続  小牧市 東部丘陵地帯に存在していた 大山廃寺についての覚書

      1.はじめに
         拙稿  小牧市 東部丘陵地帯に存在していた 大山廃寺についての覚書 最終脱稿 平成26(2014)年2月8日であり、
        令和2年3月末現在からすれば、既に6年程度経過しており、大山廃寺についての新しい事柄もでてきたかのようです。

         令和2年3月 桃花台のいきいきコミュニケーション雑誌 「飛行船」vol.113 2020年4月号 6/7に篠岡考古学事始 その20で
        「発掘で解った大山廃寺の歴史」 愛知文教大学非常勤講師 中嶋隆(元 小牧市教育委員会)氏の論説に出会った。
         ( 詳しくは、http://tokadai-center.jp/service/pdf/113.pdf   を参照されたい。)

         中嶋氏によれば、大山廃寺跡は、「発掘調査により、大きく4つの時期に区分出来るとか。」
           1期 7世紀後半に創建され、9世紀前半まで  現存する遺構は、塔跡のみ。
           2期 9世紀半ばには再建され、2ヶ所に3棟発見。伝承の仁平2(1152)年より古い10世紀中ごろに火災で焼失。
           3期 火災から間もなく、伽藍を再建 釣鐘を作成した炉の基礎部分が見つかるが、建物跡は、発見出来ず。
           4期 鎌倉〜室町時代の巨大な本堂と参道沿いにも多数の堂が存在。最盛期は、13〜15世紀。満月坊なる僧坊あり。

          * 麓の江岩寺に伝わる「大山寺縁起」の伝承と異なる歴史となっているとか。*
        中嶋氏と同様な見解は、http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/event_1/events/bunkazai/16053.html  にも述べられています。
          以下の年表は、上記 16053.html からの抜粋          

大山廃寺の年表
白鳳時代 7世紀 大山寺の創建(区分1)
奈良時代 8世紀 塔跡など瓦葺礎石建物伽藍(区分1)
奈良時代 8世紀 多種類の瓦(白鳳・奈良時代)を使用(区分1)
奈良時代 8世紀 塔跡の焼失(区分1)
平安時代 9世紀 平安時代初期の瓦を使用(区分1)
平安時代 10世紀 非瓦葺掘立柱建物伽藍(区分2)
平安時代 10世紀 建て替えた建物もある(区分2)
平安時代 11世紀 火災(伝承では仁平2年)(区分2)
平安時代 11世紀 伽藍の再建(区分3)
平安時代 12世紀 (建物跡は発見されていない)(区分3)
鎌倉時代 13世紀 非瓦葺礎石建物伽藍(区分4)
鎌倉時代 13世紀 巨大な本堂、多数の堂宇(区分4)
室町時代 14世紀
15世紀
16世紀
大山寺の最盛期と思われる(区分4)

          
           2.大山廃寺 1期
        発掘調査から 「7世紀後半に創建され、9世紀前半まで  現存する遺構は、塔跡のみ」とか。
                  或いは、「最初に造営された大山廃寺は、現在残る塔跡の他に、稚児神社境内にもいくつかの建物が建てられていた。ここで
       使われた白鳳時代から奈良時代の多量の瓦が当時の建物の壮大さを物語っている。」と。
        (上記は、http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/event_1/events/bunkazai/16053.html  からの抜粋)

                  文献的には、以下の記述からも類推できるかと。
        ・ 大山廃寺の創建は、以下の通りかと。
                    一宮市史 本文編 上、犬山市史 通史編 上 にも、尾張 古代寺院創建時の編年として、一覧表があります。
            7世紀中   丹羽郡 長福寺廃寺
                    葉栗郡 音楽寺
                    愛知郡 元興寺。

            7世紀後半 丹羽郡 伝法寺廃寺、川井薬師堂廃寺、御土井廃寺。
                    葉栗郡 黒岩廃寺、東流廃寺。
                    中嶋郡 東畑廃寺、三宅廃寺、薬師堂廃寺。
                    春日部郡 弥勒寺廃寺、勝川廃寺、大山廃寺、観音寺廃寺。
                    山田郡 小幡廃寺。海部郡 甚目寺、法海寺、清林寺、寺野廃寺。
                    愛知郡 極楽寺。
                    知多郡 法海寺、奥田廃寺、大高廃寺。以上でありました。

           * 拙稿 春日部郡東北部 現 大山地区にあった古代寺院 大山廃寺の軒丸瓦の文様について  も参照されたい。

        ・ 現存する遺構は、塔跡のみという記述だけでなく、「稚児神社境内にもいくつかの建物が建てられていた。ここで使われた
         白鳳時代から奈良時代の多量の瓦が当時の建物の壮大さを物語っている。」とか。上記拙稿も同様な事柄を述べています。

