsecond setting機構(秒針規制機構)の登場は昭和30年(1955年)であり、15石が登場するのは昭和35年(1960年)である。second setting機構であり、15石でもある91RWの個体は、昭和35年(1960)年のものを確認している。

 

よって、24型のsecond setting機構(秒針規制機構)をもった15も、昭和35年(1960年)か、それ以降である可能性が高い。この24型のムーブメントはコートドジュネーブが施されており、通常の19セイコーの前期15石と同じであり、91RWがそのまま使われているからだ。

 

 

令和元年930

 

戦前の24型は、交換時計だと逓信省の刻印があり、時計店の標準時計だと刻印がない。そして、それらはヤフオクを見てみると7石のものが多い。しかし、15石の出品もある。そして、それらにシャトン(石留め)があれば、間違いなく戦前のものある。

 

しかも、それら15石のムーブメントの中には、金色のシャトンのものがあり、番号も4桁でも若い番号がついているものがある。ということは、24型の15石の個体も、割と早くから登場したことが考えられる。

 

 

令和元年922

 

ここでは、逓信省で使用した交換時計や時計店などで使用した標準時計について触れてみたい。『精工舎懐中時計図鑑』では、交換時計・標準時計7石ととれるような書き方になっている。大雑把に言うと、昭和5年に登場した後、戦後しばらくしてsecond setting機構とともに15石が登場しており、広く出回っている。

 

 そこで、いくつか疑問が湧く。

@戦前は15石はあったのか。

A戦後のsecond setting機構の15石はいつ登場したのか。

B Aが登場するまでの間は24型はあったのか。

C Aがあったとすれば、7石だったのか。15石だったのか。

 

 

令和元年915

 

陸軍の精密時計については、もう1つ重要な疑問がある。 『精工舎懐中時計図鑑』にはこうある。

 

  「裏蓋の甲板時計乙の刻印は消されたものが多い。現存品は終戦後に兵器として米軍への

   引き渡しを免れ、刻印を消し違法に持ち出し、…」

 

陸軍の精密時計は、海軍の甲板時計と用途は同じであるのに、甲板時計の刻印は消され、精密時計の「陸軍」の刻印はこんなにたくさん残っているのは、なぜか。アメリカ軍の常識であれば、陸軍が軍艦をもっているはずがない、という先入観が助けたのだろうか。

 

 

令和元年826

 

用途は同じで、海軍の甲板時計が15石しかないとすると、なぜ陸軍の精密時計に7石がたくさんあるのかという疑問がわく。そこでここでは、あくまでこういった可能性があるという指摘を書いておきたい。

 

注意したいことは、文字盤に7石と15石を区別する表記がなく、これは24型も含めて、戦前の19セイコーに共通しているということだ。しかも、24型の側(ケース)は、戦後は一般販売が多かったらしく、数が結構ある(戦前もあったかもしれない)。それらの側は刻印がない。ということは、裏蓋の「陸軍」という刻印を新しく入れることはたいして難しくないし、ムーブメントは戦前のものであっても通常の19セイコーであるので、数は多いし交換も簡単である。ヤフオクに出てくる24型の陸軍精密時計については、7石であった場合はこのことについて十分注意したいところだ。

 

 

令和元年816

 

陸軍の精密時計の用途は、海軍の甲板時計と同じである。つまり、航法用であるので、陸軍の艦船に積み込まれ、天体を観測するものとして使用されたとある(『精工舎懐中時計図鑑』)。あまり知られていないが、陸軍も空母などの軍艦や艦船も保有していたので、海軍と同じく航海するための時計をつくらせていたのだ。それぐらい陸軍と海軍は仲が悪かったとも言える。

 

ところが、「天測時計の方が主として使用されたので、軍の交付申請記録は少ない。」とある。

 

天測時計とは、精工舎製の出車式中三針の腕時計のことである。ムーブメントは19セイコーの15石。問題は、交付申請記録が少ないというところである。ところが、ヤフオク等を見ていると、この陸軍と刻印された24型の19セイコーがかなり多い。しかも、その多くが7石。そこで、次に注意すべきことを書いてみたい。 

 

 

令和元年810

 

甲板時計は、海軍の船舶、その多くは軍艦だったと思われるが、航海に必要な計器として使用された。軍用であったため、航海兵器と呼んでいたようだ。海軍の軍艦が装備していた時計は、この甲板時計と、経線儀(マリンクロノメーター)があった。

 

経線儀は、正確な経度を知るための時計のことである。そのためには、条件の厳しい海上でも正確に作動するマリンクロノメーターと呼ばれる時計が必要で、経過時間を確認し、母港と船上の時差を正確に測定する必要があったのだ(SEIKO MUSEUM)。この時計は、精工舎によって約500個製造されたとか。スイスのナルダン製を基に、昭和17年から製造しているので、それまでに建造された軍艦はナルダン製をはじめ外国製の経線儀が装備されていたはずである。この精工舎製経線儀は大変正確で、日差0.1秒を記録したとか。

 

それに対して、この甲板時計は、同じ精工舎製ながら、ムーブメントは19セイコーであり、715日でも触れたとおり日差3秒に特別調整されたものだった。『精工舎懐中時計図鑑』によれば、使用目的は経線儀と同じだったが、経線儀は船舶に固定されていたのに対し、この甲板時計は箱から出して持ち運びすることも可能だったため、航海士によって酷使されたとある。経線儀ほどでないにしても正確さが担保されていないと使用できないため、この時計は15石だったと考えられるのである。

 

 

令和元年84

 

24型について、前回、箱の違いについて書いたが、時計本体に関しては不明な点がある。『精工舎懐中時計図鑑』を見ると、交換時計・標準時計(時計店などで使用)7石、軍用は15石のように分けて書いてある。これが意図的なものかどうかがよくわからないのだ。

 

HPTIMEKEEPER』では、「軍用の機械は7石と15石の二つのタイプが存在したようです」と書いており、交換時計も同様のように記している。つまり、推測と断りつつ、24型は、軍用も、交換時計も、7石と15石どちらも存在したように書いてある。

 

とあるHPでは、「軍用に用いられている19型の機械で最も多く見られるのは7石型で、時折15石のものが確認できます。ただし、15石型が確認できるのは精密時計でも少数で、懐中型や計器時計も含めて通常は7石のものが使用されていました。これは、7石型と15石型では当時の市販価格でもおよそ1.5倍ほどの差があり、また、通常は整備や補給を考え仕様を統一する必要があることからこのようになったのではないかと思われます。」と、断言している。いやいや、むしろ、7石の方が多かったと記しているのだ。

 

ただ、気になるのは、浅学ながら私は、海軍の甲板時計については15石しか見たことがない。念のためネットで検索をかけてみても、甲板時計では7石は出てこない。これはどう考えたらいいのだろうか。

 

令和元年720

 

24型の19セイコーは特別な時計だった。それを示すものが木箱である。これら24型の19セイコーは木製の箱に収められていたのだ。それら箱に共通していのは、蓋が二重になっていて、中蓋の方が斜めに上げて角度をつけ、時計を見やすくするようになっている。

 

しかし、これらの時計の木箱には微妙な違いがある。逓信省などの交換時計の木箱はフックのみで蓋を閉めるようになっている。しかし、海軍甲板時計の木箱は押しボタン式で、鍵がかかるようになっていた。もちろん、鍵がかかる方が格が上ということだろう。オークションでは、箱のないものもエントリーされるが、一般に箱付きの方が落札価格が高い。

 

 

令和元年715

 

19セイコーの精度の確かさを証明するのが、19型の側ではなく、むしろ24型の側であるところも興味深い。19型のムーブメントで24型の側を駆動するのは負担がかかるはずなのに、である。

 

24型の側は、逓信省や電電公社などの電話交換機用時計(交換時計)・陸軍の精密時計・海軍の甲板時計が挙げられる。特に、海軍の甲板時計については、『精工舎懐中時計図鑑』によれば、15石で日差3秒以内に特別調整されたとしているのである。乱暴な計算ではあるが、これは週差21秒以内となり、アメリカ鉄道時計のボール氏の基準(レイルロード・ウォッチ・アプルーブド基準)を軽くクリアする。

 

 

令和元年76

 

24型であっても19セイコーと呼ばれるのは理由がある。それはムーブメントが19型だからだ。言い換えれば、19型のムーブメントであるから19セイコーと呼ぶのであり、24型の側であってもそれは変わらない。

 

しかし、19型のムーブメントで大きな24型の側を制御するには、当然のことながらムーブメントに負担がかかる。例えば、時針・分針は19型の側よりも長く、太く、重い。24型のムーブメントを使うのが本来の対応であろうに、19型のムーブメントのトルクでそれを克服しているのだ。これは精工舎の自信なのか、何かの事情があったのか、興味が尽きない。

 

 

令和元年629

 

懐中時計のなかにゴリアテGoliath(巨人)と呼ばれる大きな時計の一群がある。ゴリアテとは旧約聖書サムエル記に登場する巨人戦士のこと。身長が約2.9mだったという。少年ダビデが投石機でやっつける逸話として有名。

 

懐中時計についていうと、直径が6cm以上のものを言うらしい。ただ、これは通称であり、根拠となるような基準は残念ながら今のところ見つけることができない。19セイコーの24型は正確には若干足りないのだが、ゴリアテと言っても差し支えなさそうな大きさではある。確かにポケットに入れるには大きすぎるきらいがあり、重さも約160gと半端ではない。24型といっても大きさがピンとこないが、ゴリアテと言われるとちょっと面白い。

 

 

令和元年622

 

セイコーミュージアムの冒頭にある19セイコーの写真の時計は、いわゆる鉄道時計に指定されてからのものだ。19セイコーのなかでも鉄道時計としての初号機と呼ぶにふさわしい。以後、精工舎や時計師の間では、19セイコー=鉄道時計となった。また、ケースも19セイコーのなかでは独特のもので、登場当初にしか使われていない玉葱型竜頭を搭載していて、このケースの採用期間は大変短い。そういった意味で、アンティーク時計のような雰囲気を醸し出していて、大変意義深い個体ということになる。

 

 

令和元年526

 

セイコー社が開設している「セイコーミュージアムSEIKO MUSEUM」のトップ・ページの冒頭の写真が、「19セイコー」であることをご存知だろうか。セイコー社を思い浮かべる時計としては、機械遺産に指定されているローレル、グランド・セイコー、クォーツ・アストロンなどもあるにもかかわらず、だ。

 

セイコーミュージアムのテーマは、「時を学ぼう」となっている。しかし、セイコーの製品の歴史も紹介している企業博物館の性格が強いことを考えると、セイコー社が「19セイコー」を同社の顔としてふさわしいととらえているのは間違いないだろう。

 

 

令和元年515

 

ヨツバネは、19セイコーでは戦後オシドリという部品に取って代わられた。このオシドリは英語では何というのだろうか。直訳すると、mandarin duckだが、これは本物の鴛鴦(おしどり)のこと。

 

時計の部品であるオシドリは、setting lever springという。鴛鴦に似ているからオシドリと、日本人が翻訳したようだ。他方、いわゆる時刻合わせの方式である剣引き(レバー式時刻合わせ)はレバーセットlever setという。よく知らないと混同してしまいそうだ。

 

 

令和元年512

 

19セイコーのケースと言えば、戦前のものは、ヨツバネの不具合に困っている人も少なくないと思われる。このヨツバネは、その形状から「四つバネ」などとも書かれている。これは四つに分かれたバネになっているからだろう。

 

では、英語ではfour springsなどと書くのかと思えば、これは全く見当違い。stem's sleeve of watchと出てくることが多く、ズバリ「sleeve」と書く。ヨツバネを外す器具は「スリーブ・レンチsleeve wrench」となる。アメリカでは、ヨツバネは結構取引されているようだ。

 

あるHPを見ると次のようにあるのを見つけた。「アメリカの懐中時計ケースのヨツバネ。 エルジンのヨツバネは通常、イリノイ、キーストーン、ノース・アメリカン、スター、ウエスタンの各ケース会社で使用されていました。ウォルサムのヨツバネは、通常、CrescentFahysRoySolidarityWadsworthの各ケース会社で使用されていました。」 何かのお役に立てればと思う。

 

 

令和元年56

 

