中世の萱津宿について
1.はじめに
中世では、五条川は、庄内川に合流していた。その合流地点に萱津宿が存在していたようです。
そうした事柄が記述された東関紀行{仁治3(1242年)8月以降の紀行文 作者不詳}には、宿の事柄が記述されている。
その当時、萱津は、川を挟んで東と西に宿があったようで、東宿辺りを通ると市(市場)がたっていたようで、里に響くばかりの市で買い物をする
人々の声があり、人々はてんでに土産物を下げている状況が描写されていた。
萱津宿は、鎌倉街道上に出来た宿であり、そのルートは、<13世紀後半に書かれた紀行文「春の深山路」に記載されている"不破の関屋ー>野上
ー>青野ー>青墓ー>赤坂の宿ー>杭瀬川ー>笠縫川の橋ー>墨俣ー>玉の井の宿ー>くろとー>おりと(おりつ 下津)宿ー>萱津ー>熱田の宮ー>鳴海の宿であっ
たであろうと。このルートが賑わいをみせるようになったのは、平安京遷都以降であろうとも記載されている。>
( 松原弘宣著 「日本古代水上交通史の研究」 吉川弘文館 P.482及びP.487 参照)
さて、その後中世に存在した萱津宿は、鎌倉街道が、戦国期以降、大幅に道筋が政治的に変更されたり、又、五条川・庄内川もその流路を変更し
た事、その当時は、鎌倉街道が、五条川と庄内川合流点辺りで逆L字型に道が続き、現 甚目寺南辺りから津島に抜けていただろう道が、佐屋から熱
田へと短絡した道が出来た事により衰退したと思われます。
「中世の庄内川は下河原村の北側を流れていたと考えると、下河原村北側を流れる庄内川は五条川と合流し大きく蛇行し、稲葉地村と日比津村付
近へ向かう。そして再び大きく蛇行し南流していたと考えられる。」と。更に結びでは、「中世萱津は、蛇行する庄内川と五条川の合流点の両岸に設け
られた集落であり、文献から西岸集落には日蓮宗や時宗などの寺社や海上輸送を行う船が入る港湾が、東岸集落(東宿)には茶屋などの歓楽施設
や定期市が想定される。すなわち、中世萱津の両岸集落には都市としての性格に違いがあったと考えられる。このような性格の違いが、西岸集落の
みが近世まで萱津として生き残り、東岸集落(東宿)は廃絶し小字名に名残りを残すのみとなった背景となったとも考えられよう。(加藤博紀)」と。
<この記述は、下記 (中世の萱津宿を考える)
愛知県埋蔵文化財センターの萱津宿発掘調査を踏まえた中世の萱津宿の位置及び復元についてからの抜粋です。
詳しくは、 http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo08/0806kage.pdf を参照されたい。
2.萱津宿について
萱津宿は、平安京遷都以降から通行された東山道と東海道を結ぶ間道に出来た宿であり、中世では、鎌倉街道の宿でもあった。「海道記」(作者不詳 貞
応2年 1223年出立)には、古代の東海道の駅制度が崩れ、馬津に近い津島経由での萱津宿泊まりのルートが、記載され、萱津宿は、東山道と東海道を結
ぶ道に出来た宿でもあったかのようです。
海道記の原文で示せば、「「夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ、見上げれば、峰峙ちて(ソバタチテ)、(中略)
(市腋出立時には、道連れの友が出来たかと。)市腋をたちて(陸路であるか水路であるかは不明・・私の注)津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡り
はつれば尾張の國に移りぬ。片岡には朝陽の影うちにさして、焼野の草にひばり鳴きあがり、小篠が原に駒あれて、(略)見れば、又、園の中に桑あり、桑の下
に宅あり。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」と。
* 「
津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。」 海道記の著者は、津島川(江戸期の呼称、鎌倉期では、どのような河川
名であったでしょうか。)を舟にて渡河。対岸からは、尾張国となったと。
「片岡には朝陽の影うちにさして、焼野の草にひばり鳴きあがり、小篠が原に駒あれて、」焼野は、焼畑カ、小篠とは、篠竹のことカ、地名ではないと推測する。
篠竹が生い茂る原っぱに駒がいる。と記述している。津島川を渡ったすぐか、しばらく歩いたあとなのであろうか、馬のいる所があったと思われる。時は、13世