          現 ちご神社の西側の山頂に遺構は、塔跡の基盤のみ現存している。また、稚児神社境内から出土した白鳳時代から奈
         良時代の多量の瓦から、稚児神社境内にもいくつかの建物が建てられていたと推測できましょうか。

          その時代をほうふつとさせる記述は、「古代の寺院といえば、大和の諸大寺のような規模の伽藍が想像されるが、実体はど
         うであったろう。(中略)尾張国の寺院跡で塔の存在が確認されているのは、国分寺の他に長福寺廃寺・黒岩廃寺・東流(畑
         カ)廃寺・大山廃寺・甚目寺・法海寺である。これらの寺院は、塔以外の建造物が定かではない。
           『出雲国風土記』記載の新造寺院は、後進国寺院の実体といわれるが、巌堂(金堂)や塔のみのものがあり、(中略)尾
          張国の遺構が明らかでない寺院のうちには、『出雲風土記』記載のような一塔あるいは一堂のみの寺院があったのではな
          かろうか。」(一宮市史 上 P.149〜150 参照)という記述は、頷けるものがあります。

           また地方豪族建立の私寺は、白鳳時代(奈良時代前期)の造寺奨励策によって建立され、急激に増加したとも言われ、
          そのような結果、尾張には、奈良時代末までに約30ヶ寺が次々に建立されたようですが、大部分は、維持管理面で不具
          合(創建した豪族の没落等カ・私寺維持の必要性が無くなったカ)が生じたのでしょう廃寺化の道を歩んだものと思われます。

           「造寺現象が直ちに地方豪族の仏教信仰の深さをあらわすのではなく、むしろ、中央文化に対する彼ら地方豪族のあこ
          がれを象徴するものであろう。彼らの支配下にあった共同体成員が、小規模ながら彼らと同じような古墳を築造し始めた時、
          地方豪族は、より新たな地位の象徴を美しい伽藍・威厳に満ちた仏像に求め、共同体成員の独立的傾向により、不安定さ
          を強めた首長層の権威を補強する役割を期待したのではなかろうか。」(一宮市史 上 P.137引用)云々は、傾聴すべき
          言葉ではあろうと推察いたしました。

           実際、地方豪族の私寺は、伽藍配置の寺院ではなく、一塔或いは一堂の寺院カであったのでしょう。
           春日部郡東北部一帯の後期古墳群は、尾張氏一族と共に成長した在地の有力者の墓カ、その中へ異様な瓦葺の塔の建立。
          他を圧倒する建造物とも取れそうではあります。 

          大山廃寺を創建した人物は、誰であったのか。確実な文献は、存在していないのですが、この地域には、伝承として、残って
         いる場合が、僅かではあるようです。詳しくは、拙稿 旧 春日部郡の下末古墳について  を参照されたい。

        ・ 本国神名帳 写本(愛知県図書館所蔵  https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103267241-001.pdf  参照)
          「従三位 別小江(ワケヲエ)天神 1ニ(入カ或いは大カ・・私の注)江ニ作ル 神社考燈曰乎江神社若子宿禰( 更に隣の行には、)
         按旧事紀物部印葉連之弟大別連カ」とある。確かに別小江神社は、現 庄内川右岸に存在している。
          その当時の従三位 別小江(ワケヲエ)天神に比定出来ればですが・・・・。とすれば、入江ではなく、大江(庄内川に比定出来る。
         ・・・私の注)でありましょう。
          著者 天野信景。貞観延喜旧式参考国帳数本・本州神名帳一篇と伊勢神宮神主 度会延経の話を基に記述されたようです。
              宝永4 年(1707年)自序; 出版書写年カ

       ・  【延喜式神名帳】乎江神社 尾張国 春日部郡鎮座なる記述がある。乎江ー>魚江ー>宇江カ 

          若子宿禰とは、尾張馬身の子 若子麻呂の事ではなかろうかと推測する。乎江神社と若子麻呂の間には、何らかの関わり
         があったという伝承の存在を推測したのは、著者の天野氏自身であるのかも知れません。また、本国神名帳には、「従三位 
         乎江天神 魚江天神カ」とも記述され、式内社として記載されています。

          (尾張馬身については、拙稿 壬申の乱時 在地の有力者 尾張馬身について を参照されたい。)

          「尾張馬身の嫡子?が、若子麻呂・牛麻呂という大宝2(702)年の両名を認めれば、馬身(7世紀代の人物)は、尾張大隅と
         は、同時代人であり、大隅は、愛知郡の評造カ、馬身もまた尾張草香以降の末裔の可能性を推測するのは、以下の書物。

          新修名古屋市史は、「馬身は尾張国内の評造の一人として参戦した人物であったのではなかろうか。」とも推測され、愛智郡
         外の人物と捉えられているようで、「尾張氏主流家ではない、傍系であり、」その当時の尾張国守(小子部さひち)も一目置く存
         在として把握されているかのようです。