 金色の19セイコーは、HPCocoon Watch」にも紹介されている。こちらは戦前の直立数字の瀬戸引き文字盤で、裏には「昭和拾7年 華中鉄道」の刻印がある。記事には、「真鍮または金メッキ製」とあり、管理者にも確信はないようだ。ただ、真鍮にしても金メッキにしても、実際に現場で使用された19セイコーとしては大変に珍しい個体ということになる。

 

 刻印にある華中鉄道は、日中戦争で日本が占領した地域だった上海、南京のあたりで運営していた鉄道会社で、日本の国策会社だった。本社は上海。1939年設立で終戦まで運用した。陸軍の鉄道連隊である山田部隊が、国民政府によって破壊された施設や蒸気機関車の修復をしたことから、満鉄ではなく鉄道省の統制を直接受けていた。

 

 

平成31430

 

 19セイコーには金側(金のケース)のものがある。私が把握しているものは、後期15石でコートドジュネーブが施されていないムーブメントのもので、筐体の見た目もまったく同じ。ケースの材質はYGとなっているので、イエローゴールドであり、金の含有は18Kとなる。銀と銅を混ぜ、黄色が強く出るようにした金合金ということになる。ただ、これが金無垢なのか、それとも金張り、金メッキなのかはわからない。

 

 1972年製とのことから、昭和47年ということになる。19セイコーは1971年(昭和46年)で製造が打ち切られているため、この個体は何かの記念に製作されたもののようだ。よく見ると、文字盤は、スモセコのインダイヤル部分も含めて全体が薄い金色。数字は黒。時針・分針・秒針は金色であるので、ケースと同じくYGなのではないか。

 

 

平成31年420

 

 では、戦後SEIKOSHA7石のレバーセットは、俎上にのせられたにもかかわらず、なぜ続かなかったのだろうか。

 

1つは、レバーセットの形状にあるのではないか。アメリカ鉄道時計のように文字盤側のフタを外さなくても操作できるようにしたことが逆にアダとなったようだ。レバーがカバーの隙間から出ているため、ムーブメントにホコリなどが入りやすいだろうし、水分も入りやすかったことが考えられる。これではムーブメントが痛んだり、錆びたりしやすかったのではないか。

 

もう1つは、当時はすでにオシドリなる部品が使われ始め、ペンダントセットで乗り切る見通しができつつあったのではないか。逆に言えば、精工舎がレバーセットを検討するほど、ヨツバネという部品が鉄道時計にとって不都合だったのだろうということだ。ヨツバネからオシドリに変わっていく過渡期に出現したのが、レバーセットだったと考えられるのだ。

 

 

平成31年413

 

レバーセットの19セイコーは、実はもう1種類あることがマニアの間では知られている。海軍の航空時計だ。『精工舎懐中時計図鑑』の143頁にレバー操作についての記述がある。

 

10時側面のレバーを下方にスライドさせてから竜頭を回しセットする」

 

46日に記述した戦後のレバーセット式19セイコー(以後、戦後式)と異なる点が2つある。1つはレバーが10時の位置にあるということ。もう1つはスライド式であるということだ。1つ目のレバーの位置は、けっこう大きな相違点と思うがどうだろうか。また、戦後式はレバーの先が曲がっていて引き出し式なのに対し、航空時計はスライド式。これも大きな相違点のはずである。航空時計は計器板に固定していたからこそ使用可能なスライド式ということになる。落下傘紐で首から吊るしての使用もされたようではあるが、正確な時刻を表示できたのだろうか。

 

これらのことから、この2つは同じレバーセット式と言っても、ムーブメントは別物と思われる。よって、戦後式は、航空時計のムーブメントをそっくりそのまま入れたのではなく、精工舎がそれ専用に製作した個体と言えるのではないか。そして、注意したいのは、戦後式は、その文字盤の特徴から終戦直後のものではなく、もうしばらくしてからの昭和30年ごろの戦後SEIKOSHA7石であり、開発する時間はあったはずということである。精工舎が、戦後、レバー式も俎上にのせて検討していた痕跡なのではないかと思うわけである。

 

 

平成31年46

 

終戦直後から少し後のSEIKOSHA7石で、興味深い個体をヤフオクで見た。「レバーセット」の19セイコーだ。19セイコーは「ペンダントセット」が基本であり、変わり種と言って差し支えない。

 

文字盤は白く、スモセコの下地は銀色、ブレゲ数字のあるタイプで、いわゆる戦後SEIKOSHA7石。ムーブメントも戦後7石のもので間違いないようだ。ところが、カバーの外の11時側にレバーがあるのだ。アメリカ鉄道時計のレバーは文字盤側のカバーを外してレバーを引き上げて操作するようになっているが、この19セイコーはカバーを外さなくていいようだ。しかも、説明を読むと、レバーとして機能しているらしい。

 

ムーブメント全体を入れ替えているなら簡単だが、19セイコーのムーブメントを個人的に改造していたら、これは大変な手間と技術が必要だ。わざわざそんなものをつくるとは思えないことから、これは本物と思うがどうだろうか。

 

 

平成31年331

 

 327日で紹介した「コレクター仲間の収蔵品」に掲載していた個体については、このオーナーとはこれまでにも色々と情報のやり取りをさせていただいてきた。時計一般に詳しく、示唆に富む指摘で随分と刺激されてきているのだが、今回、所蔵しているもう1つの個体を譲っていただけることになった。早速このHPの「出車式中三針」に掲載したのでご覧いただきたい。

 

手元に置いて改めて眺めてみると、見れば見るほどほかの19セイコーとは雰囲気が異なることがわかる。筐体の大きさ、ムーブメントは間違いなく19セイコーのもの。しかし、このアプライドでしつらえた立体的な数字の文字盤が、終戦直後のSマークの一連の腕時計、スーパーやユニーク、マーベルに似ているのだ。

 

 

平成31年327

 

一般販売があったことを裏付けられそうなのが、本HPの「コレクター仲間の収蔵品」で掲載している個体だ。ムーブメントは間違いなく19セイコーだ。しかし、文字盤は鉄道時計の要件を全く満たしていない。数字が飛んでおり、その数字も色が金色でアプライド。黒色ではない。しかも、所有していたのは、鉄道関係者ではなく、鉱山の関係者だったことがわかっている。

 

性能の良い時計は、鉄道関係者でなくても必要だったはずだ。しかも、文字盤などは、それぞれの職業や仕事の特性,購入者の社会的階層などを勘案して製作したと考えると、バリエーションが豊富だったことの説明も可能のような気がする。

 

 

平成31年323

 

 19セイコーには一部不思議な製品群があることが知られている。終戦直後の7石だ。時針用の数字が偶数しなかいもの、36912しかないもの、数字が黒色でないもの、文字盤の色が白色でないもの、があるのだ。ムーブメントは間違いなく19セイコーだ。しかし、これでは文字盤が鉄道時計の要件を満たしていない。いわゆるレイルロード・ウォッチ・ダイヤルではないのだ。ずっと謎としか言いようのない状態だった。

 

つまり、これら製品群は、19セイコーではあっても、厳密には鉄道時計ではない。であれば、その用途は鉄道以外、もっと言えば、一般向けなのではないか。そこで思いつくのが、イリノイなどアメリカ鉄道時計のメーカーが一般販売用として製造していたプライベートブランド(レーベル)である。プライベートブランドも、ムーブメントは鉄道時計そのものなのだが、ハンターケースだったり、竜頭の位置が3時だったりしてもいいわけだ。

 

鉄道時計の要件を満たさない19セイコーは、鉄道時計としてではなく、一般向け販売用だったのではないか、と推測するわけである。そう考えると、数字が飛んでいたり、黒くなかったり、文字盤が白くなかったり、することにも合点がいくのだ。

 

 

平成31年321

 

文字盤と言えば、いわゆる鉄道時計のものは何というのだろうか。あまりにも当たり前すぎるのか、日本ではこの名前について特に記述しているHPをあまり見ない。せいぜいが、ボール氏の定めた基準のアラビア数字が出てくるぐらいだ。

 

 しかし、海外のコレクターは、明確にレイルロード・ウォッチ・ダイヤルと表現している。

たとえば…、

  「鉄道時計のもう一つの象徴的な特徴は、大きくて太く黒いアラビア数字と、太いしっかりした針、

非常に対照的な白いエナメル文字盤です。 この機能により、特徴的で機能的な鉄道の時計を

美しく見せながら、可能な限り明確で簡単な時間を伝えることができました。 多くの人は、レイ

ルロード・ウォッチ・ダイヤルが当時の最も美しい時計の顔の一部であることに同意するでしょう。」

などと紹介している。

 

 戦前の19セイコーは、この基準にぴったり合致した文字盤になっている。

 

 

平成31年316

 

 鉄道時計の文字盤と言えば、日本初の鉄道時計として承認を受けたウォルサムのクレセントストリートは、「ローマ数字」である。しかも、国(鉄道作業局)による採用年は、1897年(明治30年)とされている。

 

 しかし、ボールが定めた鉄道時計の基準は1893年である。このときにはすでにアラビア数字が指定されている。これは一体どういうことか。確かに、アメリカでも1900年代初頭までは、ある程度の許容範囲が認められていたようである。また、ボールの基準をすべての鉄道会社が採用したわけでもない。だが、19セイコーが明らかにボールの基準を意識して、登場当初からアラビア数字を採用していたことを考えると違和感は残るのである。

 

 そこで考えられるのが、幕末から明治初頭の小銃(ライフル)と同じようなことが起きていたのではないか、ということである。アメリカではすでに時代遅れになった7石の鉄道時計が、日本に採用され流れ込んできたのではないかということだ。アメリカ側は厳しくなる一方の鉄道時計の基準にはそぐわなくなった製品の在庫一掃のチャンスであり、日本側からすると良質なアメリカ時計が安く入手できるという利点があり、両者の利害が一致したのではないかと思うわけである。

 

 

平成31年310

 

 鉄道時計の文字盤には、カナダ鉄道文字盤Canadian Railroad dialというものもある。時針用として、外側に112、内側に1324が表示されている。いわゆる24時間表記の文字盤のことである。カナダは鉄道が張り巡らされており、大陸の広大な範囲の時刻を表示するために考案された。

 

 19セイコーにもこのカナダ鉄道文字盤が採用された時代があった。戦前の外地仕様がそれだ。主に満州から中国のあたりの鉄道に採用されたようだ。この文字盤は瀬戸引きでもあり白く美しく、マニアの間では人気がある。

 

 カナダ鉄道文字盤は、モンゴメリー文字盤に加えてこの24時間表記にしているものもある。また、逆カナダ鉄道文字盤ともいうべき、外側は1314、内側に112が表示された文字盤も存在する。アメリカやカナダのマニアの間では、Canadianを逆さまにして、Naidanacナイダナックなどと呼ぶことを提案している人もいる。

 

 

平成31年32

 

 19セイコーの戦前の文字盤は、終戦間際の一部のブレゲ数字を除けば、すべて直立した数字になっている。しかし、よく見ると、この直立数字にもいくつか種類があることがわかる。

 

@開発・製造当初の数字は、直立の明朝体に似た形が基本となっている。この数字の形は、当時のエルジンやウォルサムによく似たものがあるところから、精工舎が参考にしたものと思われる。数字が大きく、大変見やすい。

 

Aそして、すぐにRAILWAY WATCHが登場する。この時計は、独特の角ばった太いゴシック数字となっている。しかし、この数字はRAILWAY WATCHに限定されたものだった。

 

Bその後、外地仕様として、@と同じく直立した数字ではあるが、一回り小さいものが登場する。これには、いくつか特徴がある。一番目立つのは7であり、下への線が大きく反り返って、下の部分が右上に大きく跳ねている。あとは、4と12だろうか。4は左下への線がまっすぐになり、12の最後の跳ねが右上になっている。

 

Cそして、Bのなかの満鉄の瀬戸引き文字盤などに見られるもので、「11」の線の間が若干広くなっているものがある。

 

Dさらに、飛行時計等は、24型19セイコーの文字盤とほぼ同じで、丸っこいゴシック数字になっている。

 

 

平成31年223

 

時計師として名高い井上信夫氏が、次のように述べている。

 

「モ ントゴメリー式文字板として知られているものは、文字幅の周囲に 1つ1つ分の数字が入っている

ものである。この式の文字板を.もった時計が或る鉄道には使用されていたが、ボール氏は、この式

の文字面は混同をおこしやすいものとして、これに賛成しなかった。」

 

