続 小牧市 東部丘陵地帯に存在していた 大山廃寺についての覚書
1.はじめに
拙稿 小牧市 東部丘陵地帯に存在していた 大山廃寺についての覚書 最終脱稿 平成26(2014)年2月8日であり、
令和2年3月末現在からすれば、既に6年程度経過しており、大山廃寺についての新しい事柄もでてきたかのようです。
令和2年3月 桃花台のいきいきコミュニケーション雑誌 「飛行船」vol.113
2020年4月号 6/7に篠岡考古学事始 その20で
「発掘で解った大山廃寺の歴史」 愛知文教大学非常勤講師 中嶋隆(元 小牧市教育委員会)氏の論説に出会った。
( 詳しくは、http://tokadai-center.jp/service/pdf/113.pdf を参照されたい。)
中嶋氏によれば、大山廃寺跡は、「発掘調査により、大きく4つの時期に区分出来るとか。」
1期 7世紀後半に創建され、9世紀前半まで 現存する遺構は、塔跡のみ。
2期 9世紀半ばには再建され、2ヶ所に3棟発見。伝承の仁平2(1152)年より古い10世紀中ごろに火災で焼失。
3期 火災から間もなく、伽藍を再建 釣鐘を作成した炉の基礎部分が見つかるが、建物跡は、発見出来ず。
4期 鎌倉〜室町時代の巨大な本堂と参道沿いにも多数の堂が存在。最盛期は、13〜15世紀。満月坊なる僧坊あり。
*
麓の江岩寺に伝わる「大山寺縁起」の伝承と異なる歴史となっているとか。*
中嶋氏と同様な見解は、http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/event_1/events/bunkazai/16053.html
にも述べられています。
以下の年表は、上記 16053.html からの抜粋
白鳳時代 | 7世紀 | 大山寺の創建(区分1) |
---|---|---|
奈良時代 | 8世紀 | 塔跡など瓦葺礎石建物伽藍(区分1) |
奈良時代 | 8世紀 | 多種類の瓦(白鳳・奈良時代)を使用(区分1) |
奈良時代 | 8世紀 | 塔跡の焼失(区分1) |
平安時代 | 9世紀 | 平安時代初期の瓦を使用(区分1) |
平安時代 | 10世紀 | 非瓦葺掘立柱建物伽藍(区分2) |
平安時代 | 10世紀 | 建て替えた建物もある(区分2) |
平安時代 | 11世紀 | 火災(伝承では仁平2年)(区分2) |
平安時代 | 11世紀 | 伽藍の再建(区分3) |
平安時代 | 12世紀 | (建物跡は発見されていない)(区分3) |
鎌倉時代 | 13世紀 | 非瓦葺礎石建物伽藍(区分4) |
鎌倉時代 | 13世紀 | 巨大な本堂、多数の堂宇(区分4) |
室町時代 | 14世紀 15世紀 16世紀 |
大山寺の最盛期と思われる(区分4) |
繰り返しになりますが、7世紀末以降の春日部郡に関わる確かな事柄は、郷土誌かすがい 第4号内の「春日部郡の豪族と古寺
址」と題する久永春男氏の論述を記載します。
それによると、「春部郡を本貫としたことの確実な豪族として、尾張連一族がある。『寧楽遺文』の歴名断簡であります勘籍(カンジ
ャク){中巻 平成9年版 P.539 下段 参照}に、尾張連牛養年廿七 尾張国春部郡山村郷戸主 大初位下
尾張連孫戸口
と
いう記載が見られる。大初位下といえば、郡の主帳級の位階である。という記述もある事を付け加えておきます。」
上記 『寧楽遺文』の歴名断簡であります勘籍(正倉院文書)は、何年かは不祥。
