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起源、道統について
・初代 林崎甚助重信 ・七代 長谷川主税助英信 ・九代 林六太夫守政 ・十七代 大江正路 ・山内豊健 |
土佐に伝わる無双直伝英信流が、全国に広がるのは大江正路先生以降の時代である。起源道統の概略について |
居合道の意味 | 目的、刀の提げ方、礼式等 |
正座の居合 | 業の解説 |
立膝の部 | 業の解説 |
奥居合の部 | 業の解説 |
四国連合居合道研究会 | 無双直伝英信流の研究活動 |
現時勢に行われる居合の流儀としては、英信流、長谷川流、長谷川英信流、無双直伝英信流、伯耆流、大森流、関口流、新陰流、水鴎流、無外流、無双神伝流等々。而して、演武の場合最も多く拝見するのは、英信流系の居合である。当流は、旧幕時代土佐藩に伝えられたものである。名称の起源は、無双というは、始祖林崎甚助源重信が豊臣秀吉の上覧に供した時天下無双と賞賛せられたるに依ると伝えられる。英信流というは、伝統第七代長谷川主税助英信がその技殊更に神妙なりしより起こるといわれる。当流の道統は次のようである。
初代 林崎甚助重信 甚介(武術系譜略) 甚助(本朝武芸小伝)神助初代 林崎甚助重信
2代 田宮平兵衛業正 重正(武術系譜略) 成正(北条早雲記) 重政
3代 長野無楽入道槿露斉 無楽槿露斉 無楽入道槿露斎
4代 百々軍兵衛尉光重 百々軍兵衛光重
5代 蟻川正左ヱ門宗続
6代 万野団右ヱ門信定
7代 長谷川主税助英信
8代 荒井勢哲清信
9代 林六太夫守政
10代 林安太夫政羽
11代 大黒元右ヱ門清勝。
12代 林益之丞政誠(後年谷村派) 松吉貞助久成(後年下村派)
13代 依田万蔵敬勝 山川久蔵幸雄
14代 林弥太夫政敬 下村茂市定政
15代 谷村亀之丞自雄 細川義昌
16代 五藤孫兵衛正亮
17代 大江正路
楯岡在林崎明神(天神正林崎明神)(山形県村山市林崎奥羽本線楯岡駅北方約一キロ)に一百有余日参篭して夢想剣を得る。林崎明神夢想流、林崎流、林崎甚助流、夢想林崎流、又は重信流(太刀打ちの根元居合剣法、参尺三寸の太刀、九寸五分の腰刀)と賞する居合を始む。又、長柄の刀を工夫した。時代は足利末期(永禄年間)の人なり。北条泰時の第二子とも言う。七代 長谷川主税助英信
門に片山伯耆守藤原久安(京都阿太古社(愛宕神社)に参篭、伯耆流の祖)
関口八郎右ヱ門柔心(氏心)(関口流、林崎流居合、三浦与次右ヱ門の組み打ちの祖)
田宮平兵衛業正(田宮流、古田宮、新田宮、紀州田宮の祖)
秀吉の上覧に供し夢想の名を賜ったと称せられる。
その術精妙に達し、無双直伝英信流と称した。九代 林六太夫守政
又、名古屋の徳川氏に仕え、千石を領し、剣道のほかに弓、馬の道においても傑出したと記されたものがある。
延宝三年、父の業を継ぎ山内家に仕え英信流居合を土佐に広めた。以後当流は土佐に継ぐ。十七代 大江正路
大森流居合を英信流に取り入れた。
号は蘆州、字は子敬。幼名、浜田十馬、嘉永5年10月10日高知県土佐郡須賀村に出生。武徳会居合範士で昭和2年4月8日75才を以って亡。山内豊健先生
従前英信流の中に大森流長谷川流と称していたいたものを現在の正座の部、立ち膝の部と呼称を改められ、又現在行われている業を多数の業の業の中から取捨選択して定められた形も制定せられたと承る。
その門に穂岐山波雄、山内豊健、中西岩樹、西川倍水、政岡壱実、山本晴介、甲田盛夫、福井春政等。
次に本書の宇野又二先生に就いては、流れという事 <養心館の居合>大江正路_____山内豊健_
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|_|_宇野又二
大正末期高知遊学中大江正路先生の晩年その門に学び先生の没後山内豊健先生の道場に学びその許を得られた。
因に、元子爵山内豊健先生は山内容堂公の孫に当たり家風として幼少より居合を学ばれたるもので昭和の初期3年頃京都に来られ約十年在住せられ、後東京に移られ昭和21年1月10日岐阜において病没せられた。
京都に在住十年間に居合の種を撒かれその間学ばれた方相当数あり又各地に別れて夫々精進されている。尚京都にて教えを受けた方々あり殊にその間終始教えを受けた北村通孝先生あり。従って京都における当流の系統は、大江正路 ____ 政岡壱実 ____ 黒住龍四郎
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大江正路 ____ 山内豊健___|
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|_|_宇野又二山内豊健 ____ 北村通孝
の系統による居合ということが出来る。
『何々流何代』というのではなく、流れということから言うと、何代目というふうに、『目』をつけるべきであると昔からやかましく言われている。その一つの流れから言うなら
大江正路――山内豊健――井下経広
(17代) (18代目) (19代目)
ということになる。大江先生の指導を受けた中には、佐藤忠三、黒住龍四郎、甲田盛夫、政岡壱実、大勢みえる。その中で、穂岐山先生と森茂樹先生が同期で一番早くから指導を受けた。山本晴介先生、山本宅治先生は、大江先生の晩年に指導を受けたということになる。何故武道専門学校で無双直伝英信流を教わったかというと、これは当時京都には、熊本出身の陸軍戸山学校を出た人(*1)が伯耆流を広めておってこれが大変盛んだった。これとは違うものが良かろうということで、無双直伝英信流になった。その時の先生が山内豊健先生。山内容堂の孫。
大江先生が、新潟で別の先生との共著で『居合の手引き』という本を出した。これが有名になって全国に知れるようになった。そんななかに居合研究中の中山博道先生がいた。高知まで来て無双直伝英信流を習得しようとした。先ず大江先生の兄弟子に当たる人に入門をお願いした所『無双直伝英信流は門外不出になっているので教えるわけにはいかん』と断られた。それで、立ち寄った防具屋さんに相談した所、『弟弟子の大江先生にお願いしては如何?』ということだったので大江先生の所に行くと、『兄弟子がいけないというものを弟弟子の私が良いと言う訳にはいけない』ということでこれまた入門は叶わなかった。
しかし、大江先生は致道館(高知城の傍にある道場)で居合の講習会をやるから見学するのならしても良い。ということで、中山博道先生は見学をした。その後、自分の居合と、見学をした居合を研究した。昭和五年から昭和十一年、山内先生が京都に見える時、五月大会に上京した折に、請われて山内先生は中山博道先生に抜いて見せた。山内先生は、中山先生の居合は毎年変わるんだ、と良くおっしゃっていた。不充分だから、聞き込んでは研究と工夫を重ねていたんだと思う。そして、無想神伝流を名乗った。昭和八年から九年頃、山内先生が、いっぺんで教師をくれたぞと喜んでいたのを覚えている。当時、居合道教士というのは数人しか居なかった。範士は中山先生一人だった。
(*1)吉沢一喜;剣道教士、柔道教士、水泳教士、居合教士、銃剣術教士