 ここにいうモントゴメリー式文字板は、現在はモンゴメリー文字盤と表記していることが多い。正式には、「マージナル・ミニッツ・ダイアル」という。鉄道時計マニアのなかでは大変人気が高く、ここにあるように一般には分表示がすべて数字になっているものをいい、その細かな表示から豪華さを演出している。実際には、分表示の数字が上を向いていて、5分ごとの数字が若干大きい、時表示の6が表示されている、という特徴を備えているものをいうようだ。

 

 モンゴメリー文字盤は鉄道時計の王道のように言われることがあるが、アメリカのサンタフェ鉄道の時計検査官である

ヘンリー・S・モンゴトメリーによって考案されたもののみということになり、実際には似てはいるがモンゴメリー文字盤ではない文字盤も出回っていたようだ。ボール氏はこれに賛成していなかったことがわかる。ボール氏が推奨したのがファーガソン文字盤で、5ごとの分表示の数字が大きく、時表示がその内側に一回り小さな数字で表示してあるものだった。

 

こうやって見てくると、一口に鉄道時計とは言っても、文字盤でさえ様々なバリエーションがあったことがわかる。19セイコーはこのどちらも採用していないのはご承知のとおり。精工舎も開発時に検討をしたはずだが、アラビア数字の時表示のみで、時表示の6はなし。分表示は1分ごとに|と5分ごとに▼かのみ(戦後は)とする、もっとも基本的な鉄道時計の文字盤を採用したことになる。

 

 

平成31年216

 

昭和27年の瀬戸引き文字盤については、すでに14日の所で述べた。この個体は、当然のことながらスモセコ部分も白く、戦後の19セイコー7石と並べてみても全体に白さが際立っている。スモセコが白い19セイコーは、15石が出てくるまでこれ以外になく、他は銀色というのがこれまでの通説だったと思う。

 

ところが、ヤフオクを注意深く見ていると、スモセコ部分が白い個体が他にもあることに気づく。瀬戸引き文字盤の個体とほぼ同じ風防のSEIKOSHA PRECISION 7石だ。しかし、文字盤は、表面の傷などを見ると金属であることがわかるのだ。スモセコも金属文字盤と同じく、同心円状の筋が見て取れる。リペアしているようには見えない。

 

戦後7石の個体のなかには、スモセコが白いものがもう一種類あり、しかもそれは、金属文字盤のものがあると言ってよいのではないだろうか。

 

 

平成31年123

 

先日、甲板時計が大変な高額で落札されていた。その価格、実に296,000円だった。一般に19セイコーはアメリカのいわゆる鉄道時計に比べると割安という扱いをされているが、このオークションでは19セイコーのなかにも高額で取引される個体があることが証明されたと言っていい。

 

この甲板時計は15石で、時計本体の程度もかなりよかった。しかも箱付きで、広島呉海軍使用と謳っているところを見ると、時計ファンだけでなく軍用ファンの心もくすぐったことが予想される。

 

 

平成31年112

 

昭和21年に第二精工舎の月産が4800個だったが、その多くをこの19セイコーが占めていた。第二精工舎の井上三郎氏は、「昭和21年、22年、23年あたりは、桐生で作っていた19型鉄道時計で第二精工舎が飯を食っていたという状態でございました」と述べている。それを可能にしたのが、生産設備を桐生に移した「疎開」だった。昭和19年から激しくなった空襲にも焼けず、戦争が終わってからすぐに生産に乗り出すことができたのだ。

 

瀬戸引きの文字盤が登場したのが昭和27年であり、戦時設計の一応の終了ととらえると、これが精工舎の復興を示すということになる。となると、この「疎開」は、終戦直後に第二精工舎が19セイコーに助けられたということだけでなく、復興を早めたという点でも天祐だったといえるのでないか。

 

 

平成31年14

 

 戦後、金属文字盤が続くわけだが、例外がある。昭和27年の瀬戸引き文字盤だ。瀬戸引き文字盤は、金属文字盤よりもきれいで、現在、マニアには人気が高く、当時も歓迎されたのではないかと推測する。ところが、それにもかかわらず、興味深いことに、その後、昭和28年からは瀬戸引き文字盤はとりやめになり、1年で終了してしまっているのだ。

 

「なぜ、瀬戸引き文字盤にしたのか。そして、なぜ、1年間だけで終了してしまったのか。」

 

まず、瀬戸引き文字盤にした理由を考えてみる。ヒントは、戦前の19セイコーが、はじめ瀬戸引き文字盤だったのに、戦争が激しくなって金属文字盤にしたということである。これは、デチューンであり、戦時設計だったのではないか、ということが正しければ、昭和31年の『経済白書』で有名になった言葉、<もはや「戦後」ではない>に先んじた動き、戦争が終わって、世の中が落ち着いてきたため、19セイコーも元に戻した、つまり、瀬戸引き文字盤を復活させたということだ。

 

次に、なぜ、1年間だけだったのかということになると、これは、19セイコーの後継機のグレードがヒントになっているように思う。それは、コスト・パフォーマンスを重視し、高すぎないグレードにする道を選んだということ。つまり、瀬戸引きに一旦は戻したものの、コストがかかりすぎることがわかり、続けるのをやめて金属文字盤に戻した、と推測するわけである。

 

 

平成30年1231

 

19セイコーは、昭和4年に7石から出発しているが、昭和6年には15石が登場し、終戦間際まで15石が上位機種だった。飛行時計や裏二重蓋のものは15石が先に登場し、7石にデチューンされているところからみても、戦争が激しくなる前は15石が本来のグレードだったといってもよいかと思う。

 

実は、文字盤も変化が見て取れる。当初から瀬戸引きの文字盤だったのが、終戦間際には金属の文字盤になるのだ。特に、裏二重蓋のものは、15石の瀬戸引き文字盤に加えて、昭和19年には恩賜の時計であるにもかかわらず7石の金属文字盤のデチューン版が登場する。

 

つまり、戦前は瀬戸引き文字盤が一般的でコストもかかっていたことが予想されるのだが、戦争が激しくなってくるとコストのかからない金属文字盤が登場し、戦後もそれが採用され続けることになったのではないか。

 

 

平成30年1227

 

19セイコーのグレードを考えるうえで、無視できない時期がある。終戦直後〜昭和35年(1960年)の15年間である。この間、19セイコーは7石しか製造されていないのである。しかも、戦前の終戦間際は、15石から7石にデチューンされたものがあるという事実である。

 

ということは、戦時設計が昭和35年まで維持された、ととらえることができるかもしれない、ということだ。確かに、昭和30年に秒針規制装置がつき、昭和32年にDIAFLEXが採用されている。しかし、石の数はずっと7石だったのだ。

 

 

平成30年1222

 

 「スカイライナー」にしても、「セイコー5アクタスSS」にしても、そのムーブメントのグレードはCクラス。普及版ということになる。これらのムーブメントを搭載した鉄道時計(19セイコーの後継機)が登場したのが1970年代。

 

 当時、機械式ムーブメントの最高グレードはグランド・セイコーだった。鉄道時計のムーブメントは精度や信頼性が問われるのだから、このグランド・セイコーが採用されてもよさそうだが、実際はそうはならなかった。しかも1975年には、クォーツの時代を予見して、生産が止められてしまっている。

 

精度で言えば、クォーツは正に適役だったはずだ。では、1976年にクォーツとしてはじめての鉄道時計として登場した38RWはどうだったかとうと、国鉄には採用されていない。理由は耐磁性などが理由によく挙げられている。しかし、値段も47,000円と、後に登場した75RW7550-0010)の18,000円の実に2.5倍だった。

 

つまり、鉄道時計は、精度や信頼性は高いほどいいに決まっているのだが、推測ではあるが、値段が高いムーブメントは採用されなかったと考えられる。ということは、コストパフォーマンスがかなり意識されたということになるのだろう。このことは、精工舎の鉄道時計のグレードに対する考え方を探るうえで、とても重要な視点になるのではないだろうか。

 

 

平成30年1216

 

「セイコー5アクタスSSSSについて補足しておく。文字盤に大きく「SS」と表示されているのを見ると、セールスポイントとであったことがわかる。このSSは、ネットを見ると、諏訪精工舎やステンレススチールと勘違いしているのではないかと思われる書き込みを見ることがあるがそうではない。SSは、SECOND SETTING の略。つまり、秒針規制装置のことである。63RWにしたときには、このSSがそのまま使われている。

 

通常のセイコー5やセイコー5アクタスにはついていなかった。SS61系アクタスに装備され、1970年代も半ばに登場した63系アクタスのときには珍しい機能ではなくなっていたはずだ。しかし、SSの表記が外されていなかったところを見ると、当時、まだセールスポイントにできる装置だったことになる。

 

 

平成30年122

 

 19セイコーの後継機、Cal.6310Aは、「セイコー5アクタスSS」という腕時計のムーブメントが基になっている。セイコー5アクタスは、1969年(昭和44) 61系アクタス Cal.6106が登場。1970年(昭和45) 70系アクタスCal.7019が登場。そして、1976年(昭和51年)アクタスSS Cal.6306が登場している。6163系は諏訪精工舎製で、70系は第二精工舎(亀戸)となっている。

 

 1978年に、Cal.6306の流れをくんで、いわゆるCal.6310Aとして、17石のCal.6310-0010Tと、21石のCal.6310-0020Tが、自動巻きの機能をはずして鉄道時計に組み込まれた。19セイコーの後継機、いわゆる63RWの誕生だった。21石はCal.6310-0030Tもあり、交換時計として登場している。

 

 

平成30年1125

 

 19セイコーの修理に出した。時計は終戦直後に生産が再開された時のPRECISION 7石。今まで正常に稼働していたのに、突然、動かなくなったのだ。ただ、時計を振れば少し動くという状態だった。近くの時計店に出し、3週間後返ってきた。故障原因は振り石のはずれ、とのこと。OHし、石を固定したのでもう大丈夫とのことだった。いつも思うのだが、時計は生き返っているのを見るのは嬉しいものだ。

 

 落下させた覚えはないのだが、置くときなどのちょっとしたショックで振り石がはずれたのかもしれない。そうであるなら、終戦戦後のこの時計は、金属の文字盤で、19セイコーのなかで「最も品質が劣化した頃の製品」ということが影響しているのかもしれない。ヤフオクで見ていても、ひどく汚れていたり、状態が悪くなっていたりするものが多い。しかし、私の所蔵している個体は、文字盤が大変きれいで、光を当てると、金色の文字盤がほんのりと緑色がかって輝くので、とても上品な雰囲気を醸し出す。実は、私の好きな個体のうちの1つなのだ。

 

 

平成30年1122

 

 19セイコーの後継機、Cal.6110Aは、「スカイライナー」という腕時計のムーブメントが基になっている。スカイライナーは、1960年に登場した薄型高級機の「ライナー」の普及版として開発された。23石だったCa.3140に代えて、1961年に21石のCal.402を搭載。1968年には、それぞれ17石と21石が用意されたCal.61ACal.6102A(カレンダー付)が登場。

 

 1972年には、Cal.61Aの流れをくんで、21石のCal.6110Aが、SECOND SETTINGの機能を付加されて鉄道時計に組み込まれた。19セイコーの後継機、いわゆる61RWの誕生だった。

 

 

平成30年1024

 

 戦前の瀬戸引き文字盤の19セイコーは、スモセコ部分(インダイヤル)が少し窪んでいる。この窪みが、19セイコーの文字盤を立体的にし、スモセコが時針や分針にひっかからずスムーズに回るようにしている。デザイン的にも立体感を生み、文字盤に変化をつけている。

 

 この窪んだインダイヤルのデザインは、アメリカの鉄道時計でよく見る形のものになっている。しかし、19セイコーのインダイヤルとアメリカ鉄道時計のインダイヤルは、よく見ると、少し違う。19セイコーのインダイヤルの縁は、文字盤から滑らかに窪んでいるのだが、アメリカ鉄道時計のインダイヤルの縁には細い溝がある。

 

 アメリカ鉄道のこのインダイヤルを、シングル・サンクダイヤル(1つの窪んだダイヤル)と言う。文字盤とインダイヤルは、それぞれ別の部品として作られ、貼り付けられているのだ。アメリカ鉄道の高級品は、中央部分にも窪みをつくった、ダブル・サンクダイヤル(2つの窪んだダイヤル)のものもある。