          案外、尾張一国全体を尾張連馬身(実は、尾張氏考の尾張連「多々見」と同一人物とみなせば、尾張国全体を手中に収めて
         いた人物であり、尾張国内は、その後、二分割乃至三分割して実子達が、分割支配していったとも推測できるのではないかと。
         ・・私の注)が、支配し、大隅は、壬申の乱時、自由自在に動いていたともとれそうです。馬身死去後、分割支配の端緒について
         いた可能性もありましょうか。
          それが、8世紀初頭頃から郡司名(○○郡大領名に尾張氏一族名が出てくる。・・私の注)として出てきているのではないかと。            

       *  この記述を読まれた方、史実と即断されませんように!! あくまで推論に過ぎません。(筆者より)* 

        確実な事柄は、以下の記述であります。  
        郷土誌かすがい 第4号内に {「春日部郡の豪族と古寺址」と題して久永春男氏の論述があり、「春部郡を本貫としたこと
       の確実な豪族として、尾張連一族がある。『寧楽遺文』の歴名断簡であります勘籍(カンジャク){中巻 平成9年版 P.539 下段
       参照}に、尾張連牛養年廿七 尾張国春部郡山村郷戸主 大初位下 尾張連孫戸口 という記載が見られる。大初位下といえば、
       郡の主帳級の位階である。という記述もある事を付け加えておきます。}
        上記『寧楽遺文』の歴名断簡であります勘籍(正倉院文書)は、何年かは不祥。
        かなりの数(100名余分)が一括表記されている点、年代は新しいと推測します。通常は、何年の戸籍参照と記述されますが、
       そうした記述はなく、只 大初位下の尾張連孫と記載。位階としては、最下層でありましょうが、天皇家へのかなりの勲功がなけ
       れば、無位の家柄では与えられないのでは・・・・。

        * 勘籍とは、「8世紀初めに大宝律令や養老律令が制定されたことで完成した律令体制下、戸籍をさかのぼって身元を確認
         する行政手続き。官人の登用や僧侶になる場合に実施され、確認ができれば課役負担を免除された。犯罪で刑罰を受ける
         際にも行われた。10世紀半ばまで制度として存続したとされている。」とか。*         

       < 大山廃寺は、9世紀前半まで存続と中嶋氏は、記述されていますが、そう推察された根拠は、何なのであろうか。中嶋氏の
        論述では、結論のみであり、そのように記述される事柄も併せて述べていただけると分かり易いのですが・・・・。>

                或いは、以下のような事柄と関わっているのかも知れません。
       * 勝川遺跡は、地蔵川沿いに出来た集落であり、川を挟んで広範囲に遺跡が分布しているようです。現 春日井市勝川町・長
       塚町・町田町に所在する遺跡であります。

         庄内川右岸に位置し、庄内川によって形成された標高11mの沖積低地と、その北の鳥居松段丘面 標高13mの洪積台地
       の縁辺部に立地しているという。

        勝川遺跡は、弥生時代中期後葉に集落が形成され、弥生後期・古墳時代前期初頭へと継続されていたとか。その後一旦途
       絶え、5世紀後半〜6世紀前半にかけて勝川古墳群を形成し、6世紀後半以降は、再度断絶し、8世紀前半頃(7世紀後半とい
       う説もあります。・・現在は、7世紀後半が有力視されているかと。・・私の注) 勝川廃寺が造営され、9世紀後半まで継続したよ
       うであります。 (勝川遺跡については、http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo04/0402higami.pdf   「春日井市勝川遺
               跡出土 木製品の再検討」 樋上昇氏の論考を参照されたい。)
                 
        勝川遺跡は、「弥生時代中期後葉に集落が形成され、弥生後期・古墳時代前期初頭へと継続されていたとか。その後一旦途絶
       え、5世紀後半〜6世紀前半にかけて勝川古墳群を形成し、6世紀後半以降は、再度断絶。」6世紀前半頃カ、勝川の二子山古墳
       を集大成として築造したのであろうか。
        注目すべき事は、「勝川廃寺の周辺には春部郡衙が存在する可能性があり、62F 区 NR01 から出土した祭祀遺物群は一寺院
       にかかわるものではなく、郡衙における祭祀行為にかかわる蓋然性がより高くなったといえよう(樋上 2001)。」と述べて見えること。
        果たして、春部郡衙は、どこにあったのだろうか。勝川遺跡群の集大成が、二子山古墳と位置づけられるのかどうか。