かなりの数(100名余分)が一括表記されている点、年代は新しいと推測します。通常は、何年の戸籍参照と記述されますが、
そうした記述はなく、只 大初位下の尾張連孫と記載。位階としては、最下層でありましょうが、天皇家へのかなりの勲功がなけ
れば、無位の家柄では与えられないのでは・・・・。とすれば、尾張大隅系では無い、尾張馬身系の人物ではなかろうかと推測い
たしますが、どうであろうか。
また、7世紀後半には、<参考> 南海地震 東南海地震 東海地震 が起こった。
白鳳期 684年 (684年) (684年) ( )内の年代は、津波堆積物にて確認された。
とすれば、勝川廃寺は、地震三連動以前に建てられていたのであれば、鳥居松面上の立地であるようですから、倒壊を、免れた
のでしょうか。しかし、地震以後に建てられたという可能性もありえましょうか。勝川廃寺の軒丸瓦は、藤原京(694年造営)と同笵
であり、地震以後の可能性が高いと思われます。国府近くの東畑廃寺は、白鳳期(684年)の地震三連動に遭遇したと思われます。
7世紀末頃、この地域を襲った地震三連動により、相当な被害が出たと推測出来る。この為、「彼らの支配下にあった共同体成員
が、小規模ながら彼らと同じような古墳を築造し始めた時、地方豪族は、より新たな地位の象徴を美しい伽藍・威厳に満ちた仏像に
求め、共同体成員の独立的傾向により、不安定さを強めた首長層の権威を補強する役割を期待したのではなかろうか。」(一宮市史
上 P.137引用)は、頷けるものがありましょうか。
国造系の後の郡司層(この当時は、評造カ)が、廃寺を創建しえた者たちであった可能性が高いのでしょう。
発掘で知られた事からですが、勝川遺跡は、旧 地蔵川と八田川水系流域に存在していること。この勝川遺跡周辺に春部郡衙
が存在する可能性が高いかのような指摘。
また、大山川水系の支流域 現小牧市名鉄小牧線 間内駅南西寄りにあります。( 平成15年9月 南外山東浦遺跡 第3次発掘調査
現地説明会資料からの抜粋)
「
平安時代の柱穴、溝、井戸などの遺構と須恵器や灰釉陶器などの遺物も多数発見され、掘立柱建物と塀または柵列が確認されました。特に注目されるのは、
堀形のある柱跡が見つかったことです。これは、寺院や官衛(古代の役所)を建てる際の建築技術で、 この遺跡は、単なる集落とは異なる性格・役割のもので寺
院や役所が存在した可能性もあります。」と。この辺りは、古代の春部郡山村郷に比定できる地域かと。
この二つの春部郡衙に関わる記述は、時期的には、勝川遺跡の方が、早い時期の春部郡衙であろうか。
後日に期したい。
3.大山廃寺 2期
「9世紀半ばには再建され、2ヶ所に3棟発見。伝承の仁平2(1152)年より古い10世紀中ごろに火災で焼失」
年代的には、850年〜950年のほぼ100年間カ。発掘当時、整地された地層からは、大量の灰層が確認され、焼失したと推測
出来るかと。そして、その層から出土した土器類から、10世紀中ごろの物が出ているとか。
< 参考 >
< 10〜12世紀頃の 尾張国司・丹羽郡司の流れ >
990〜994カ
良峰季光
974 975〜 985〜988 989 993・1001・1009 1008 1012 1016 1040〜1043
国司 藤原連貞藤原永頼 藤原元命藤原文信 大江匡ひら 藤原中清 藤原知光 橘経国 橘 俊綱(藤原頼通の次男)
郡司 (椋橋)美並
椋橋頼利 良峰松材 (空白7年) 海(部カ)宿禰某 椋橋宿禰惟清
926〜955
955〜969 973〜989 996〜? 1031〜?