 

戦前の瀬戸引きの19セイコーは、1枚の文字盤で、インダイヤルの部分だけ窪ませて雰囲気を出しているのだ。これはシングル・サンクダイヤルとは呼ばないようで、二段のインダイヤルという表現をよく見る。面白いことに、19セイコーのRAILWAY WATCHは、ダブル・サンクダイヤル風に、この二段のインダイヤルにプラスして、中央部分にラインのみ描いてある。

 

 

平成30年922

 

 裏二重蓋7石をヤフオクで入手した。いわゆるSEIKOSHA PRECISION表記の7石の19セイコー。数字は戦後の19セイコーと同じブレゲ数字。このHPの収蔵品のページに掲載したのでご覧いただきたい。

 

私は二重蓋の19セイコーは15石しかないと思い込んでいたので、7石ということで注目し、興味をそそられて落札することとした。ところが、途中で気がついたのだが、裏蓋に「御賜」の刻印があるではないか。大変驚いた。ムーブメントやケースが、すでに持っている15石とほぼ同じ。香箱にSEIKOSHA PRECISIONの刻印があり、大変きれいな状態。7JEWELSの刻印はないが、これは、終戦間際の個体の特徴である。随分と迷ったが、これらのことが決め手となって購入することとした。

 

『精工舎懐中時計図鑑』に載っている恩賜の時計は、三島由紀夫の拝受したものが紹介されている。しかし、その時計そのものについては、石の数はどこにも書いておらず、説明にも「いかんせん真実は不明である。」としている。そして、あくまで推測として、裏二重蓋7石の19セイコーの写真が掲載されており、「戦後学習院大学にて使用された記録のある、裏二重蓋の19型セイコーシャ(7石)と思われる」という説明文がついているだけである。「恩賜の時計」は戦後も下賜されたのだろうか。「使用された」とは一体どういうことなのだろうか。よく見ると、どこにも「恩賜の時計」とは書いていない。また、この写真のムーブメントは、戦後のものと明示してあるのに7JEWELSの刻印があるところにも疑問を持つ。学校で長い間ストックしていた個体だったのではないか。

 

 このように、恩賜の時計は謎だらけであり、その実態はこれからの研究を待たねばならない。しかし、単なる裏二重蓋7石と思っていたのに、図らずも「恩賜の時計」と思われる個体を入手できたことをうれしく思う。

 

 

平成30年98

 

 飛行時計については、最近のヤフオクに100式がたくさん出てきている。マニアは相当数いるようで、弾もかなりあるようだ。しかし、値段は相も変わらず高止まりしている。高値掴みをした人が多かったのではないだろうか。

 

実は、この100式には精巧なレプリカ(復刻)が出ている。銘板までついているから驚いてしまう。ただ、本物ならこの銘板に登録番号や日付が刻印されているはずなのだが、レプリカにはさすがについていないようだ。中国製のようで、他にも海軍航空時計や天測時計などのレプリカもある。そして、ものによってはクォーツらしい。

 

 レプリカを楽しむのであれば、それを承知で入手すればよいと思うのだが、あくまで本物を求めるのであれば注意を要する。

 

 

平成30年92

 

 19セイコーの戦時設計があったかどうかについて、明記している書籍やHPを私はまだ見ていない。しかし、ヒントになるのではないかということがある。それは石の数である。

 

 飛行時計は93式と100式があるが、93式については当初15石だった。それが、後に7石になっているということである。戦前の19セイコーは7石が基本で、後に15石も出てきた。それが93式飛行時計に関しては、15石が先に開発されたということは、これが標準だったということになるのだろう。それが、後になって7石が出てきたということは、これはデチューンであり戦時設計だったといえるのではないだろうか。

 

 しかも、100式飛行時計も7石となっている。100式飛行時計のみ見ているとよくわからないが、飛行時計の流れで見てみると、15石→7石は明らかだ。19セイコーも戦時設計があったと言えるのではないだろうか。

 

 

平成30年831

 

 19セイコーに戦時設計というものはあったのだろうか。機関車(蒸気機関車もディーゼル機関車も)や小銃(九九式)には、材料等を節約する目的や技術者不足という点から、標準の設計よりも品質の劣った戦時設計というものが大量に製造されている。

 

 19セイコーにおいてそれに該当しそうなのは、戦後昭和2010月に製造を開始した時のprecisionや出車式中三針だろう。これは、確かに部品を寄せ集めたり、簡素な仕上げになっていたりしている。しかし、これは戦後、しかも混乱期の終戦直後だから致し方なく、戦時設計とは言えない。

 

 それに比べて、戦時中は、市販品が取りやめられ、軍需品としての時計が製造されている。軍人用の15石、いわゆるカラフ(クロノグラフ)、腕時計の天測時計等は、むしろ高級化、複雑化、小型化がなされており、戦時設計とは言えないだろう。ただ、よく見る100式飛行時計については、ひょっとすると該当するのかもしれない。見た目はふつうの7石であり、出車式中三針であるので、露骨な戦時設計には見えない。しかし、残っている個体は状態の良くないものが多い。実は、見えない部分や材料にデチューンがなされているのかもしれない。

 

 もし、この飛行時計も戦時設計というわけではないということになると、戦時中に広く行われた戦時設計は、この19セイコーに限っては行われなかったことになる。時計は精度が命。軍部も、さすがに正確ではない時計では使い物にならないことはわかっていたのかもしれない。戦場では、むしろ耐久性や正確性が保証されていなければ、全く使い物にならなかったはずである。実際のところはどうなのか、興味はつきない。

 

 

平成30年821

 

 戦中から終戦直後に19セイコーの出車式中三針(センターセコンド)が出ている。いわゆる陸軍の飛行時計と、それと同じ機構をもった一連のシリーズということになる。しかし、このシリーズはすぐに姿を消してしまい、元のスモールセコンドに戻っている。

 

 なぜ、センターセコンドが採用されたのだろうか。私は、そのヒントは同じSEIKOSHA PRECISIONの腕時計にあるのではないかと思う。腕時計は文字盤が小さく、スモールセコンドも小さいため秒針が見にくい。また、腕時計が開発されたのは、腕を開放し使い勝手を良くするためであり、時刻を素早く読み取ることを求める人が着用していたと考えると、秒針の大きいセンターセコンドの方が見やすいこととなる。それが懐中時計にも転用されたと見ることができるのではないか。

 

 しかし、センターセコンドの個体を見てみると、秒針などに異状のあるものが多い。折れていたり、曲がっていたり、錆がひどかったり、色が汚くなっていたりするものが大変多いのだ。要するに耐久性に問題があったのではないかと思われるのである。これが、戦争が終わり、しばらくすると顕在化したため、コストのかからないスモセコへ戻し、堅牢性を確保したというのが真相なのではないだろうか。

 

 

平成30年812

 

戦後後期15石(Cal.91RW)のムーブメントに、コートドジュネーブのないものがあることがわかった。戦後後期15石(Cal.91RW)までは、すべてコートドジュネーブのあるものばかりと思い込んでいたのだが、ここで訂正しておきたい。

 

SEIKOSHAの刻印の下に、15JEWELS JAPAN 9119Aという刻印が追加されている。個人的には、コートドジュネーブが施されているものの方がきれいで好きだが、キャリバーが明示されるようになったという点では、このコートドジュネーブのないものは画期的かもしれない。

 

 

平成30年85

 

 以前、現在の19セイコーは「2種強化耐磁時計」であると述べた。ところが、例のアメリカ鉄道時計の基準である「レイルロード・アプルーブド」は、耐磁性については触れていない。実は、機械式時計も耐磁性は重要で、テンプに大きな影響を与え、精度に問題が出ることはわかっている。では、19セイコーが耐磁性を備えたのはいつ頃で、どの程度、そして、そのきっかけは何だったのだろうか。

 

『鉄道時計ものがたり』でも、耐磁性について触れているのは、新幹線の登場後のクォーツ鉄道時計のところである。クォーツ時計に使われるステッピングモーターが磁気に弱かったことから、精工舎が開発に苦労したことが述べられているのだ。しかも、この書籍では述べられていないが、最初のクォーツ鉄道時計Cal.38RWは、国鉄に採用されなかったぐらい耐磁性が問題になったのだ。

 

新幹線は、鉄道時計の耐磁性と大きくかかわっているのだろうか。もし、大きな影響があるということであるなら、クォーツの鉄道時計が採用されるまで使われていた、機械式時計であるCa.91RWCA.61RWの耐磁性はどの程度のものだったのだろうか。

 

 

平成30年81

 

 戦後SEIKO 7石を入手した。いわゆるSEIKO PRECISION表記の7石の19セイコー。しかし、面白いことに、スモセコの上にある表記は、SECOND SETTING DIAFLEXとなっている。このHPの収蔵品のページに掲載したのでご覧いただきたい。

 

詳しい方は気がついたと思う。15石のSECOND SETTING DIAFLEXはよく見るものだが、7石は珍しい。機構としては、平成30年531日の7石と同じだが、文字盤の表記が異なるわけだ。しかも、以後15石では、今回の個体の表記に統一されていくので、15石の移行する直前の19セイコーではないかと思われる。実はこの19セイコーがあることはだいぶ前から気づいていた。なかなか条件が合わず入手できなかったが、今回、運よく入手できたことに感謝。

 

 

平成30年731

 

 戦前SEIKOSHA 7石を入手した。戦前の標準型であり、外観に関して状態はかなり良い。Ω型のボウが印象的。ムーブメントの写真はなかったのでわかず、その外観からひょっとしたら15石かもしれないと思って購入した。結果は7石だったが、上品でとても感じがよい。ボウを含めてケースが良く、精度も良さそう。このHPの収蔵品のページに掲載したのでご覧いただきたい。

 

ムーブメントは戦前のもので間違いない。ただ、完全なミキシングビルドになっていることがわかる。少なくとも、19セイコーの最初期のムーブメントと、それよりも少し後の軸受けと、終戦直後の香箱の3種類が見て取れる。最初期のムーブメントは珍しいので、それを元にして修理を重ね、命を長らえてきた個体なのではないかと思われる。

 

 

平成30年728

 

 石留について触れておく必要があるようだ。石留は、フランス語で「シャトンshaton」のことであり、仔猫という意味もあるが、時計用語としては「枠」となる。ベアリング代わりに使われる石を、固定するためにかつて使われた、金属の丸い輪の枠のことである。

 

 このシャトンを金(ゴールドシャトンという)、留めるビスをブルースチールにして、豪華さを演出した時代がある。かつての高級時計は、好んでこの組み合わせでムーブメントをつくったのだ。今は加工技術が発達し、石を直接固定するようになり、意図的に残している時計も若干あるが、それら以外は姿を消していく。

 

 19セイコーが誕生したころは、まだシャトンは健在だったが、ビスはなくなっている時代だった。そのため、戦前の19セイコーの15石を見ると、シャトンのみとなっている。

 

 

平成30年723

 

 19セイコーの15石については、戦前のものと戦後のものとがあると、平成30519日の記事にも触れた。同じ15石であり、15JEWELSの表記があるので、一見、違いがわからない。しかし、よく見ると、見分け方が3つあることがわかる。

 

1つめは、ムーブメントに彫られた番号の刻印である。戦前のものには5桁の番号が刻印されているが、戦後のものにはそれがない。これは製造番号のようだ。

 

2つめは、ムーブメントの石の周りの石留めである。戦前のものにはこの石留めがあるが、戦後のものにはない。これは、石を固定する技術が進歩したためと思われる。さらに、この石留めは、同じ戦前のものでも色が異なる。昭和15年ごろを境にして、それ以前は金色であり、それ以後は銀色となっている。

 

3つめは、石の大きさである。戦前の石は戦後のものに比べてかなり小さい。戦前の19セイコーも人造ルビーと思われるが、それでもやはり大きなものを作るにはそれなりにコストがかかったものと思われる。それが戦後は進歩して、かなり大きな石が作れるようになったのではないか。

 

 

平成30年531

 

 戦後SEIKO 7石を入手できた。スモールセコンドが銀色の下地に黄色ペイントが施されている風車型のいわゆる交換時計である。このHPの収蔵品ページに掲載したのでご覧いただきたい。