        繰り返しになりますが、7世紀末以降の春日部郡に関わる確かな事柄は、郷土誌かすがい 第4号内の「春日部郡の豪族と古寺
       址」と題する久永春男氏の論述を記載します。
        それによると、「春部郡を本貫としたことの確実な豪族として、尾張連一族がある。『寧楽遺文』の歴名断簡であります勘籍(カンジ
       ャク){中巻 平成9年版 P.539 下段 参照}に、尾張連牛養年廿七 尾張国春部郡山村郷戸主 大初位下 尾張連孫戸口 と
       いう記載が見られる。大初位下といえば、郡の主帳級の位階である。という記述もある事を付け加えておきます。」
        上記 『寧楽遺文』の歴名断簡であります勘籍(正倉院文書)は、何年かは不祥。
        かなりの数(100名余分)が一括表記されている点、年代は新しいと推測します。通常は、何年の戸籍参照と記述されますが、
       そうした記述はなく、只 大初位下の尾張連孫と記載。位階としては、最下層でありましょうが、天皇家へのかなりの勲功がなけ
       れば、無位の家柄では与えられないのでは・・・・。とすれば、尾張大隅系では無い、尾張馬身系の人物ではなかろうかと推測い
       たしますが、どうであろうか。
             
        また、7世紀後半には、<参考> 南海地震     東南海地震    東海地震 が起こった。
                     白鳳期   684年      (684年)      (684年)    ( )内の年代は、津波堆積物にて確認された。

        とすれば、勝川廃寺は、地震三連動以前に建てられていたのであれば、鳥居松面上の立地であるようですから、倒壊を、免れた
              のでしょうか。しかし、地震以後に建てられたという可能性もありえましょうか。勝川廃寺の軒丸瓦は、藤原京(694年造営)と同笵
              であり、地震以後の可能性が高いと思われます。国府近くの東畑廃寺は、白鳳期(684年)の地震三連動に遭遇したと思われます。

       7世紀末頃、この地域を襲った地震三連動により、相当な被害が出たと推測出来る。この為、「彼らの支配下にあった共同体成員
      が、小規模ながら彼らと同じような古墳を築造し始めた時、地方豪族は、より新たな地位の象徴を美しい伽藍・威厳に満ちた仏像に
      求め、共同体成員の独立的傾向により、不安定さを強めた首長層の権威を補強する役割を期待したのではなかろうか。」(一宮市史
      上 P.137引用)は、頷けるものがありましょうか。

       国造系の後の郡司層(この当時は、評造カ)が、廃寺を創建しえた者たちであった可能性が高いのでしょう。

       発掘で知られた事からですが、勝川遺跡は、旧 地蔵川と八田川水系流域に存在していること。この勝川遺跡周辺に春部郡衙
      が存在する可能性が高いかのような指摘。
       また、大山川水系の支流域 現小牧市名鉄小牧線 間内駅南西寄りにあります。( 平成15年9月  南外山東浦遺跡 第3次発掘調査 
      現地説明会資料からの抜粋)
       「  平安時代の柱穴、溝、井戸などの遺構と須恵器や灰釉陶器などの遺物も多数発見され、掘立柱建物と塀または柵列が確認されました。特に注目されるのは、
         堀形のある柱跡が見つかったことです。これは、寺院や官衛(古代の役所)を建てる際の建築技術で、 この遺跡は、単なる集落とは異なる性格・役割のもので寺
         院や役所が存在した可能性もあります。」と。この辺りは、古代の春部郡山村郷に比定できる地域かと。
        この二つの春部郡衙に関わる記述は、時期的には、勝川遺跡の方が、早い時期の春部郡衙であろうか。

        後日に期したい。

     3.大山廃寺 2期
        「9世紀半ばには再建され、2ヶ所に3棟発見。伝承の仁平2(1152)年より古い10世紀中ごろに火災で焼失」
        年代的には、850年〜950年のほぼ100年間カ。発掘当時、整地された地層からは、大量の灰層が確認され、焼失したと推測
       出来るかと。そして、その層から出土した土器類から、10世紀中ごろの物が出ているとか。

      < 参考 >
                < 10〜12世紀頃の 尾張国司・丹羽郡司の流れ >
                                          990〜994カ
                                  良峰季光           
                      974   975〜   985〜988 989    993・1001・1009 1008    1012    1016   1040〜1043
               国司   藤原連貞藤原永頼 藤原元命藤原文信   大江匡ひら  藤原中清 藤原知光 橘経国 橘 俊綱(藤原頼通の次男)
       郡司 (椋橋)美並   椋橋頼利 良峰松材 (空白7年) 海(部カ)宿禰某                  椋橋宿禰惟清
          926〜955     955〜969 973〜989              996〜?                     1031〜?
                                   