紀初め頃、承久の乱(1221年)が終わった直後の頃で、鎌倉幕府の権威が、確立した頃か。「在任地の武士が、大番役(都や鎌倉の警護)に出かける時に乗馬
してきた馬を一時的に預け、もう一頭に乗り換え任地に赴いていた。」(甚目寺町史 参照)とか。とすれば、この小篠が原は、かっての萱津原のことであろうか。
字名に牧原・坂牧・長牧が、残っているのもその証左となりえましょうか。
「(略)見れば、又、園の中に桑あり、桑の下に宅あり。」 この記述は、<康和5(1103)年に右大臣藤原忠実領として初めて荘名がみえる。当初本家・領家職
は近衛家に相伝され、地頭職は承元5(1211)年より以前に北条義時に与えられ以降得宗家が継承し、弘安
6(1283)年に円覚寺に寄進された富田荘の北の方
の民家の様子>ではなかろうかと推測する。この当時の富田荘は、鎌倉得宗家が、地頭職を有していたのでしょう。
詳しくは、http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo05/0505chuk.pdf
内の図1 尾張国富田荘絵図トレース図 参照 )
また、上記 pdf 図1尾張国富田荘絵図トレース図には、五条川に沿って右岸側に鎌倉街道が図示され、鎌倉街道沿いの西側に円聖寺・千手堂・光明寺・大
御堂が図示されている。こうした寺は、『甚目寺町史』に古老の伝承として、「萱津の七ツ寺」というものがあったという。その七ツ寺とは、「円聖寺・千手堂・光明
寺・大御堂・妙勝寺・宝泉寺・正覚院(現 長福寺で名古屋市中区大須七ツ寺)」のことであると記述されている。現 光明寺が、その当時の寺であれば、大御堂
は、現 実成寺辺りであったろうか。(中世の萱津宿を考える) 愛知県埋蔵文化財センターの萱津宿発掘調査を踏まえた中世の萱津宿の位置及び復元につい
て、詳しくは、 http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo08/0806kage.pdf にある萱津の七ツ寺の推定図と寺の記述は、更に実証的であろうかと。
また、この大御堂からは、五条川・庄内川を渡河する渡し場があったかも知れないと推測出来る道が五条川で途切れている。
しかし、江戸期に書かれた『尾張徇行記』の稲葉地村の条には、「北ノ方十六軒屋敷卜云所アリ、字ヲ元町卜云、古茶屋アリテ女郎ナトモアル由、サレハ東宿西
古堤新田内三昧アリ、コヽニ女郎墓卜云所アリ、コヽヲ古小栗衝道(鎌倉街道ともいうのでしょう。)ト云、今ノ庄内川ヲ枇杷川ト云、下萱津村ノ銀杏ノ木アル所古渡
場ノ由云々」と。
現 下萱津 寶泉寺南東方向に銀杏木が存在する。尾張徇行記が記述された以前の事柄ではありましょうが、いつ頃の事柄かは不明としかいいようがありません。
ア、文献から知られる萱津宿
・春の深山路(新編 日本古典文学全集 48 中世日記紀行集 1994年刊)から
弘安3(1280)年11月14日 京を出発、同月26日鎌倉着 尾張を過ぎて東国へ下向した著者は、萱津に着いて異母弟の定有という者の出迎えを受け、
弟からその土地にあった供応を受けている時、遊女(くぐつ)数人が来て、すぐ奥に消えた。その遊女(くぐつ)の中には、かって見た幼い頃の遊女(くぐつ)がい
たと知り、その後、その遊女(くぐつ)のいる宿へこっそり行き、遊んだとある。この宿は、萱津東宿であったかどうかは不明。
*
上記著者のルートは、「13世紀後半に書かれた紀行文「春の深山路」に記載されている"不破の関屋ー>野上ー>青野ー>青墓ー>赤坂の宿ー>杭瀬川ー>笠縫
川の橋ー>墨俣ー>玉の井の宿ー>くろとー>おりと(おりつ 下津)宿ー>萱津ー>熱田の宮ー>鳴海の宿であったであろうと。このルートが賑わいをみせるように
なったのは、平安京遷都以降であろうとも記載されている。}(前掲書 日本古代水上交通史の研究 P.482及びP.487 参照)
参考までに、玉の井の宿は、現 愛知県葉栗郡木曽川町玉の井とみられ、くろと とは、同郡木曽川町黒田と考えられるという。おりとの宿は、現稲沢市
下津町で、萱津は、現 五条川沿いの愛知県海部郡甚目寺町萱津であると言う。
更に、「春の深山路」の笠縫川(現 大垣辺りを流れる川かと。)の橋と紀行文には、記述されていますが、その川には、板きれ1枚が置いてあるだけであり、