 

この時計はちょっと珍しい。7石なのに、文字盤の上が3行になっているではないか。15石なら3行は普通だし、3行目に15JEWELSの表記がある。ところが、これはここにDIAFLEXとあるのだ。そう、見慣れた19セイコーでは、DIAFLEXの表記はスモールセコンドの上にあるはずなのにである。そして、スモールセコンドの上には、SECOND SETTINGとあるのみ。

 

この時計は戦後SEIKO 15石前期の交換時計と思いこんで購入した。ところが、よく見たら、7石だったというわけだ。思わぬ掘り出し物を入手できた幸運に驚いている。

 

 

平成30年527

 

 ウォルサムの7石の懐中時計のなかには、19セイコーの部品と互換性のあるものがあるのではないかという指摘がある。それは、もちろんウォルサムであれば何でもよいというわけではないが、初期の19セイコーを修理するときに知っておくと役に立つことがあるかもしれない。

 

 19セイコーのデザインや機構が、当時のアメリカやスイスの鉄道時計のそれとよく似ていることは、これまでもマニアの間ではすでに指摘されてきたことである。もっとも、当時も流行というものがあるので一概には言えないのだが、精工舎がそれらアメリカやスイスの鉄道時計を参考にしたことは容易に推測できる。ましてや、部品に互換性があるとなると、それは単なる参考という程度には収まっていない可能性もあるわけである。

 

 ただ、日本の時計産業の歴史を見ると、ムーブメントを輸入して完成品にしていた時代から出発しているので、それこそ舶来品に追い付け追い越せという時代だった。ましてや鉄道時計は単なる懐中時計ではないのだから、精工舎も開発には苦労したはずである。19セイコーの歴史は、精工舎の歴史と言っても過言ではないと言えるのではないかと思う。

 

 

平成30年519

 

 19セイコーのムーブメントには、石の数の刻印(7JEWELS とか 15JEWELS)があるものとないものがある。これはムーブメントが交換されていることがままあるのでわかりにくいが、実際は規則性がある。

 

戦前 … 7石も15石も「あり」

戦中 … 7石のものは「なし」  15石のものは「あり」 

戦後 … 7石のものは「なし」  15石・17石・21石のものは「あり」

戦中〜終戦直後の出車式中三針は「なし」(8石)

 

つまり、7石の刻印があれば、それは戦前のものと推測ができる。逆に7石の刻印がなければ、それは戦中〜戦後のものだろう。この原則にあてはまらないものもあるかもしれない。しかし、それらはムーブメントが交換されているのかもしれない、ということをぜひ確認しておきたい。また、特に15石のものは戦前と戦後どちらにもあり、しかもどちらにも刻印がある。当然のことだが、価値が全く変わってくる。この場合は、交換されていないか、一度は疑ってみるのも大切かもしれない。

 

 

平成30年53

 

 いわゆる「飛行時計」を入手できた。このHPの収蔵品後継機のページに掲載したのでご覧いただきたい。

 

 この時計は、陸軍の100式飛行時計と言い、19セイコーのムーブメントである。出車式中三針式で、8石のムーブメントになっている。本来は、陸軍の航空機のコックピットに取り付けられているものだが、当時の航空機は振動がひどく、故障してしまうことが多かったため、取り外して首からかけていた人が多かったとか。ただ、この時計は、戦後、19セイコーのケースに収め直したもの。

 

 ほかの鉄道時計の文字盤が白なのに対し、これは「黒」であるため、他の時計と並べて眺めてみるとちょっと目立つ。しかも、12の下に、「時」という文字が結構大きく表示されており、これもなかなか面白い。

 

 

平成30年428

 

 19セイコーは初期から昭和30年代まで7石が主流だった。世界の趨勢からみても、7石は決して高級時計とは言えなかった。実際、時計店に持ち込むと、石が少ないことを口にする人が少なからずいる。これは、ふだんから時計を扱っている時計店からすると、やはり物足りないということを示しているのだろう。しかし、機能としては最低限のものは確保しており、実用には困らなかったという。この7石は一体どこに使われていたのか。

 

7石 … 天真の上・下穴石(2個)、受石上・下(2個)、ダボ石(1個)、爪石(入石出石2個)

 

 ダボとは接合部品のことで、転じて、頭が出た凸の様子を表す言葉になっているようだ。角とか、ボタンとか、表現するとわかりやすいだろうか。このダボ石は、アンクルの振り石のこととなる。19セイコーも、戦前に高級時計として製造された15石のものがある。この15石はどこに使われていたのだろうか。

 

     15石 … 7石に加えて、アンクル上・下穴石(2個)、三番、四番、五番車各上・下穴石(6個)

 

 これだけ石が増えれば耐久性が増し、精度も上がったことと思われる。ところが、アメリカの「レイルロード・アプルーブド」は、最低17石となっており、17石は並級品という扱いとなる。19セイコーが、この17石を超えるようになったのは、1972年(昭和47年)の21石が出たときだった。

 

     17石 … 15石に、2石を加えているが、ガンギ車だったり、テンプだったり、2番車だったりして、メーカーのノウハウに

            よって、使われている場所が違うようだ。

 

 

平成30年422日A

 

 合成宝石を調べていて思わずたどり着いたのが、宮沢賢治の書簡である。賢治は父親に、宝石の製造を願い出ているのである。時は、1919年(大正8年)。

 

 賢治は、妹トシの看病のあいまに調べたとある。「始めるには今が最好期である事、家は二間もあればよく設備は電気が一個くらいで資本もいらず、」とかなり具体的に把握している。ということは、すでにこの頃までに、合成宝石の製造方法が日本に伝わっていたことは間違いなく、ひょっとすると実際に視察をしていたのではないか。設備もそれほど大規模でなくても可能であり、賢治自身が製造にかなり乗り気であることがわかる。

 

しかも、賢治は、1928年(昭和3年)に「高架線」という詩で、合成宝石に触れていることがわかった。

 

「酸化礬土と酸水素焔にてつくりたる  

紅きルビーのひとかけをごくたいせつに  

手にはめてタキスの空のそのしたを・・・」 (途中の一節)

 

ということは、19セイコーが世に出た昭和4年の頃には、合成宝石の製造はすでに始まっていたのは間違いなく、19セイコーの「石」にも合成宝石が使われていたことは間違いなさそうである。

 

 

平成30年422日@

 

 ただし、他に1つ面白い資料がある。

 

 『宝石百年』貴金属宝石業界沿革史 若葉倶楽部 1966

「フランスのヴェルヌイが、天然ルビーと同一成分、同様な諸性質を具えたルビーを人工的に合成し、

これを商業上の軌道に乗せることに成功したのは1894年(明治27年)のことであった。そしておそ

らく明治30年前後には、はやくも日本にはいってきたことであったろう。」 とあるのだ。

 

 ベルヌーイ法が確立されるのは、一般に1902年とされている。よって、これは何かの間違いか、誤記である可能性はある。しかし、もし、本当だったなら、明治30年前後というから1897年前後には日本に入ってきていたことになる。

 

 1897年と言えば、気になるのが、オグラ宝石精機工業株式会社の沿革史である。

1894年(明治27年)創業。日本国海軍省からの要請に依り、水雷発射照準器用宝石加工製造に成功し、

国産工業用宝石使用第一号機種

1897年 国産時計用赤色ガラス軸受製造に成功

1917年 サファイア、ルビーの宝石軸受の製造を開始

 

 見比べてみればみるほど興味をそそられる。もし、『宝石百年』の記述が正しければ、このオグラ宝石精機工業が早々に合成ルビーの製造法を入手し、製造に成功していた可能性を否定できない。ただ、オグラ宝石精機工業の返答は、残念ながら、あまりに昔のことであり、社内資料を見ての判断となるので返答できないというものだった。

 

 

平成30年420

 

 大阪大学理学部の教授、浅田常三郎博士が、国産合成宝石であるルビーやサファイヤをわけもなく造り上げたという記事が、戦前の大阪朝日新聞に掲載されていたのを見つけた。「原料は一壜三十銭ぐらいで日本いたるところどこででも得られるアンモニウム明礬をやいた酸化アルミニウム」とある。

 

 面白いことに、「初めて外国輸入の合成宝石をアッサリとKO」とある。ということは、それまでに輸入合成宝石が日本にかなり入っていたことを示している。そして、「婦人の装飾以外電気計器や時計の軸承、飛行機のスパーク・ブラッグなどに数多く使われる」ともあり、懐中時計の軸受けにも使用されたことがわかる。また、東京工業大学の永廻助教授もこの製造に成功したとある。

 

この記事は一体いつのものかというと、実は1934年(昭和9年)1114日とある。19セイコーの製造が始まって、わずか5年後。といことは、少なくとも輸入合成宝石はかなり日本に入り込んでいたことが推測され、少なくとも初期の19セイコーの石はこの輸入合成宝石である可能性が高い。

 

 

平成30年415日A

 

 実は、人工宝石に関する面白いページを見つけた。それは、宝飾用ではあるのだが、合成ルビーと

精工舎をつなぐかもしれない。

 

K14製 WG ピンクの合成宝石のモダンな指輪 昭和6年> 

<造幣局マークに「四角にイ」「K14」「○に新」の刻印>         HP「戦前日本のアンティーク」

 

<戦前のものと思われる、服部時計店のk18リングです。

刻印は、k18、ツバメのマーク、日本の国旗、菱形に750とあります。   

まんまるの可愛い石は合成ルビーで、アームは一枚の板にシン

プルな彫りが入っています。>                       HP#服部時計店 photos& videos

 

 どちらも、かなり大きな合成宝石である。しかも、下のものは、そのものずばり「合成ルビー」「服部

時計店」とある。つまり、昭和に入ったころには、合成宝石はけっこう出まわっていたことが推測でき

るのである。ということは、製造もかなりできていたと思われる。

さらに調べてみると、

 

    <1933(S08)5月の『婦人倶楽部』付録から、流行の帯留と帯紐です。

左は指輪、「指輪に用いる宝石は、まるいものや、ありふれた形が飽き

られ変形の多少大きめのものが流行です」天然のものは高価なので合

成宝石も多かったようです。>

    <19321月『婦人画報』からです。大勝堂のダイヤと各種宝石の指輪

の広告と、小林時計店の100円前後の帯留です。首飾りや

腕輪はデザイン重視の合成宝石、>                        HP「昔の装い」

 

 これらから推測すると、戦前にも、すでに合成宝石はかなりの量が出回っており、その先駆だった人工ルビー(合成

ルビー)は難なく製造されていたであろうと思われる。しかも、精工舎自身が製造していた可能性も高い。外注していな

かったから、製造していた企業が出てこないのかもしれない。

 

 ということで、19セイコーの石は、人工ルビー(合成ルビー)の可能性が高い。

確たる証拠がないか、もう少し探してみたい。

 

 

平成30年415日@

 

 戦後の日本では、合成ルビーという名前で製造する企業がいくつかあることを確認した。ということは、現在の時計の石はほぼ間違いなく人工ルビー(合成ルビー)だろう。では、戦前はどうだったのだろうか。

 

 『火炎溶融法にて育成したサファイアについて』(名古屋工業大学先進セラミックス研究センター・株式会社信光社)という論文を見ると、次のようにある。

 

    「 FFM による人工宝石の育成はルビー(Al2O3:Cr)が最初で、当時は宝飾用途が主であった。日本でも昭和10 年頃から

東京電気(現: 東芝)などで製造されていたようであるが、本格的に生産されるようになったのは戦後である。」

 

 この情報を裏付けるように、信光社は、1947年創業で、人工ルビーも手掛けているようだが、人工サファイヤを得意とするようである。ネットで検索してみると、他に、1939年創業のアダマンドという企業が「人工サファイアを使った電気計測器用軸受宝石の製造開始」とあるが、時計用ルビー軸受宝石は1949年とある。どちらも日本では老舗のようだが、時計用の人工ルビーは戦後に製造を開始したようだ。

 