               * 985〜988年の3年間は、あの悪名高い受領 藤原元命が、尾張国に赴任。国造系の在来の尾張氏一族は、郡司として、立ち居
       振る舞いが出来得ていたが、受領 藤原元命によって、徹底的に絞り取られ、没落に拍車がかかったかのようです。

       とすれば、850年〜950年のほぼ100年間は、郡司として、尾張氏一族が、在地では、それなりの権勢を奮っていた頃でしょうか。

        <参考> 大宝令制下以降での帯位授受から知られる尾張連氏一族の動向は、下記の通りであります。
              「和銅2(709)年   外(ゲ)従五位下 愛知(智)郡大領 尾張宿禰乎己志(オコシ)・・・・(大隅直系 海部直祖カ 私の注)
               天平2(730)年頃             春日部郡大領  尾張宿禰人足(ヒトタリ)                                                                                    
               天平6(734)年頃             海部郡(アマグン)郡領(?)  尾張連氏一族」
                                      (以上の事柄は、「古代貴族と地方豪族」 野村忠夫著 吉川弘文館 平成元年刊 P.25 参照 )

               8世紀半ば頃(聖武天皇治下)       中嶋郡大領   尾張宿禰久玖利(ククリ) ・・日本霊異記の説話より 」

        この時期の大山寺は、瓦を使用しない堀立形式の萱ぶき屋根の草堂 2ヶ所で3棟が創建されていた。何らかの理由で10世紀
       中頃に焼失したようです。この当時の2期目の大山寺を支援したのは、尾張氏一族であった可能性が高い。

        この時期に、未開拓の地域が、開発されていった可能性も高く、熱田社を中心とした尾張氏一族の力が、推測出来得る。
        上村氏もまた、「この林・阿賀良村両村の開発主は、熱田大宮司家であろう。」(尾張の荘園・国衙領と熱田社 P.378参照。)
       と推測されているようです。私も同感であります。

    4.大山寺 3期
       発掘調査から「火災から間もなく、伽藍を再建 釣鐘を作成した炉の基礎部分が見つかるが、建物跡は、発見出来ず。」とか。
       推測でしかないのですが、鎌倉期以降の建物が、その当時の建物跡に再建されたとすれば、建物跡は、見いだせない可能性も
      ありやなしやか。

       最新の研究成果では、「野田郷(春日井市)、林村(小牧市)、阿賀良村をも合わせた 範俊開発 地域の広がりとその地理的状況、
      国司 平忠盛と郡司との主導のもとに一円立荘された篠木荘の経緯を勘案するならば、春日部郡東北部一帯の開発領主とは、天養
      元(1144)年当時の郡司 橘氏一族とみるのが自然であろう。」(講座 日本荘園史 5 P.359 上村喜久子氏記述書参照 )と。
       同書 P.344には、「散在型荘園から一円型荘園への移行(例えば、篠木荘等)の背景には、郡司・郷司ら一族と国司との結託が
      推察される。」とも記述されています。

       この天養元(1144)年 当時の郡司 橘氏一族とは、どのような氏族であったのであろうか。上村氏は、その点明快ではない。
       推測が許されるのであれば、この橘氏とは、丹羽郡郡司 良峯氏一族であり、一族は、二ノ宮大宮司でもあり、丹羽郡の郡司でもあ
      り、橘氏と名乗る一族もあったやに良峯氏系図上から知る事が出来るようです。( 続群書類従 参照 )可能性は、低いかと。

               或いは、摂関家で、頂点に立った藤原氏の実子(伏見修理大夫・橘俊綱は宇治殿・藤原頼通の子)が、尾張国へ赴任し、その当時
      権勢を欲しいまましていた尾張熱田社一族を打ち負かすだけの力を備えた国司の存在(宇治拾遺https://www.koten.net/uji/yaku/046/  
      参照)として逸話の形で残っている。橘氏一族とは、この橘俊綱系の者達ではなかろうか。あくまで、推測に過ぎません。
       伏見修理大夫・橘俊綱(宇治殿・藤原頼通の次男)の尾張国での在任期間は、1040〜1043年であり、この間に、在地での権益を残した
      と推測する。そして、60〜70年後には、春日部郡域内東北部に、大山寺が、再興される事になるのかと。

       或いは、このあたりの事として、大山廃寺の麓に創建された紅岩禅寺に残る的叟著 「大山寺縁起」( 寛文8年 )が、雄弁に語っ
      ている。この書物を記述した的叟なる者、江戸時代初期頃の人物であれば、12世紀初頭の頃の事柄を何で知りえたのであろうか。
       伝承か、或いは、焼失した旧大山寺に残る書き物等から知りえたのかもしれない。それ故、この史料は、更なる検討が必要であり
      ましょう。一級史料とはなりえないかも知れませんが・・・。

       「永久年中(1113〜1117年)に、叡山 法勝寺 住職 玄海上人が、掘っ立て式、草葺寺院を再興され、この大山寺を大山正峰
      寺と改称。」(この記述が、史実であれば、橘氏一族が、玄海上人を招聘した可能性も視野にいれていいのではなかろうか。・・筆者
      推測)