狭い幅の板で有り、予備の馬が、その板橋から川に落ち、従者が、川に飛び込んで、馬を引き上げたとある。長い旅には、2頭の馬を伴っていたようです。*
その後墨俣へ。ここは、当時木曽川と長良川が合流していた所であり、古代には、墨俣の両岸に、布施屋があり、美濃側の布施屋のあった場所は、現在の
岐阜県大垣市墨俣町下宿、上宿あたりと思われる。」と。( ウイキペデイア 布施屋 参照)
・甚目寺町史 昭和50年3月発刊から
「萱津の遊女(くぐつ)は、詩歌管弦の道に通じ、教養もあったと想像される。新続古今集に、遊女(くぐつ)阿古(アコ)の和歌が載っている。
こうした遊女は、萱津の里の長者の抱えで、その屋敷に居住していたかと。中世(初期以前・・私の注)には、まだ、旅宿はなく、富める者や身分ある旅人は、
長者の屋敷に宿泊したり、寺院に宿泊したりしたと思われる。その後、旅人の往来が繁くなるにつけ、旅宿が本業となり、客の求めに応じて、酒食・遊女を提供
するに至ったと思われる。」(甚目寺町史 昭和50年3月発刊 P.87 参照 )と。13世紀中ごろには、「東関紀行」には、萱津東宿では、定期市が、開かれてい
たと記述され、「春の深山路」では、13世紀末頃には、萱津宿のどの宿であるかは不明なれど、既に酒食・遊女(くぐつ)を提供する旅宿の営業が、行われてい
たとも取れる記述がある。
甚目寺町史 昭和50年3月発刊 P.87〜87には、萱津宿の長者屋敷の事が記載されている。
その当時、萱津宿には、上萱津に、「たかみ長者跡」(正法寺の南)、下萱津には、「まな長者跡」・・・・尾張名所図会 萱津惣図から
<下萱津字真奈屋敷(真奈屋敷跡)・大字中萱津字鴻之巣(鴻之巣長者屋敷跡)の二つが松葉宿又は、萱津西宿と称した>・大字上萱津字上野(上野
長者の屋敷跡・・・地域の伝承からの記載のようであります。
上萱津に、「たかみ長者跡」(正法寺の南)と ・大字上萱津字上野(上野長者の屋敷跡)は、鎌倉街道を挟んで建っていたようで、このあたりを萱津北宿
と呼称していたとか。
重文甚目寺涅槃像を寄進した千木下(チギシタ)長者の屋敷跡の伝承等は、絶えてしまっているとか。南宿の呼称は残っていても、そこにあった筈の長者屋
敷跡すら分からないという。
今では、名古屋市に編入されている東宿を含めて萱津宿と称したと推測する。萱津宿は、全盛期には、伝承とは言え、東西南北の4つの宿の総称と推測
してもよいのではないかと。13世紀頃には、東宿と西宿が、存在していた事は、史実でありましょうが・・・・・。
付記
・ 奈良時代以降平安時代初期頃の萱津について
拙稿 壬申の乱で活躍した尾張連大隅について に於いて、7世紀末頃には、既に大隅は、愛知郡の評造カ。水陸両方の交通交易を行っていたと推測します。
そして、8世紀半ば頃(聖武天皇治下)の中嶋郡大領 尾張宿禰久玖利(ククリ) ・・日本霊異記の説話に出てきますが、この大領の妻女であった怪力の持ち主
離縁されて郷里に返されている。
この妻女は、それ以前には、霊異記に記された「小川市(イチ)」へ、その市場は、現岐阜市長良 長良川右岸川岸に存在していた事になりましょうか。 さて、この
市場で取引されていた物は何であったかは、詳らかではありませんが、内陸部の市場であり、川運を利用した海産物が運ばれていた事は確かでありましょう。
そして、説話中にもこの市場へ愛智郡片輪里の女(後の大領の妻女)が、はまぐりの桶 50石を舟ではなく、船に積んで、小川市(イチ)に出かけ、そこで、海賊な
らぬ川賊の女と争い、その市場の安定に寄与した事が、記述されていた。
妻女が戻されたのが郷里であれば、その郷里は、愛智郡片輪里であり、草津川であれば、草津川は、現 庄内川か五条川のどちらかの旧河川名ではなかろうか。
とすれば、草津とは、奈良時代以降平安時代初期頃の萱津の旧名であったかも知れない。
詳しくは、拙稿 東海地区に於ける古代の市場について を参照されたい。
更に、現 庄内川は、13世紀末頃の鎌倉時代には、円覚寺領富田荘を流れ、庄内川上流は、円覚寺領篠木荘を流下している。そして、13世紀中頃には、萱津
宿には、川湊があり、庄内川右岸の萱津東宿では、定期市が開催されていた事は、「東関紀行」の叙述から知られる。
その庄内川上流域に流れ込む内津川が流下する現 春日井市下市場(シモイチバ)には、鎌倉末期頃の市場があったという。篠木荘内の地域ではあります。
詳しくは、拙稿 鎌倉期末期以降か? 篠木荘内に於ける市場(いちば)開催について を参照されたい。