 他方、オグラ宝石精機工業株式会社という企業は、1894年(明治27年)創業で、「日本国海軍省からの要請に依り、水雷発射照準器用宝石加工製造に成功し、国産工業用宝石使用第一号機種」とあり、しかも、1897年に「国産時計用赤色ガラス軸受製造に成功」、1917年に「サファイア、ルビーの宝石軸受の製造を開始」とある。「赤色ガラス」がどういうものだったのか興味をそそられる。もし、これが人工ルビー(合成ルビー)のことであるなら、この企業が精工舎に時計用の石を供給していた可能性が高い。ただ、沿革を見る限り、この企業は、現在は人工宝石も手掛けているものの、戦前は工業用宝石の製造を得意とする企業のように見える。

 

冒頭の論文で、戦前の昭和10年ごろに製造していたと紹介されている東京電気(東芝)についても調べてみたが、調べ方が悪いのか、はっきりしたことはわからなかった。ただ、本格化するのは戦後ということであるので、製造はしていても懐中時計の需要を満たすほどできていたのかは、はなはだ疑問ではある。

 

 ここまで見てくると、戦前の時計の軸受けなどに使用された石は、推測するに工業用宝石であるルビーが使用されたように思える。しかし、結論を出すのはまだ早い。

 

 

平成30年4月14

 

 19セイコーの石について、私が最も知りたいことは、本物のルビーなのか、それとも、人工ルビーなのか、ということである。19セイコーの石について書いているWEBや書籍は少ない、というか、ほとんどない。それは、あまりに常識すぎて書かなかったからか、知っている人が少なかったからのどちらかだろう。

 

 19セイコーは当時の日本人にすれば高価な時計だったはずである。しかし、それはアメリカの鉄道時計ほどではなく、必要最低限の機能を備えていた時計ということができるだろう。そんな19セイコーに本物の高価な天然ルビーを使用できたのかとなると、少々疑問もわく。しかし、天然ルビーといっても、工業用ルビーであればそれほど高価ではないかもしれない。しかも、時計に使うルビーとなれば、耐久性がメインとなるので形や大きさはそれほど問題ではないかもしれない。となれば、案外、安価な値段で入手できたかもしれない。

 

 ただ、実は、19セイコーが登場した1929年には、すでに人工宝石なるものもあったことがわかっている。錬金術は黄金を作り出すことはできなかったが、化学が人工ルビーを作り出していた。1902年、フランスのベルヌーイがその人。実は、人工ルビーの研究は、19世紀前半には開始されており、当時、世の中にはジュネーブ・ルビーなるものも出回っていたとか。彼は、先行していた研究者フレミーに協力し、化学的な手法を開発。そして、商業生産に成功したのだ。一般に、この方法をベルヌーイ法と言う。

 

 1902年と言えば、27年もさかのぼる。果たして、日本では人工宝石を作り出すことができていたのだろうか。

 

 

平成30年3月17日

 

19セイコーを保守するうえで、裏蓋の開け方は知っておくとよい。時計屋でも、よく確かめもせず、スクリュー式なのに、はめ込み式と決めてかかって無理やりこじ開けてしまうことがある。無理な力を加えると裏蓋にひずみが出るので、見た目もよくなくなるし、裏蓋が閉まらなくなる。ムーブメントにひずみを生じる可能性さえある。

 

大まかには次のとおり。個体がいつのものかを特定する手掛かりにもなる。ただ、外部メーカーのケースだと異なっている場合がある。裏蓋を確信なく開ける場合は、いきなりこじ開けることなく、まずはスクリュー式を疑ってひねってみることをお勧めする。

 

19型…@戦前      スモセコ式    …スクリュー式

                ローレット縁    …スクリュー式

                裏二重蓋     …タブ付きはめ込み式

     A終戦直後   出車式中三針  …スクリュー式                

                スモセコ式    …はめこみ式

     B戦後                 …はめこみ式

24型…C戦前                 …スクリュー式

     D戦後                 …スクリュー式

 

 つまり、19型は、例外はあるが、戦前はほぼスクリュー式で、戦後ははめ込み式となっている。24型はすべてスクリュー式。

 

 

平成30年2月12日

 

 アンティーク時計のコレクターであれば、19セイコーを高級機種とは認めない方も多かろうと思う。製造元である精工舎はどのように認識していたのだろうか。

 

 その糸口となるのがコートドジュネーブである。コートドジュネーブは「細かい曲線が織り成す波の様な仕上げ。高品質なムーブメントの装飾に頻繁に用いられます。」と解説しているのは高級時計財団であり、これはFHHというHPで確認できる。世界文化社の「時計begin」のHPに掲載されている事典でも、「スイス・ジュネーブの湖の岸辺に打ち寄せるさざなみをモチーフにした、繊細なストライプ模様が特徴となる。古くから高級時計の証とされてきた」と書いている。つまり、コートドジュネーブが施された時計は、高品質なムーブメント、あるいは高級時計ととらえることができる。

 

 では、19セイコーはどうか。なんと初号機からコートドジュネーブなのである。しかも、それまでの精工舎の時計(ナルダン・ミニスター・クラウン)と明確に区別できるぐらい、はっきりとしたコートドジュネーブが施されているのである。19セイコーは鉄道時計として認められたことから正確さのみに目を奪われがちであるのだが、実は高級時計という位置づけでもあったのである。

 

 ただ、19セイコーのコートドジュネーブは戦後後期15石(91RW)までであり、後継機の61RWからは施されていない。こういったところからも、厳密な意味での19セイコーは昭和46年まで生産された91RWまでということができる。

 

 

平成30年2月11日

 

 19セイコーの価値を考えるうえで、おもしろい紹介記事が「イソザキ宝石店」のHPに出ている。引用してみる。

 

<機械式19セイコー(セコンド・インダイアル式)のムーブメントと本当によく似た懐中時計が現在、ゼニス社から発売されています。その品番は「07.0051.141」で、定価は何と¥630,000もします。><19セイコーは高等技術者が修理時間を度外視して調整すれば日差3秒以内におさまり高精度がでる最高のムーブメントです。チラネジ天輪でミーンタイムスクリュー付きで、今もしセイコーが生産再発売すれば、ゆうに20万円以上の値が付く高級機種だと思っております。現行の腕時計に見られる飾りだけのチラネジ天輪ではなく、実際にチラ座を入れて片重り調整が出来る本格的なテンプです>

 

マイスター公認高級時計師(CMW)である磯崎輝男の言葉である。19セイコーが優れていると言いながら、ゼニスにはかなわないと暗に言っているところも興味深い。しかし、それでも19セイコーを「高級機種」と位置付けているのも確か。

 

 

平成30年2月3日

 

 戦後SHIKOSHA7石の個体を入手した。収蔵品にアップ済み。19セイコーにしては若干小さめで、戦前の7石標準の個体と同じぐらいの大きさ。

 

 しかし、その特徴は、やはり文字盤とケースになると思う。文字盤の数字が角張ったゴシック体で、若干小さい。スモセコのインダイヤルの目盛りが他の19セイコーよりも簡略化されていて、数字は60のみ。ケースは純正を示す、SKSでも扇に鶴でもなく、刻印がないのだが、ムーブメントを固定しているネジの固定の仕方から、ケースも純正である可能性がある。ボウは四角い。ムーブメントは19セイコーそのもので、角穴車にSEIKOSHA PRECISIONと刻印があるのは、終戦直後の19セイコーと同じ。

 

平成30年1月20日

 

 修理に出していたCal.6310-0010T、つまり19セイコー後継機の17石が返ってきた。修理の内容は、動力ぜんまいの外端切れ。半日程度なら動くので、修理に出すかどうか迷ったが、OHも併せて修理に出すことにした。

 

 この時計は、DIAFLEXになっていないところをみると、Cal.9119-0020Tなどと比べると、動力ぜんまいが弱いのだろうか。時計店の話では、それほどでもないとは言っていた。ただ、交換のぜんまいを取り寄せようとしたが、もう入手できないといことで、そのため、ぜんまいそのものを直したということだった。料金はOHより若干かかっているだけで、ほとんどサービスと言ってもよいぐらいだった。

 

 

平成30年1月13日

 

 私が所蔵している19セイコーの出車式中三針の時計は、セイコー純正のケースとほとんど同じようなケースなのだが、内側には◇にHの刻印がある。これは「林ケース」という企業の社外ケースらしい。

 

 この林ケースについて触れているものは、私の知っている限りでは、HP『今夜もジュークセイコーの夢をみる!』のみである。そこには、「代用ケースで有名」であり、「ケース替えも、このようにおしゃれさんが入れ替えている例もある。ケースを選ぶのは戦前から行われていることで珍しいことではない」としながらも、「林ケース自体もほとんど情報がない」としている。

 

 この林ケースについて調べてみた。現在、「林精器製造株式会社」といい、1921(大正10)創業で、1925年(大正14年)服部時計店(現セイコーウオッチ株式会社)取引開始という。戦争激化のため、1943年(昭和18年)に、福島県須賀川へ疎開し、現在も本社は須賀川にある。そのHPにも、「林精器は、『ウオッチケース』で培ってきた技術をベースに『めっき・表面処理』『FA機器・ロボットS/I』の事業を展開し、民生品から先端技術製品までの幅広い分野に機器や部品を提供」とあり、時計ケース加工が出発点であることが確認できる。

 

 しかし、HPに「林ケース」の文言はどこにもなく、私がメールで直接問い合わせてみた。すると、経営本部の益子邦雄さんから、◇のなかにHの入ったマークは林精器製造株式会社のものということと、現在は使用していない旨の返事をいただくことができた。感謝。

 

 

平成30年1月5日

 

出車式中三針の19セイコーの製造時期は、いつか。(戦争中の飛行時計・航空時計を除く)

少し調べてみると次のようにある。

 

@『精工舎懐中時計図鑑』には1種類の写真のみ掲載されている。

AHP TIMEKEEPER」は昭和20年(終戦の年)10月より生産を開始

BHP 「イソザキ時計」1951年第二精工舎にて製造されたものものと思われます。

CHP 「オールドタイムス」戦時中から終戦にかけて製造されていた100式飛行時計(出車式三針)の機械を継続して製造された稀少モデル。陸海軍の将校用

に製造された特別なモデルで民間での流用は行われなかったとされています。

 

@については、裏蓋には昭和22年とある。終戦直後とはわかるが、果たして昭和22年なのだろうか。他の一般的な出車式中三針の19セイコーはこの図鑑には載っていない。製造時期は同じなのだろうか。同じ図鑑の年表の昭和2010月に桐生工場で生産再開として掲載されている時計の写真は、戦後の一般的なPRECISIONの時計で、文字盤が金属のもののみ。これでは出車式中三針の時計の製造時期はよくわからないというのが実状だ。

 Aについては、明記してあるのだが出典がないので、よくわからない。@のPRECISIONと同じ時期であるので、混乱してしまう。

 Bについては、これは推測として載せてある。これは個体としての時計なのか、出車式中三針の19セイコーのことなのか、やはりよくわからない。

 Cについては、わざと将校用と混乱するように書いているように見える。戦争中のようにもとれる。

 

しかし、『精工舎史話』に次のように明記してあるのを確認することができた。

「再開後における第二精工舎の時計類の生産は、まず最初に二十年十月、はやくも桐生工場において十九型鉄道時計(中三針のそれをふくむ)の生産が復活」

 

 @〜Cについて、どれも文責の方は間違いではないと言われるかもしれないが、読み手からすると確証がもてない書き方であることは間違いない。これで、昭和2010月から、第二精工舎桐生工場で生産開始ということが確定できた。ただ、今のところ、いつまで製造していたかはまだよくわからない。

 

 

平成29年12月30日

 

 1227日に紹介した61系・63系は、一般に最後の19セイコーの91系からクォーツへの橋渡しをした時計という説明がなされる。このクォーツは、たいてい75系(7550-0010)のこととされるのだが、実は、これまでも、その前に38系があったと言われていた。この38系こそが、実は初代のクォーツ鉄道時計なのである。

 

 38系は製造期間が大変短かったためか、個体がほとんど出てこない。よって、「幻の鉄道時計」とも呼ばれており、さまざまな憶測が飛んでいる。ただ、外国の方が、『THE SEIKO MUSEUM セイコーミュージアム』で紹介しているという書き込みをしていることと、写真がHP「今宵もジュークセイコーの夢をみる!(ヨコユメ!)」で掲載されているのを確認した。

 

 それらを総合すると、1976年(昭和51年)7月に発売され、キャリバーは3870-0010T。定価は47,000円だったとか。電池はSR44SWで、電池寿命は1年。精度は月差±10秒というところまでわかった。