       *
承暦元(1077)年12月 法勝寺八角九重塔模型(京都市蔵)白河(現左京区岡崎)に法勝寺が創建される。いわゆる「六勝寺」の初めで,これ以後,白河地域に多くの寺院・院御所が建てられた。4年後,法勝寺に高さ81メートル(推定)の八角九重塔が建立される。
                 上記法勝寺が、叡山 法勝寺と同一であれば、相当格式が高く、院政期の中でも、受領として地方に権益をつくりえた橘一族(橘氏
        一族とは、この橘俊綱系の者)であれば、叡山 法勝寺 住職も、口説く事は、それ程難しい事でもなかろうかと推測いたしますがど
        うであろうか・・・・。
         法勝寺については、こちら、 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi06.html  も参照されたい。* 

        * http://tendai.jp/download/sanpai.pdf も参照されたい。以下 pdfからの抜粋でも、同一の寺ではないかと・・・。
         「滋賀院門跡II京都の北白川に在って、歴代天皇の御授戒の寺だった法勝寺を慈眼大師天海大僧正が、今の地に移して、明暦元
        年に後水尾天皇から滋賀院の院号を拝戴しました。延暦寺の本坊に充てられています。」*

       この12世紀初頭の40年間が、東の延暦寺、西の大山寺と並び称せられた時期かと思われます。丁度中央では、院政が始まった頃
      でありましょう。
       その頃、手に負えなかったのは、畿内では、延暦寺の僧兵が、神輿を担いで強訴を繰り返したこと。同じような事は、北陸一帯での
      白山社の山門の兵があり、神輿を担いでの強訴であったかと。三井寺(寺門派)と比叡山(山門派)の対立も激化していったかと。

       ご多分にもれず、この大山一帯でも、尾張白山社(平安末頃には、既に創建されていたかのようです。現白山神社とは、違うようです
      が、鎌倉期の林・阿賀良村が、地頭 円覚寺に提出した申し状等参照・・筆者注)は、再建された大山寺近くにあり、白山社と天台宗と
      の間には、何かしらの繋がりが垣間見られるのでは・・・。

       * 詳しくは、拙稿  鎌倉末期頃の春日部郡林・阿賀良村についての再考  を参照されたい。

       国衙領であった現 小牧市野口村・石丸保に於いては、この村の近くに 再建されたのが、大山寺であり、この寺は、天台宗 比叡
      山 延暦寺と同じ宗派でもあり、郡司とは何らかの繋がりがあったのでありましょうか。この大山寺と延暦寺は、同じ宗派であり、近衛
      天皇(美福門院の子)とも何らかの繋がりがあり、この天皇からの問い合わせで本山である延暦寺と法論となったかと。相容れない法
      論であったやに聞き及んでおり、それが元で焼き討ちにあい大山寺は、大部分が消失したかと。「仁平2(1152)年3月15日消失す。
      」という。しかし、過去の大山寺の事を、別当が、「其内の弥勒菩薩は焼け玉わず太鼓堂、釣鐘堂已残り居り」と申し述べているとか。

       近衛天皇(美福門院の子)治下の事柄カ。その後、近衛天皇の勅願で、稚児神社は、創建されたとか。

       大山寺は、新しい郡司の庇護のもとでありましょうか、寺自体は、在地支援等に関わっていたともいえましょうが・・。蛇足であります
      が、この大山寺より西に小松寺があります。現 名鉄 味岡駅よりやや東に位置しているのですが、この寺は、承安3(1173)年に創
      建されておりましたが、承久の乱(1221年)時、兵火にかかり消失の憂き目をみているのであります。
       大山寺にも近い小松寺の惨事の事を知るに付け、おそらく大山寺でも何らかの被害は、あったのではと推測いたしますが、それ以
      前に、大山寺は、焼き討ちに遭った直後(12世紀中ごろ)では、一部の建物しか残っておらず、細々と寺としての運営にあたっていた
      のでありましょうか。頼朝が、鎌倉に幕府を開く40年前頃の事柄では、ありましょうか。

       野口・大山の山々には、かの大山寺(12世紀初頭〜40年間が最盛期)・白山社が存在していたようで、この白山社は、張州雑志
      或いは、尾張府志では、「白山社の前身は、従三位 小口天神」とか。天野氏の「本国神名帳集説」には、この”小口天神”は、篠城
      ノ庄 野口村八幡ノ社か。と記載され、既に江戸期には、はっきりしない程に記憶は、薄れていたといえましょう。
       しかし、この地域は、山田郡域と想定されていた。

       とすれば、野口辺りが、山田郡の堺であり、その隣の林・池之内辺りが、春日部郡域の堺であったのであろうか。林・阿賀良村は、
      春日部郡域の端であり、山田郡と接していたのかも知れない。

     5.大山寺 4期
         発掘調査からは、「鎌倉〜室町時代の巨大な本堂と参道沿いにも多数の堂が存在。最盛期は、13〜15世紀。満月坊なる僧
        坊あり」とか。時期的には、鎌倉期のどのあたりからであろうか〜室町期のいつまでであろうか。