*
985〜988年の3年間は、あの悪名高い受領 藤原元命が、尾張国に赴任。国造系の在来の尾張氏一族は、郡司として、立ち居
振る舞いが出来得ていたが、受領 藤原元命によって、徹底的に絞り取られ、没落に拍車がかかったかのようです。
とすれば、850年〜950年のほぼ100年間は、郡司として、尾張氏一族が、在地では、それなりの権勢を奮っていた頃でしょうか。
<参考> 大宝令制下以降での帯位授受から知られる尾張連氏一族の動向は、下記の通りであります。
「和銅2(709)年 外(ゲ)従五位下 愛知(智)郡大領 尾張宿禰乎己志(オコシ)・・・・(大隅直系 海部直祖カ 私の注)
天平2(730)年頃
春日部郡大領 尾張宿禰人足(ヒトタリ)
天平6(734)年頃 海部郡(アマグン)郡領(?) 尾張連氏一族」
(以上の事柄は、「古代貴族と地方豪族」 野村忠夫著 吉川弘文館 平成元年刊 P.25 参照 )
8世紀半ば頃(聖武天皇治下) 中嶋郡大領 尾張宿禰久玖利(ククリ) ・・日本霊異記の説話より 」
この時期の大山寺は、瓦を使用しない堀立形式の萱ぶき屋根の草堂 2ヶ所で3棟が創建されていた。何らかの理由で10世紀
中頃に焼失したようです。この当時の2期目の大山寺を支援したのは、尾張氏一族であった可能性が高い。
この時期に、未開拓の地域が、開発されていった可能性も高く、熱田社を中心とした尾張氏一族の力が、推測出来得る。
上村氏もまた、「この林・阿賀良村両村の開発主は、熱田大宮司家であろう。」(尾張の荘園・国衙領と熱田社 P.378参照。)
と推測されているようです。私も同感であります。
4.大山寺 3期
発掘調査から「火災から間もなく、伽藍を再建 釣鐘を作成した炉の基礎部分が見つかるが、建物跡は、発見出来ず。」とか。
推測でしかないのですが、鎌倉期以降の建物が、その当時の建物跡に再建されたとすれば、建物跡は、見いだせない可能性も
ありやなしやか。
最新の研究成果では、「野田郷(春日井市)、林村(小牧市)、阿賀良村をも合わせた 範俊開発 地域の広がりとその地理的状況、
国司 平忠盛と郡司との主導のもとに一円立荘された篠木荘の経緯を勘案するならば、春日部郡東北部一帯の開発領主とは、天養
元(1144)年当時の郡司 橘氏一族とみるのが自然であろう。」(講座 日本荘園史 5 P.359 上村喜久子氏記述書参照 )と。
同書 P.344には、「散在型荘園から一円型荘園への移行(例えば、篠木荘等)の背景には、郡司・郷司ら一族と国司との結託が
推察される。」とも記述されています。
この天養元(1144)年 当時の郡司 橘氏一族とは、どのような氏族であったのであろうか。上村氏は、その点明快ではない。
推測が許されるのであれば、この橘氏とは、丹羽郡郡司 良峯氏一族であり、一族は、二ノ宮大宮司でもあり、丹羽郡の郡司でもあ
り、橘氏と名乗る一族もあったやに良峯氏系図上から知る事が出来るようです。( 続群書類従 参照 )可能性は、低いかと。
或いは、摂関家で、頂点に立った藤原氏の実子(伏見修理大夫・橘俊綱は宇治殿・藤原頼通の子)が、尾張国へ赴任し、その当時
権勢を欲しいまましていた尾張熱田社一族を打ち負かすだけの力を備えた国司の存在(宇治拾遺https://www.koten.net/uji/yaku/046/
参照)として逸話の形で残っている。橘氏一族とは、この橘俊綱系の者達ではなかろうか。あくまで、推測に過ぎません。
伏見修理大夫・橘俊綱(宇治殿・藤原頼通の次男)の尾張国での在任期間は、1040〜1043年であり、この間に、在地での権益を残した
と推測する。そして、60〜70年後には、春日部郡域内東北部に、大山寺が、再興される事になるのかと。
或いは、このあたりの事として、大山廃寺の麓に創建された紅岩禅寺に残る的叟著 「大山寺縁起」( 寛文8年 )が、雄弁に語っ
ている。この書物を記述した的叟なる者、江戸時代初期頃の人物であれば、12世紀初頭の頃の事柄を何で知りえたのであろうか。
伝承か、或いは、焼失した旧大山寺に残る書き物等から知りえたのかもしれない。それ故、この史料は、更なる検討が必要であり
ましょう。一級史料とはなりえないかも知れませんが・・・。
「永久年中(1113〜1117年)に、叡山 法勝寺 住職 玄海上人が、掘っ立て式、草葺寺院を再興され、この大山寺を大山正峰
寺と改称。」(この記述が、史実であれば、橘氏一族が、玄海上人を招聘した可能性も視野にいれていいのではなかろうか。・・筆者
推測)
*
承暦元(1077)年12月 | ![]() |