 

 

平成29年12月27日

 

 いわゆる6321石を入手できた。このHPの収蔵品後継機のページに掲載したのでご覧いただきたい。

 

 91系の後は、小さな腕時計のムーブメントが使われ、本来の19セイコーとは言えなくなってしまった。よって、後継機として扱っているのだが、この後継機もいくつかバリエーションがあることがわかっている。

 

 6121石。6317石。6321石。と3種類あり、6321石も、6310-0020T6310-0030T2種類ある。今回の入手で、これらがやっと揃った。

 

 

平成29年12月10日

 

 ここ数週間のヤフオクでは、飛行時計・航空時計が10万円〜20万円ぐらいで出品されているものが目に付くようになった。

 

 少し前までは3万円前後で取引されていたわけであるから、大変な高値である。もちろん、飛行時計・航空時計は珍しい時計であるし、その風貌からもマニアをくすぐるものがあるのはわかる。出品する人は、それでも落札されると期待してのことだろう。

 

 しかし、よく見ると、入札件数は非常に少ない。全くないものも珍しくない。いつまでも落札されないで、出品され続けいているものも多い。やはり、入札するには高すぎると判断している人が多いのではないか。人気は高いのだろうが、そこまでは…、と思っている人も多いのではないか。

 

 落札されない場合、需要と供給の関係から、出品価格をぐっと落としてくるのが通例である。きっと、そのうちにもっとお値打ちな個体が出てくるに違いない。また、景気変動が起きて、現金が必要になった人も、もっと格安で提供してくれるはずだ。

 

 急ぐ理由もないので、気長に待とうと思う。

 

 

平成29年11月26日

 

 現在の時計の精度は究極と言ってもよいほどのレベルを獲得しつつある。この状況にあって、次の課題は何かとなると、ネットに接続するべきなのかどうか、ということではないか。

 

現在は、IoTが時代の流れではあるが、最近、Miraiなるマルウェア(不正かつ有害なソフトウェア)のために、IoT家電がネットから乗っ取られてしまうという脆弱性が明らかとなった。その状態で、果たして時計はネットに接続すべきなのかどうかは、案外、重要、かつ、大変デリケートな問題となったように思われる。

 

セイコーエプソンが、「TRUME」(トゥルーム)なる新ブランドの時計を立ち上げたのは、アップルの「Apple Watch」やGoogleの「Andorid Wear」を搭載するスマートウォッチに対するアンチテーゼではないか。セイコーエプソン自身はアナログの良さを強調した主張に徹しているようだが、電波時計が出た時にも鉄道時計としての信頼性が問題となったように、時計の信頼性はネット接続で失うものがあるという判断なのでないだろうか。

 

鉄道時計は、ネットに対してスタンドアローンであることに重要な意味があるということになれば、親時計に整正するという方法はこれからもつづくことになる。

 

 

平成29年11月23日

 

 前回示した日差±10秒以内というのは、かなりの精度のように見える。実際、現代社会でも普段使いには困らない程度の精度と言える。

 

ところが、アメリカで1893年に定められた鉄道時計の基準では、その精度は、5姿勢で調整して、週差±30秒以内となっている。冒頭の19セイコーの精度で単純に計算すると、乱暴だが、最大だと週差±70秒ということになる。これは、かなりの差であることに気づく。

 

ただ、19セイコーの駆動時間は、1週間ももたず、せいぜい1日半程度であるので、週差は意味がない。毎日、いや、乗車するたびに整正しさえすれば、日差で±10秒以内で問題ないということになるのだろう。

 

 

平成29年11月18日

 

 19セイコーの精度はどれくらいなのだろうか。 その前に、基本用語を確認しておく。

 

 歩度(ほど)   …時計の精度を短時間に測定し,日当たりの進み遅れに換算した値

 日差(にっさ)  …24 時間の間隔で測定した指示差の 1 日当たりの差

 平均日差    …機械式時計の場合、その精度は使用環境や巻き上げ量等のさまざまな条件の影響を受けて毎日微

妙に変化する。そこで、機械式時計の日差は、1日だけで判断せず、少なくとも1週間から10日程度 

の平均値を確認することが大切となる。

 日較差(にっかくさ)   …歩度又は日差の 1 日についての変動量。ある日測定した歩度又は日差と,翌日同一の条件

で測定した歩度又は日差との差で表す。

 姿勢差     …次の6姿勢で行う。@ DU(文字盤上) A DD(文字盤下) B PU12時上) C PD6時上)

D PR9時上) E PL3時上)。 角穴車(ゼンマイ)を3半位巻いて(1日位動いた後の状態)

DDをタイムグラファで0に合わし、@〜Eの6姿勢の歩度を測定する。

 復元差      …ある期間,温度・姿勢などの条件を変えて時計を運転したときの,歩度又は日差の復元性を示す値。

当初における歩度又は日差と,ある期間別の条件で時計を運転した後,当初と同一の状態に戻したと

きの歩度又は日差との差で表す。

 

 

 C M W二次試験では、3日間で規定の精度に仕上げるのだそうだ。扱う時計は19セイコーで、その精度は次のようになっている。

      

平均日差        ±10秒以内

最大日較差      ±5秒以内

最大姿勢差      ±15秒以内

復元差          ±5秒以内

 

 

平成29年11月3日

 

 数十年前の19セイコーが元気に動く、というのは、考えてみればとても運の良いことのように思えてくる。ある意味、奇跡を潜り抜けてきたものもあるかもしれない。

 

 持ち主がそれほど多く代っていない時計もあれば、次から次へと代わった時計もあるだろう。その間に運の悪い時計は、どんどん状態が悪くなり、故障しても修理されず、朽ちていったり、捨てられたりしたに違いない。

 

 持ち主によっては苛酷な条件で使われていただろうし、時計によっては戦争を潜り抜けてきているわけだ。また、高度成長期にどんどん新しい時計が開発されてきた時代もあったし、逆にバブルがはじけて不景気になった時代もあった。時計に関しては、クォーツという大きなムーブメントの変化もあった。

 

 19セイコーが、今、ここにあって、立派に動いているということは、これまでの持ち主がそれなりに大事に扱ってくれたからこそ、と言える。OHもどれだけされているかは時計によって違っているだろうが、動くほどにはOHされてきたのだろう。また、物によっては、部品交換や修理を受けているはずだ。

 

 今までの持ち主に感謝。 

 

 

平成29年10月28日

 

 <購入記録>

 

戦後15石の「前期型」のSECOND SETTING DIAFLEXのものは、スモセコの下地の部分が「銀色」と「白色」のものがある。白色はすでに所蔵していたが、今回は銀色を購入。

 

 戦後15石の19セイコーは、「後期型」(竜頭が円柱形)のものは個体が多いらしく、よくお目にかかる。他のHPで紹介されているものは後期型が多いし、ヤフオクにも出品されている19セイコーのうち、少なくない数がこれである。

 

それに対して、こちらの前期型(竜頭の頂が扁平)のスモセコの下地の部分が銀色のものは、ヤフオクを見る限りそれほど多くない。それまでの19セイコーのスモセコの下地の部分が銀色のものがふつうなので、たくさんありそうに思っていたのだが、実際にはあまりお目にかからない。あっても程度が良くなかったりする。それに対して、同じ15石「前期型」の19セイコーでも、スモセコが白いものの方は結構見る。

 

 私の勝手な思い込みかもしれないが、オーソドックスに見える、この「戦後15石前期型のスモセコの下地が銀色」のものは、案外レアなのではないか。

 

 

平成29年10月2日

 

「19型セイコーシャ鉄道時計」の名前の由来になっている大きさについて、本HPでも「ムーブメントの大きさがスイス規格の19型だった」と紹介している。

 

では、この「19型」とはどんな大きさなのだろうか。

 

実は、時計のムーブメントの大きさを表す単位として、現在でもフランスとスイスではこの「型」を使用している。この型はフランス語の「ligne」(リーニュ)の翻訳であり、メートル法が導入される前のフランスの長さの単位だったのだ。

 

その長さは、2.2558291mmであり、この19倍が42.860752…となることから、一般に42.86mmと表記していることが多い。つまり、19型SEIKOSHA鉄道時計のムーブメントの直径がこの42.86mmということになる。

 

懐中時計はこのムーブメントをケース(側)に収めて使用するので、もちろんケースによって大きさが若干異なるが、19型SEIKOSHA鉄道時計の大きさは、直径がだいたい5cmということになるわけである。

 

 

平成29年9月3日(一部訂正10月8日)

 

このページの8月6日に、「交換時計」について書いた。しかし、9月2日の書き込みをしたときに、念のため確認をしてみた。

 

『セイコーミュージアム』 …電話交換機用時計

『精工舎懐中時計図鑑』 …電話交換機用時計・電話交換機用懐中時計・交換時計

『鉄道時計ものがたり』  …電話交換機用の時計・電話交換用の時計・交換時計

HP『今夜もジュークセイコーの夢をみる!』 …交換時計

HPTIMEKEEPER 古時計どっとコム』    …交換時計

 

こちらは鉄道時計ほどではない。だいたい「交換時計」「電話交換機用時計」「電話交換機用懐中時計」の3つになるようだ。

 

8月6日のページには、<交換時計でググると、時計の部品の交換のページばかりが出てきて、肝心の「交換時計」がなかなか出てきません。>と書いた。試しに「電話交換機用時計」で検索すると、確かに交換時計のページも出てくるが、「電話交換機」関係も出てきて、もう一つだ。しかし、「電話交換機用懐中時計」で検索すると、だいたい交換時計のページが出てきた。

 

検索には、少なくとも「電話交換機用懐中時計」とした方がよさそうだ。ただし、正式な名称については一考を要する。

 

この交換時計は懐中時計が使用されており、腕時計は使用されていない。また、正式名の中に懐中時計を入れるとなると、鉄道時計は腕時計も使用されているので懐中時計を入れるべきという議論が出てきてしまう。

 

 よって、総合すると、通称では「交換時計」で問題ないが、正式名は「電話交換機用時計」がよいのではないか。

 

 

平成29年9月2日

 

「19セイコー」(ジュークセイコー)は通称である。私のHPの「19セイコーとは」のページでは、正しい名前は「19型SEIKOSHA鉄道時計」と紹介している。このHPではこの2つで統一しているが、実際には、様々な呼称があるのも事実である。

 

ここで簡単に整理しておく。

 

『セイコーミュージアム』  … セイコーシャ鉄道時計

『服部時計店カタログ』  … 鐵道時計セイコーシャ

『鉄道時計ものがたり』  … 19型「セイコーシャ」・「セイコーシャ」・19型鉄道時計・鉄道時計

『精工舎懐中時計図鑑』 … 19型SEIKOSHA・19型SEIKOSHA鉄道時計・19型セイコーシャ・

                   鉄道時計19型SEIKOSHA・19セイコー・鉄道時計

HP『今夜もジュークセイコーの夢をみる!』 …19セイコー・ジュークセイコー・19セイコーシャ・

19型セイコーシャ・

精工舎の19サイズ機械式懐中時計

HPTIMEKEEPER 古時計どっとコム』    …鉄道時計セイコーシャ・19セイコー

HP『イソザキ時計宝飾店』           …19セイコー・19セイコー懐中時計・

19セイコー鉄道懐中時計

HP『ホンマ・ウォッチ・ラボラトリー』      …19セイコー

HP『ヒノマチコノブログ』             …19セイコー・19型SEIKOSHA (鉄道時計)

イチキューセイコー

 

 ざっと見ただけでも、これだけある。よくもまあ、こんなに様々な呼称があるものだと感心してしまう。どれも何某かの根拠をもって表記しているのだろうが、ちょっと多すぎないか。それだけ混乱しているともいえるかもしれない。

 

 

平成29年8月16日

 

セイコーの時計の製造について、実はよくわかっていない時代がある。 

 

19セイコーについては、すでに多くのマニアに指摘されているが、終戦直後に製造されたと言われる「SEIKOSHA PRECISION」の入った出車式中三針についてはまだよくわかっていないのが実情だ。これは部品を寄せ集めて製造したからと言われている。

 

腕時計も似たような状態のようである。終戦直後からこの1950年に「スーパー」というブランドの腕時計が登場するまでの間は、単なる「SEIKO」表示の腕時計が製造されていることはわかっている。しかし、ブランド名はない。正直、呼び名にも困る。