         律令制に伴う郡郷は、春日部郡・山田郡の堺は、どのようであったのか。歴史学上では、未解決の部分もあり、確定はしてお
        りませんが、鎌倉末期頃の林・阿賀良村の東隣に野口があり、鎌倉末期以降に「野口保」なる名称で登場してきております。
         その野口でありましょう。網野氏の言われる「新規の開発地でない、再開発地については、その当時”保”と呼称されていたの
        ではないか。」なる「保」であります。

         * 参考までに,この野口保の国衙領主で、判明している事は、『柳原資明{やなぎわら すけあきら、永仁5年(1297年)〜文和2
          年/正平8年7月27日(1353年8月26日)の人}で、鎌倉時代後期から室町時代前期にかけての公卿で、専ら持明院統の天皇
          ・上皇に仕え、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政によって昇進人事を無効とされると、これに激しく反発した。
           足利尊氏によって光明天皇が擁立され光厳上皇の院政が開始されると、改めて権中納言に任じられて、以後北朝の有能
          な実務官僚として活躍した。』(以上は、ウイキペデイア 柳原資明からの抜粋であります。最終更新 2011年4月5日  (火) 12:01
           )という。
        そして、この国衙領は、鎌倉期以降も存続し続けていた事は、鎌倉 円覚寺文書等で確認できます。

                  さて、柳原資明の系譜については、拙稿 建武の新政時 野口・石丸保の国衙領主 柳原資明の系譜 を参照されたい。

          この野口・石丸両郷は、下地は、円覚寺が差配していたようですが、国衙領主の存在があり、職分として、なにがしかの上
         納を円覚寺は、論争の末 和議に至っております。
          拙稿 尾張国 富田荘・篠木荘地頭請 円覚寺の年貢米移送と篠木荘内国衙領との和与について を参照されたい。

          当初の国衙領主が、誰であったのかは不明でありますが、その後、柳原資明から彼の実弟賢俊が座主をつとめる醍醐寺
         三宝院(国衙領主)に請け継がれたようであります。
          「文和2(1353)年7月には、円覚寺から野口村分として、5貫文、石丸保分として、20貫文が、正税として三宝院へ納めら
         れていた。」(小牧市史 通史 P.101 参照)ようであります。
                      単純に考えて、野口も石丸も土地の質が同じであれば、その広さは、石丸は、野口の4倍位であった可能性がありましょうか。
         この推測でいけば、大草は、野口よりは、広さがかなり広いかと。むしろ、4倍に相当するのは、近い所では、池之内辺りの方
         が、妥当性がありそうでしょうか。しかし、この池之内は、平安期、篠木庄ではなく、味岡庄に属していたのではなかろうか。
          とすれば、やはり、石丸保は、大草の可能性が大でありましょう。*

          味岡荘については、拙稿 春日部郡東北部の味岡荘について  を参照されたい。

         その一端として、記録にあらわれるのは、拙稿 大山寺・円福寺の地頭 円覚寺に対する苅田狼藉事件の一考察 でありましょ
        う。時期としては、鎌倉幕府が倒れ、建武の新政期の雑訴決断所へ提起された事柄であるようです。訴えたのは、辛うじて地頭請
        を維持していた円覚寺であります。

         「当然、苅田狼藉は、問われましょうが、14世紀中ごろの尾張 篠木荘での出来事であり、地頭 円覚寺は、領国支配を志す
        兆候はなく、あくまで荘園制下の地頭請での支配地の実入りのみに拘っていたのでしょう。

          対する大山寺・円福寺は、荘園制下の名田を寺田として、自ら作付けしていたのか、請け作をさせていたのかは、史料があ
         りませんので、不明でありますが、何某かの田からの収益があったと思われます。或いは私出挙を行っていた可能性を否定
         はできないのでは・・。

          そして、一番大事なことは、鎌倉幕府作成の御成敗式目の条に、問題となっている次の条文があるという事でしょうか。
          { 結論から言いますと、苅田狼藉後の田に麦を作った場合、その麦には、地子は掛からないという条文があるという。
          追加法 第430条 「諸国百姓苅取田稲之後、其跡蒔麦」という田麦について、「領主等」が、徴収すること「租税之法、あに
          可然哉」として禁じた「撫民(ぶみん)法」とも言うべき法の存在があるという。
           この「領主等」に該当する者は、本所・国司・領家に年貢を負担する存在として捉えられているという。(式目 618条)}
           (  網野善彦著 「日本中世の百姓と職能民」 平凡社 2003年 参照 )

         大山寺の座主は、博識であり、当然このような事柄をわきまえていた事ではあり、その上での苅田狼藉ではあったのでしょう。
         果たして、不作 故の暴挙であるのか、剰余物の留保を狙った行為であったかは、分りませんが、天変地異等による果ての止
        むにやまれない行為を口実にした寺側の窮余の一策ではあったのでしょうか。