 

終戦直後は、とにかく製造に取り掛からなければならなかった社会的な状況から、これは致し方のないところである。しかも、修理にはミキシングビルドやリダンが行われたであろうことも想像に難くない。これも時代を考えると仕方のないことと思う。

 

この時代については、もう少し広い視野で見ないと解決しないかもしれない。

 

 

平成29年8月15日

 

以前、入手した19セイコーの1番車(香箱)と2番車の歯が一部欠けていました。案の定、秒針が、ぴょん、と跳ぶような、歯車のない分だけ進んだように見える動きでした。ところが、不思議なことに、時間はほとんど狂いがなく、正確だったのです。

 

これは、調整した方が、トータルでは時間が正確になるようにしたのではないかと思います。いわゆる職人の「腕」なのでしょう。

(今は歯車を入れ替えて修理してしまいましたが…、今から考えるとこれはこれで面白い時計だったかも)

 

時計は、その個体のもつ精度は文句なく大事です。しかし、時計をトータルで見た場合、精度だけでは語れないものがあるのではないかと思うようになりました。

 

その時計のもつ個性をきちんと把握して、正確になるように調整する時計師、あるいは、時計店の職人の腕の存在を大きく意識するようになった次第です。

 

 

 

平成29年8月14日

 

19セイコーを特徴として、多くのマニアが指摘するものに、「音」、があります。あの「カチコチ カチコチ」という音です。

 

時計から1mぐらいの距離であれば、この音、かなり大きく聞こえるはずです。「カチコチ カチコチ」と書きましたが、実は「かっちぃ かっちぃ かっちぃ かっちぃ」と表現した方が近いように思えます。

 

はっきりと、早く、そして、一定のリズムが、永遠に続くようです。静かな部屋で聞くと、かなり響きます。なぜだか、誰かといっしょに時を過ごしているような、なんとも不思議な感覚になります。

 

他の機械式時計では、もっと耳を寄せないと聞こえないし、19セイコーに比べるとなんだか頼りなく感じるから不思議です。この音、19セイコーが生きている証拠であり、元気である証拠であります。

 

 

平成29年8月6日

 

19セイコーのラインナップのなかに、交換時計があります。しかし、交換時計でググると、時計の部品の交換のページばかりが出てきて、肝心の「交換時計」がなかなか出てきません。そのため、ここで「交換時計」について触れておくのも意味があることと思います。

 

交換時計は、一般に電話交換手が使った時計と紹介されています。では、電話交換手は、どのように時計を使ったのでしょうか。

 

今の電話は、電話機にテンキー(数字)がついていて、電話番号を入力すると相手方に自動でつながるようにできています。そして、その通話時間は自動で測定されており、課金される仕組みになっています。

 

しかし、電話が普及し始めたころは、手動で相手方にわざわざ繋いでいました。その繋いでいた場所が電話局(郵便局にあった時代もある)で、繋いでいた機械が電話交換台でした。そして、その繋いでいた人が、職業としての電話交換手でした。

 

ただ、市内通話の通話時間は、基本的には制限がありませんでした。だから、市内通話のみの交換台しかない時代は、通話の回数に課金がなされ、時計は必要ありませんでした。

 

では、何に時計が必要かというと、それは「市外通話」でした。市外に繋ぐには、電話交換手が各電話局を繋いでいかなければならず、相手の場所によっては膨大な時間がかかったとのこと。そのため、電話を一旦切り、相手に繋がってから、通話時間を測定し、その時間に応じて課金がなされました。そして、その通話時間を測定するのに必要だったのが、交換時計だったのです。

 

この交換時計は、戦前は、19セイコーのムーブメントが、24型のケースに収められた、かなり大きな時計でした。本HPにも掲載中です。

 

戦後は、この「24型」と「ふつうの19セイコー」を使用した時期が並行しています。そして、「ふつうの19セイコー」と書きましたが、電話交換手がスモールセコンドの部分に10秒ごとに線を引いて使用していたようです。当時の時計を見ると、いかにも「手描き」で線を引いた後のある19セイコーがあり、ヤフオクで出品されているです。推測するに、課金には10秒という単位が必要だったのでしょう。

 

昭和30年代に入って、スモールセコンドの部分が精工舎によって風車のように黄色のペイントが施されるようになりました。

 

 

 

平成29年7月23日

 

19セイコーのテンプには、正確にはテン輪(テンワ)には、チラネジがついています。テンプの精度を調整するためのねじというのが一般的な説明です。

 

熱膨張率が高い鋼製のひげゼンマイだと、温度変化によって時計の精度が変化していました。それをテンプのテン輪の方で調整できるようにしたのがチラネジなのです。

 

熱膨張率の小さな素材でひげゼンマイが作られるようになると、このチラネジは不要となり、現在のテン輪にはチラネジのついていないものが多いのです。私のもっているAEROWATCHもチラネジのないテン輪で、平テンプ(あるいは丸テンプ)と言います。とてもすっきりしていています。…しかし、どことなく味気ない。

 

そのせいでしょうか、現在の時計でも、このチラネジを付けているテンプのものがあります。それらのほとんどは、単なる装飾だとか。

 

では、このチラネジのチラは何なのでしょうか。英語では、 meantime screw あるいはbalance screw というので、どうやら日本語のようです。しかし、このチラについて触れているものはほとんどありません。そこで、推測するに、「散らばらせた」あるいは「ちらり」のチラなのではないでしょうか。ご存知の方がみえましたら、ご教示願えたらと思います。

 

 

平成29年5月29日

 

19セイコーの時計ケースは、ファインニッケルとの表示があるものがあります。これは、真鍮にニッケルメッキをしたものです。

 

では、ニッケルとはなんなのでしょうか。

 

ニッケルは、スウェーデンのアクセル・クロンステットが単体分離した金属で、ニッケル鉱石が銅鉱石に似ているのに銅を含んでいません。つまりいくら銅を分離しようとしてもできなかったことから名前がつけられたそうです。その名もkupfernickel(悪魔の銅)からkupfer(銅)を除いたnickelが語源。つまり、悪魔、悪鬼のことです。

 

原子番号28で、元素記号はNi、鉄族。耐食性と光沢の美しさからメッキに使用されます。19セイコーのファインニッケルはこれです。高級な時計のケースは銀や金が使われることも多く、ファインニッケルは廉価版といったところでしょうか。

 

また、耐食性、耐久性に優れ、低温や高温での強度が強く、導電性が高いので、目的別に合金の材料にされます。よく知られているのが、ステンレス鋼と白銅。ステンレスは説明の必要はないと思いますが、白銅は硬貨(100円硬貨や50円硬貨)などによく使われています。つまり、鉄や銅との合金が一般によく製造されているわけです。

 

このニッケル、金属アレルギーの原因のトップに挙げられているとか。19セイコーは懐中時計なので、腕時計ほどは身につけるわけではないけれども、油断大敵。皮膚炎が起きた時には気をつけるとよいかも。

 

 

平成29年4月30日

 

19セイコーか後継機かどうかを区別するものに、ブルースチール針があります。ムーブメントが19セイコーの時針・分針・秒針は、基本的にブルースチール製です。

 

このブルースチールは、「青焼き」とも呼ばれ、鉄に酸化被膜をつくって磨いたものだそうです。塗装では出ない発色効果があり、きれいな金属光沢をもった「青色」になっています。この針たちがきれいだと、光に反射してとても気品のある姿を見せてくれます。ネットに上げらえている19セイコーの写真も、このブルースチールを上手に撮っているものが少なくありません。

 

また、このブルースチールがきれいだとうことは、時計の状態が良いということを示す1つの指標にもなるようです。このブルースチールは色の美しさだけが売りではなく、一応、防錆効果を謳っているようなのです。しかし、古い19セイコーを見ると、実際には錆びている針が多いですね。効果は限定的なようです。だから、このブルースチールの針がきれいだと、ムーブメントもきれいなんじゃないかと期待させてくれるわけです。もちろん、交換されていれば、あてはまりませんけどね。

 

この錆びたブルースチールを復活させる方法もあるようですが、素人ではなかなか手を出せません。下手をすると、よけいに悪くして取り返しのつかないことになりかねないからです。

 

後継機は、残念ながらブルースチールではありません。戦後21石もクォーツも、これが黒い針になっているのです。しかも艶消し。光にかざしても、にぶく光るだけで、何となくもの足りない。もちろん視認性は悪くないのですが…。

 

だからこそ、西暦2000年を記念して発売された「鉄道時計 セイコー ヒストリカル コレクション(SCVR001)」はブルースチールになったのでしょうね。そういった意味では、マニアからはいろいろ言われているようですが、これを復刻した方は鉄道時計19セイコーの良さをよくわかっていると言えると思います。

 

 

 

平成29年4月20日

 

SII(セイコーインスツル株式会社)から、SPRONDIAFLEXの関係を聞く問い合わせに、返答を送ってきてくれました。

思った通り、 DIAFLEXSPRON100は、呼び名が違うだけで同一の材料です。」とのことでした。

しかも、 「1957年にDIAFLEXが開発されるまでは、動力ぜんまいの材料は輸入品に頼っていたからです。

1957年以降に製造された19セイコーには、DIAFLEXが採用されていると考えられます。」

という貴重な情報もいただきました。

SIIの担当者に感謝です。

 

 

 

平成29年3月25日

 

ヤフオクで出品されている「19セイコー」は玉石混交と言っていい。レアと書いてあっても、どこがレアなのか理解に苦しむものがあります。逆に、特に説明がなくてもかなり珍しい貴重なものがあります。そして、作動しているとありながら事実上ジャンク品だったり、ジャンクと書いてあってもちょっとした調整で作動するものがあります。まあ、それがオークションということなのでしょうが、鑑識眼が問われ、運も必要となります。

 

鑑識眼があれば、掘り出し物に気づくことができます。また、おかしな出品には引っかからなくなります。良いものは高いのは当たり前なのであきらめもつきます。高くても珍しいものであれば、えいっと覚悟を決めて落札することもできます。

 

運がよければ、掘り出し物を競争相手が少なく落札することができるかもしれません。写真よりもきれいな個体だったりします。説明よりもぐっと正確に作動したりするものもあります。反対に、ほしいものも競争相手が多かったり、執着されたりすると落札できないことも、ままあります。写真よりも状態が悪かったりするものもあります。ものによっては、説明と全く違うものもあります。

 

ヤフオクで失敗しないためには、自分でルールを決めて、気分だけで入札しないことが大切なんでしょうね。

 

 

 

平成29年3月20日

 

妻の曾祖父がかつて鉄道マンであったことを知らされ、遺品の懐中時計をいくつか譲り受けました。後で調べてみてわかったことですが、メーカーはウォルサムとモバードでした。そのうちの1つは120年ほど前のもので、裏蓋に「〇〇鉄道」と鉄道会社の名前が彫られていました。一番きれいな時計でも、100年も前の時計とわかり、文字盤の上品さと元気に動く様子に感動を覚えました。

 

さらにネットで調べてみると、鉄道関係者のなかでは、「鉄道時計」なるものが存在し、国産の鉄道時計があることを知りました。それが「19セイコー」だったのです。19セイコーは、かつてはかなりのブームだったのではないかと思われるのですが、今は下火になっている感は否めません。なぜなら、新しい掲示板の板が皆無だからです。

 

それからは、自分で書籍やネットのHPを参考にしながら蒐集を始めました。幸い、ヤフオクへの出品は盛んで、比較的近所に修理やOHを請け負ってくれる時計屋も存在することがわかりました。入手した19セイコーをOHしてもらったり、修理してもらったりしてコレクションを開始しました。

 

19セイコーの魅力は何といっても、戦争を跨いで40年以上も生産・販売されたという実績とその時計のバリエーションの豊富さでしょう。つまり、「歴史」があるのです。そして、19セイコー自体が「産業遺産(文化財)としての性格をもっているのではないかということです。ただの時計蒐集に収まらない予感がありました。そういった意味で、私がこれまでつくってきたHP「おーとばいザムライ」やHP「二十八防空隊」と相通ずるものを感じたのです。

 

そこで、この『「時刻よし!」19セイコー』は、19セイコーに関する情報を、少しずつでも蓄積することを目的としたいと思います。