         雑訴決断所の裁可は、国衙から両寺の僧都の出頭を命じている事に鑑み、国衙も共に絡んだ事柄であったのでしょうか。
         建武の新政では、旧来の体制に戻す方向で在地も進んでいた折、国衙と寺側は、共謀したとも取れる事件でありましょうか。
         或いは、この当時、国衙に強い権限が後醍醐天皇による新政で委譲され、国衙は、その執行を委ねられたのかも知れません。
                    おそらく、後者の見解が正解でありましょう。

         真相は闇の中ではありますが、この両寺の行為は、決して暴挙ではなく、ある確信に満ちた行為ではあった筈でありましょう。

                    こうした事柄は、ここ大山寺・円福寺の一件のみではなく、この後、広く、室町幕府より守護宛に苅田狼藉取締りの権限が、与
        えられている事から類推できる事であり、この当時のある種一般的な抵抗・抗争の表れであったとも取れましょうか。

         延暦寺の焼き打ち後も、大山寺は、その後再興し、しぶとくその存在を残していたのでしょう。

         * 参考までに「現 春日井市熊野町にある医王山薬師寺密蔵院は天台宗延暦寺派の中本山で、嘉暦3年(1328)慈 妙上人(じ
         みょうしょうにん)によって開山されました。鎌倉末期の頃に創建されたようです。とすれば、大山寺と密蔵院は、同じ天台宗で
         あり、建武の新政時頃は、間違いなく並立していたと推測できる。そして、徐々にこの地域の天台宗延暦寺派の中核の地位を
         無くし、大山寺は、消滅していったと推測いたします。*

         もう一件は、この当時の大山寺に関わる事柄かは、判明していませんが、記録として出てくるのは、「熊野修験」 宮家 準著 
        吉川弘文館 平成4年刊に{久保山から更に東へ行ったところにある小松寺は、「熊野修験」 P.166に、「室町期・戦国期の先
        達に、小松寺(小牧市 真言宗 境内に熊野社)の蓮光院とあり、更には、春日部郷(春日井・小牧市)の檀那(熊野に参詣した
        り、寄進する人の事であるようです。・・筆者注)を導いた大山寺(小牧市天台宗)の大進坊なる。」記述があります。}

         果たして、この当時(室町・戦国期)の大山寺に大進坊なる僧坊があったのかどうか。私は、この大山寺は、現 岩倉に存在して
        いたタイサンジ(大山寺と書き)と呼称されたお寺の可能性が高いのではないかと推測していますが・・。しかし、満月坊なる僧坊の存
        在は、出土土器からうなづけましょう。

         そして、この地域の本庄・林・野口等々は、応仁の乱(1467年から1477年まで、11年もの長きに渡って続いた内戦)前後で、当
        地では、大きな天変地異(山津波カ)が起こり、旧らいの在地状況は、完膚無きまでに壊されつくしたと推測する。4期目の大山寺
        は、旧来の在地状況に依存していたとすれば、天変地異には、いかんともし難く、財政状況の悪化と共に、没落していくしか無か
        ったかも知れない。

         * 例証として、「林村(野口村の隣村)の詳雲寺の創建が、文正年間(1466年)とか。」小牧市史・及び篠岡村誌に記載されてい
         ます。「このお寺は、現在は、高台に存在していますが、古くは、林村の三明社の西隣に建立されていたとか。」(詳雲寺元住職
         さんからの聞き取り)推測ではありますが、鎌倉末期に林村に存在した長源寺跡に、文正年間(1466年)に盛禅和尚が、創建
         したのではないかと。(ここが、村誌に記述されている旧詳雲寺ではなかろうか。応仁の乱(1467年)が起こる一年前の創建で
         あったかのようです。)また、現 林村の方には、全く長源寺の伝承は、皆無であるようです。
          推測が正しければ、鎌倉末期に存在した長源寺は、応仁の乱の起こる前には、既に存在していなかった事になりましょうか。* 
     
         そして、戦国期には、それ以前の村人は、姿を消し、そっくり村人が入れ替わったかのような状況が、みてとれる。
         それ故、大山寺の歴史は、村人が、入れ替わった村々では、伝承として残りえなかったと推測する。付けくわえて言えば、野口
        にかって存在した宝積寺(「宝積寺は、野口村に宝徳2(1450)年創建されたとか。」昭和2年刊 篠岡村誌 参照)の伝承は、江戸
        時代の野口村の住民には、伝わっておらず、その隣の大草村には、江戸時代まで、辛うじて伝承されていたかのようです。
         「只 大山村には、新年には、松飾りを軒先に飾らず、しいの木を飾るとか。ちご神社を創建する為に国から派遣された四位(シ
        イ)の身分の方にちなんでしいの木を飾るとか聞く。」(入谷氏の論述から)


                                                           令和2(2020)年4月6日 最終脱稿
                                                           令和2年4月11日 一部改訂・加筆